逓信省が、民間に絵はがき製造を許可すると、大ブームとなりました。
十三回懸賞彩色絵葉書 岡山懸 大橋晋(一五)と印字されています。
おもしろいでしょと書かれた残暑見舞いです。
切手収集のため、切手をはがしてあります。
逓信省が、民間に絵はがき製造を許可すると、大ブームとなりました。
十三回懸賞彩色絵葉書 岡山懸 大橋晋(一五)と印字されています。
おもしろいでしょと書かれた残暑見舞いです。
切手収集のため、切手をはがしてあります。
兵隊さんは、児童から貰ったはがきはどれほどうれしかったことでしょう。
旅先(羽黒山)で、買って送るための分厚く堅い紙です。
切手の所に四銭と書いてあります。不定形なので一銭割増しのようです。
こちらは、横山隆一の「フクちゃんです」郵便貯金の定額貯金をした人に配られたようです。
切手は三銭貼ってあります。
同じ物ですが、こちらは五銭の切手が貼ってあります。
昭和19年までは三銭、20年は五銭となりました。
通常はがきのコーナーで書いたように、戦後の昭和21年には十五銭になったのです。
雑誌幼年倶楽部の付録です。
雑誌ひまわり昭和24年11月号の付録です。
切手は二円を貼らなければなりません。
6月、逓信省から郵政省になりました。
薄い紙質です。外国郵便の様な仕様です。
こちらは1918年(大正7年)4月以降の制作です。
1933年(昭和8年)から「郵便はかき」が「郵便はがき」になりました。
子供を描いた絵はがきです。
表面を見ると1907年(明治40年)4月から1918年(大正7年)3月の間に作成されています。
子供のいたずらが題材です。
次の二枚は1918年(大正7年)以降です。
昭和18年5月28日金曜日、朝日新聞夕刊、戦時中の新聞です。
海軍記念日に恩賞授与の記事。
柳本少尉に功二級。
裏面に、ご遺族の記事。
母の長兄が昭和17年満州で敵と刺し違えての戦死により、功七級を授与され、上官殿がその場の状況を巻紙に筆で書いて両親(母方の祖父母)に送られたそうだ。
地域の子供仲間の喧嘩などを上手に裁いて信頼される子供だった由。
何よりも総領息子を失った悲しみに、三年くらいの間、二人とも囲炉裏に向かったままで物も言わずじっと考え込んでいた。
戦後国から親に下がる特別給付金を、他人がうらやんだけど、あの悲しむ姿を思えば、と母は言っていた。
この年の1月に生まれた夫は10月に父が応召され、20年7月レイテ島で衛生兵、戦死。
母は病に倒れた20年、札束積んで薬を探せども薬は無かった。
こうして夫は両親の顔を知らない。
私の父は徴兵検査と同時に入隊。コレを応召に対して現役と言うらしい。
赤道直下のハルマヘラ島で、終戦のビラ。栄養失調、頭髪が抜けた下帯一丁の青年だった。
あと3日終戦が遅れたら餓死していた。
アメリカから貸与された、リバティ型輸送船で昭和21年3月和歌山県へ復員した。23歳。
翌年1月、母と結婚。
昭和23年1月私は生まれた。
新聞の広告です。
電話番号は記載されていない。
電話はまだまだ普及には至っていない。