元永山則夫支援者であり武田さんが発行していた、『沈黙の声』という会報に、たまに「試金石」というタイトルの別枠の評論が入るのですが、それを載せます。今回の内容は、「小松川女子高生殺人事件」についてです。
★「小松川女子高生殺人事件」の犯人として処刑された李珍宇の名は、70年代初頭位迄の闘争に参加した者の多くが、「在日朝鮮人への差別・抑圧ゆえの犯行」者として深く脳裏に刻みつけている。築山俊昭著「無実!李珍宇」(三一書房)は、そうした我々の根底をゆさぶる本だ
★事件自体は1958年8月である。当時、「犯人」が新聞社等に電話をかけたり、被害者の遺品を郵送したりした事もあって、連日マスコミで大きく報道された。〝新学期迄に犯人を逮捕する〟といっていた捜査当局は九月一日、同じ定時制高校の李珍宇を逮捕、18才でありながら氏名、顔写真が新聞で公表された
★李少年は逮捕後すぐ犯行を「自供」、以降確定判決まで一貫してその供述をかえなかった。一審死刑判決後、カソリック神父志村辰弥の教誨に彼は自らを託した。作家、文化人らによって「李少年をたすける会」が作られたのは、辛うじて期限に間にあった外からの上告後である
★著者は当初から事件に疑問をもち、「たすける会」にもそれを主張したが、情状減刑の運動路線と合わず容れられなかった。本書では、当時の新聞記事、裁判記録等をふまえて、「李珍宇事件」の矛盾点が克明に展開されている。-「女高生殺し」の犯人は、読売記者の引きのばしにより32分7秒という長時間電話をかけ、立ち去った直後。その電話ボックスに到着した捜査員は、犯人を目撃していた主婦と3人の小学生の証言をえている。
その際、犯人の自転車についていた花模様のサドル布団と、弁当様のものを包んだ紫色のフロシキについては、小松川署捜査一課長寺本亀義が李少年逮捕後の記者会見で「これが犯人のだ」とかざしてフラッシュをあびた。処がこの「決定的証拠」は押収記録になく、行方不明。押収されているのは、相当前に捨て塵捨て場から堀り出したサドル布団と、〝逮捕後〟家人がぬった新品。〝目撃者がいたので取りかえた〟という供述に合わせているのか
★何よりも「犯人」の体格の相違。電話ボックスにいた 「犯人」は1メートル56から70止まり。李珍宇は178.5センチ、体重70キログラムと大柄である。
電話ボックスという狭い空間内の印象は、かなり違うはずだ
★「犯人」は電話でドストエフスキー「罪と罰」の内容について語り、「フェチシズム」を〝ああ、愛物症というのか〟とこたえている。
処が李珍宇は著者との面会時、「罪と罰」は警察で読まされてはじめて読んだと語ったことがあり。「フェチシズム」の意味を知らなかった。後日著者に指摘されて〝猛然と反論〟する手紙の内容は、確かにその語の意味を知っていないことを示している
★逮捕後、李少年の近所で起った賄婦殺しの事件も彼の犯行とされ「自供」させられている。松川事件元被告阿部市次は李珍宇と「小松川女子高生殺人事件」を結びつける為にこの事件が利用されたのであろうと指摘している。当時、在日朝鮮人の帰国問題が日程に上っており、これに水をさす政治的意図のもとに、「在日朝鮮人」李珍宇がねらわれたのではないか、とも阿部は指摘している。大江健三郎はこの事件を「文学」と表現したというが、あくまで「李珍宇事件」は狡猾な権力政治の土俵上にあったのだ
★いまなら間違いなく無実を争われているであろうこの事件を、我々は「誤審による死刑」として追及する必要があるだろう。然しその前に私は、内容を読むまで、本書の題名に抵抗をおぼえていたこと、それが 「在日朝鮮人への差別・抑圧ゆえの犯行」という 「李珍宇」像への固執からくるものであったこと、その様な自分の内心を無視できぬ様に思うのである
★「差別・抑圧ゆえの犯罪」という構図は、「李珍宇事件」にその源を発している。人々にとって、事件は自己の日常性を根底から問い直すものであり、「李珍宇」は告発主体である。同時にその自分自身も、事件に通ずる様な何がしかの抑圧をその日常のなかで担っている。「李珍宇」は自分自身でもあるのだ。―今に至る迄、獄中の「犯罪」者を取りまく人々の中にこのパターンはくり返しあらわれる。自己への告発、自己への同一視。要するに良くも悪しくも、ありのままの相手をみてないのだ
