(第ニ章)から続きます。
【李珍宇・小松川事件について】
・1958年4月20日、賄い婦の田中せつ子さんが殺害される。
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・1958年8月17日、東京都江戸川区の東京都立小松川高等学校定時制に通う女子学生(当時16歳)が行方不明になる。
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・1959年2月27日、李珍宇(在日韓国人)は犯行時18歳であったが、「賄い婦殺人事件」も含めた殺人と強姦致死に問われ、に東京地裁で死刑が宣告。
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・二審もこれを支持、最高裁も1961年8月17日(被害者の命日)に上告を棄却し、戦後20人目の少年死刑囚に確定。事件の背景には貧困や朝鮮人差別の問題があったとされ、文化人や朝鮮人による助命請願運動が高まった(自白だけで物証がなく冤罪という説もあった)。
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・1962年8月には東京拘置所から仙台拘置支所に移送(当時東京拘置所には処刑設備がなかったため)
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・同年11月16日に異例のスピード執行された。
小笠原和彦著『李珍宇の謎』の目次
第二章まで読んだ人は、ほとんど「珍宇は無実のはずなのに、それでも、犯行を否定しなかったのは、単に、世を憂えて自殺したかっただけじゃないか?その手段として死刑を選んだのではないか?」と思うと思う。管理人の私もそう思った。
【被告(獄中者)が自暴自棄になり、犯行を否定しないケースはありえる】
「死刑をなくす女の会」で活躍していた、作家でもある丸山友岐子氏は、彼女の書評で、「欧州では、自殺志願者が死刑を利用するケース」もあるとコメントしており、永山則夫事件の弁護人鈴木淳二氏も、“被告は捜査段階で警察から、色々言葉で責められ、気がめいってしまうことがある”的なことを言っている。
丸山友岐子氏についての参考資料→女たちの死刑廃止「論」(死刑をなくす女の会)
【教誨師が、珍宇に自分の意見を押し付けた?説】
丸山友岐子説:「獄中で、教誨師という名の死刑制度の協力者にからめとられ、神のもとに一日も早く旅立つことを幸せとしたためだろうか?」
明治大学辻本義男先生(犯罪学)の説:「自分の信仰を(獄中者に)押し付けてしまう教誨師もいるらしい。戦争に負けるまでは、教誨師はお役人だった。新憲法によって信教の自由ということで、いまはお役人じゃないわけですけどね。ですから、まだその意識をもった方がいると思われます」「問題は宗教懺悔にあると思う。教誨師が在監者にどんな話をしたのか、立ち会う人がいないから内容がわからない」
※管理人より。上に書いたのはあくまで一説なので、上に書いたことが100%正解という結論ではありません。この内容は、第三章の考察途中です。
【逮捕されたとき、笑ってしまう被逮捕者はいる】
左は珍宇、右は山地悠紀夫刑死囚(逮捕時の写真)
珍宇が逮捕時に笑っているのはなぜか?について。明治大学辻本義男先生(犯罪学)の説によると…「弁護士と話してみると、そういうパターンの人(被逮捕者)はいるみたい。冤罪かどうかは別にして、事件が大きいものだから、自分の感情を整理できず、そんな表情になる場合もある」
管理人私個人の意見だと、人それぞれだと思うが…開き直っているとか、突然報道陣にとりかこまれ、シャッターなんか一斉にたかれたら、笑ってしまうしかないとか、そんな感じではないかと思う。
【犯人がわざと自分の生活圏内で犯行を起すこともある】
第二章で、「わざわざ人は、自分の生活圏内で犯罪なんておかさないでしょう(だから、自分の通ってる高校でわざわざ犯行に及ばないのではないか)」なんて説が出ていたが…明治大学辻本義男先生(犯罪学)の説によると、『承認欲求が強いタイプだと、わざと、自分の生活圏内で犯罪をおかすこともある』という。要するに、警察から発見されたくて、わざと自分の生活圏内で犯罪をおこすタイプもいるということ。
【珍宇はカソリック信者なので自殺を図るなんて考えないはず説】
珍宇は、中学生の頃、クラスでも小柄な男子(東平氏)と仲良くしていたが、勤めていたカメト製作所でも、小柄な男性であった蒲生(がもう)孝鋭氏と仲良くしていた。やはり、カマト製作所でも、珍宇は、真面目で思いやりのある大人っぽい性格だったもよう。珍宇は職場でとけこんでいた。職場の人達も、珍宇が在日朝鮮人であることは知っていた。
蒲生氏は、クリスチャンで、プロテスタント。
珍宇は、子供の頃洗礼をうけ、「マチアス」というクリスチャンネームがあったが、珍宇がまじめにキリスト教の信仰を開始したのは、獄中に入ってからのようだ。
【ラジオで流れた真犯人の声について】
小松川事件が起きた後、ラジオに真犯人の声が流されたが、職場でそれを聞いていた、珍宇の同僚たちは、言葉遣いや声が、珍宇の声と似ていた、と証言している。しかし、その真犯人の声が流された8月29日、検察側証人として呼ばれた三沢勝治氏は、欠勤していたという。
にもかかわらず、三沢氏は、「職場のラジオで聞いた真犯人の音声は、珍宇の声に似ていた」と証言しているのだという。
【犯行に使われたナイフについて】
珍宇の自白調書によると、事件当日、弟から借りていたナイフをなくしたことに気がつき、珍宇は、小松川高校近くの文房具屋でナイフを買って、それを被害者につきつけた、となっている。しかし、実際、事件当日、珍宇にナイフを貸したのは、蒲生氏だという。そして、その蒲生氏の供述はなぜか取り消されている。
【事件当日、珍宇は職場に遅刻しているが…】
女子高生の事件当日、珍宇は職場に8分遅刻し、8:08に、職場に着いた…ということになっている。
真犯人が、読売新聞に電話をして、電話を切ったのは、8:06。
その電話ボックスの場所と、珍宇の職場まで、たった2分で移動しなければいけないが、珍宇の職場とその電話ボックスは3kmも離れており、競輪選手でも2分で着くのは無理。その職場にタイムレコーダーがあれば、珍宇のアリバイは成立したかもしれなかった。(その証拠まで、警察がもみ消さなければね
)
【珍宇は再審請求書を作成していたという、驚きの事実】
珍宇は、犯行をあまり否認せず、そのまま、22歳で死刑になってしまった男の子…というイメージがあるが…実は珍宇は、処刑される二ヶ月前(9月)に、再審請求書を作成している。(珍宇が処刑されたのは、1962年11月16日)。なぜか、その再審請求書を作成したという事実を、『無実!李珍宇』の著者、築山俊昭氏は、知っていたにも関わらず、彼の著書に書かなかった。
そして、築山氏は、その再審請求書の写しもとらず、小林弁護士に郵送してしまったのだという。
再審請求書を書いたということは、珍宇は、審理のやり直しを望んだ、ということになる。その再審請求書の内容が、姦淫のみを否認したのか、犯行全てを否認したものなのかが、この第三章の時点ではわからない。
(第四章)に続く