○迷いの物二月堂の牛王宝印(ごおうほういん)に畏れし事
ある墓所にて死人の塚、
夜のうちには三度づつ燃えあがり、
塚のうちより女の声にて、
「人恋いしや 人恋いしや」と云う。
なかなか凄まじくして見届くる人なし。
さる若者ども、三人 寄り合い、
これを見とどけんとて、
ある夜、夜半のころ連れ立ち行きけるが、
中にも剛なる男、
この塚に腰を掛け居たりしが、
案のごとく、
塚のうちより、いかにも愁嘆なる声にて、
「人恋いしや 人恋いしや」と、云うかと思えば然(さ)にあらず、
氷のごとき冷たき手にて、
背後より、くだんの男の腰をむんずと締めつけたり。
この男、もとより剛の者なれば、
すこしもさわがず、
二人の連れを呼び寄せ、
わが腰をさぐらせければ二人の者は大きに驚き、あとをも見ずに逃げ帰りぬ。
さてくだんの男、
「なに物なれば我が腰を締むるぞ、ようすを語れ」と云いければ、
土のうちより云うよう、
「さてさて今まであなた様ほどの武辺者もなし、
われは三条室町の鍛冶屋の女房なるが、
となりの女に毒害せられて空しくなりたり。
あまつさえ三七日もたたざるに、
となりの女、
わが夫と夫婦になり、思いのままなるふるまい、
思えば思えば無念さに、夜な夜な門ぐちまでは行けども、
二月堂の牛王宝印を門に押したれば、畏れ、入る事あたわず。
斯様に傷心の闇に迷いそうろうなり。
願わくば、
かの鍛冶が門なる牛王宝印をめくり取りて給わらば、
この世のほむらも晴れ申すべき」と
しみじみと申しければ、
この男も不憫と思い、
彼の鍛冶屋が家に行き見れば、あんのごとく牛王宝印あり。
それを引きまくり、
傍らへ寄りて、事のやうすをうかがいければ、
にわかに黒雲一むら舞い下がり、
そのうちに提灯ほどなる光り物見えて、
鍛冶屋が館の上より飛び入るように見えしが、
「わつっと云う声ふた声すると、
そのまま彼の亡者、鍛冶屋夫婦の首を持ち来たり、
くだんの男に向かって、
「さてさて歳月の執心、
御かげをもって晴らし、 かたじけなくそうろう」とて、
袋をひとつ取りい出し、
「これは心ざしの御礼なり、心はずかしくそうろう」とて、消すが如くに失せにけり。
かの男も不審に思い袋をひらき見ければ、黄金十枚ありけるとなり。
これにて卒塔婆を立て替え、
供養してねんごろに弔いければ、
そののちはこの塚なにのふしぎもなかりしとなり。
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