★「差別・抑圧ゆえの犯罪」という「神話」は、いま一度揚棄されねばならない。それは 「犯罪」がなぜ起るかを説明出来るが、何故犯罪なのかは説明できないのだ。それは、行為者の前向きの責任―いかに生きるのかという問題にはつながらない。「―を殺すな!」という一方的支援・被支援の関係性しか生じない。そしてかつての差別・抑圧が強度であればある程、それは当面する現実から逃げる強固な楯としても機能するのだ
★李珍宇はなぜ、最後まで犯行を否定しなかったか。その説明は案外困難でないかも知れない。
日々の現実を自己形成の糧として吸収している18才の少年にとって、突然逮捕され、殺人事件の犯人として世にさらされた「現実」は、理不尽という前に、未熟な主体の了解可能な形で、まず受け止めるのがせい一ぱいではなかったか。「本当にやったかも知れない」という心理形成も、権力の密室内でやられたであろう。
普通、一審で極刑判決を出されることが無実を訴える転期となるが、その段階で教戒師がついている。(一審で終始否定した強姦を二審で認めたのはこの教誨師の影響による)教誨師の教える殉教のキリスト者像に自らを重ね、更には「朝鮮人死刑囚」という、周囲の形成した「李珍宇」像に同化することで、彼は理不尽な自己の現実を「生」きようとしたのではなかったか。それは「演技」ではなく、少年にとっての「自己形成」の過程に他ならなかったのだ
★「朝鮮人死刑囚」として死ぬことで、自己の現実に対峙しようとする李珍宇と、「在日朝鮮人への差別・抑圧-ゆえの犯行」として情状減刑を求める支援。そこに何の矛盾もない。「日本人」としての負い目が、真実を直視するのを妨げたともいえよう
★著者は再三、事実を示して李珍宇に無実を訴えることをせまった 、そのつど彼は〝はぐらかし〟たという。李珍宇にとってそれは、自己像を崩し去って現実に直接向き合う勇気を要する行為だった。著者にとってもそれは、《闘い》に他ならなかったであろう
★「李珍宇事件」の真実は、死刑囚を「支援」するとは、彼を「生」かすとは何なのかを厳しく問いかけている。仲間を生かすには、周囲の思惑に屈せず、仲間自身と「闘」うことも必要なのだという事も。(文中敬称略。尚。小笠原和彦『李珍宇の謎』(三一)も参考とした。)
抜粋以上
以下、管理人からのつぶやきと補足
最近、色々あり、私はモヤモヤしている。死刑反対派に不信感がなかったときは、自分の中の加害者感情の方を心の中心において、獄中者に同情し、迷いもなく死刑反対論を主張できたのに…死刑反対派の一部に不信感が少しでてきて、信頼できない、この人たちは私と違う、理想と違うと思うようになると、自分の中の、今度は被害者感情のほうがグググと頭をもたげてしまう。それは私自身のせいでもあるし、私以外の人たちのせいでもある。とりあえず…仕切りなおしていこう。
>あくまで「李珍宇事件」は狡猾な権力政治の土俵上にあったのだ
ああああ永山則夫の「静岡事件」…
は、いいとして、李珍宇について詳しくなりたい方は下の文献を漁ろう。だけど、みんな、当然古本。
李珍宇全書簡集
辞書か?!…お、おまえ、辞書なのか…!?という感じ。外見のみは。
李珍宇の謎~なぜ犯行を認めたのか~
無実!李珍宇
上の写真は、ここのものを拝借しました。
上の本2冊は、読んでないので内容がよくわからない(2013年3月時点)のですが、リンク先の文章がかなり参考になると思います。
リンク先から抜粋
>いまさら,あえてほじくり返して四面楚歌になるようなことはしたくないが,宇都宮にとっては気になる事件であった。
え、今、ほじくりかえすと、四面楚歌になるんですか?
その他参考資料
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ただ、これを読むと、冤罪どころか本当に李珍宇がやったようにしか思えない。
ネットに大量にある事件概要って、検察が作ったものを全部基にしてるのかな?だったら、この人がやったとしか思えない文章になってて当然だよね。