久々に学際のイベントに参加した。まちづくりや論文活動も再開するつもりだ。<o:p></o:p>
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河原町六条の京都市景観・まちづくりセンターで無料のセミナーが連続して開催されるが、その端緒。清貧の身には助かる。平安京からの市、町(ちょう:コミュニティ)、町(まち:街区、市場)の使い分けが面白い。学んだ内容は<o:p></o:p>
・朱雀大路の名称もだんだん東に移った<o:p></o:p>
・大路に「しまや」という仮設の市(10間で1間毎に区分)座売があった<o:p></o:p>
・座売(店形式)、立売(仮設形式)、振売(移動販売)の三種があった<o:p></o:p>
・たてまち(南北軸)からよこまち(東西軸)に、干しやすいからかも<o:p></o:p>
・焼き討ちと復興で新しい町や座(生産者集積)が生まれる→クラスター理論と同じですね<o:p></o:p>
・表造りの町屋は店、玄関、生活空間、蔵と街区の利用の縮図だ<o:p></o:p>
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質問の時間があり下記のお教えを乞うた<o:p></o:p>
①なぜ平安京の大路は現在のように狭くなったのか<o:p></o:p>
→広すぎで畑などの利用もあった。室町時代までに道は狭まったがもとに戻そうとしたが無理だった。その後、豊臣の調査の時点で追認となった。(屋台や建物での占有のようなものだろうか)<o:p></o:p>
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②街区に木戸があった期間は<o:p></o:p>
→戦国時代から明治まで<o:p></o:p>
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碩学は何でもご存知で楽しい時間が過ごせた<o:p></o:p>
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