きのうの続き。
「落語・質屋蔵」は、怪異譚でもあります、
掛け軸の菅原道真が、絵から抜け出て、喋り出したりするのですから。
落語で、
しかも「お化けが出る」となれば、
奇想天外、道理を無視したドタバタだろうと思う処です。
処が、違うのです。
たしかに、
「掛け軸の人物が抜け出る」
そう云う事だけを取り上げれば、不条理きわまりない、
理屈に合わない。
しかし、その理屈に合わぬことを、
客に「そうかもしれない」と思わせるため、演者が苦心するのです。
そのためには、まず、
ごく日常的で、誰もが容易に共感できるような挿話を積みあげて行く、
人間が生活している限り、
どこにでも、いつの時代にでもある、
ありふれたエピソードを、現実感をこめて無理なく語りながら話を進める。
その積み重ねで、
客の心を充分に引き込んでおいて、
そこで初めて、
ドタバタの滑稽(こっけい)を挟(はさ)んで行くから、笑いがより大きくなる。
弓を存分に引き絞っておいて、パッと放つような滑稽。
そこまで運び、客が演者を信用した処で、
怪異を起こすから、
客の心理としても、無理なく不条理を受け入れてしまえる。
よく映画の製作現場で、
監督が小道具に凝ったり、時代考証を綿密に行うのもそう、
「(創作と云う)大きなウソをつくためには、小さなホントを重ねろ」と云うアレです。
そうやって、
リアリティーと滑稽を、交互に繰り出し、
客の心を自在に操りながら、
客がストーリーの中に遊び、気持ちよく陶酔した処で、オチをつける。
映画のように主人公が死ぬでなく、ましてやハッピーエンドでもない、
ただ、話の途中としか思えない処であるのに、
「オチ」をつけることで、唐突に話を打ち切ってしまう。
この意表を突いた「オチ」の効果で、
客の心を、
一気に現実に引き戻し、
「どう、面白かった?、でも、コレ作り話やからね」と舌を出す。
もちろん、
実際に舌を出すわけではないが、そう思えるような終り方をする。
客も、それで満足し、
「イヤぁ、うまくダマされたなァ、愉快、愉快」と機嫌よく帰る。
落語と云う芸、
中でも、この話の基本構造はそうなっているのです。
尤も、どんなライブにも共通する、
「腕のある演者に限り」と云う、但し書きは付きますが。
「落語・質屋蔵」は、怪異譚でもあります、
掛け軸の菅原道真が、絵から抜け出て、喋り出したりするのですから。
落語で、
しかも「お化けが出る」となれば、
奇想天外、道理を無視したドタバタだろうと思う処です。
処が、違うのです。
たしかに、
「掛け軸の人物が抜け出る」
そう云う事だけを取り上げれば、不条理きわまりない、
理屈に合わない。
しかし、その理屈に合わぬことを、
客に「そうかもしれない」と思わせるため、演者が苦心するのです。
そのためには、まず、
ごく日常的で、誰もが容易に共感できるような挿話を積みあげて行く、
人間が生活している限り、
どこにでも、いつの時代にでもある、
ありふれたエピソードを、現実感をこめて無理なく語りながら話を進める。
その積み重ねで、
客の心を充分に引き込んでおいて、
そこで初めて、
ドタバタの滑稽(こっけい)を挟(はさ)んで行くから、笑いがより大きくなる。
弓を存分に引き絞っておいて、パッと放つような滑稽。
そこまで運び、客が演者を信用した処で、
怪異を起こすから、
客の心理としても、無理なく不条理を受け入れてしまえる。
よく映画の製作現場で、
監督が小道具に凝ったり、時代考証を綿密に行うのもそう、
「(創作と云う)大きなウソをつくためには、小さなホントを重ねろ」と云うアレです。
そうやって、
リアリティーと滑稽を、交互に繰り出し、
客の心を自在に操りながら、
客がストーリーの中に遊び、気持ちよく陶酔した処で、オチをつける。
映画のように主人公が死ぬでなく、ましてやハッピーエンドでもない、
ただ、話の途中としか思えない処であるのに、
「オチ」をつけることで、唐突に話を打ち切ってしまう。
この意表を突いた「オチ」の効果で、
客の心を、
一気に現実に引き戻し、
「どう、面白かった?、でも、コレ作り話やからね」と舌を出す。
もちろん、
実際に舌を出すわけではないが、そう思えるような終り方をする。
客も、それで満足し、
「イヤぁ、うまくダマされたなァ、愉快、愉快」と機嫌よく帰る。
落語と云う芸、
中でも、この話の基本構造はそうなっているのです。
尤も、どんなライブにも共通する、
「腕のある演者に限り」と云う、但し書きは付きますが。