漫筆日記・「噂と樽」

寝言のような、アクビのような・・・

大きなウソと小さなホント

2009年10月06日 | テレビ 映画 演芸
きのうの続き。

「落語・質屋蔵」は、怪異譚でもあります、
掛け軸の菅原道真が、絵から抜け出て、喋り出したりするのですから。

落語で、
しかも「お化けが出る」となれば、
奇想天外、道理を無視したドタバタだろうと思う処です。

処が、違うのです。

たしかに、
「掛け軸の人物が抜け出る」
そう云う事だけを取り上げれば、不条理きわまりない、

理屈に合わない。

しかし、その理屈に合わぬことを、
客に「そうかもしれない」と思わせるため、演者が苦心するのです。

そのためには、まず、
ごく日常的で、誰もが容易に共感できるような挿話を積みあげて行く、

人間が生活している限り、
どこにでも、いつの時代にでもある、
ありふれたエピソードを、現実感をこめて無理なく語りながら話を進める。

その積み重ねで、
客の心を充分に引き込んでおいて、
そこで初めて、
ドタバタの滑稽(こっけい)を挟(はさ)んで行くから、笑いがより大きくなる。

弓を存分に引き絞っておいて、パッと放つような滑稽。

そこまで運び、客が演者を信用した処で、
怪異を起こすから、
客の心理としても、無理なく不条理を受け入れてしまえる。

よく映画の製作現場で、
監督が小道具に凝ったり、時代考証を綿密に行うのもそう、
「(創作と云う)大きなウソをつくためには、小さなホントを重ねろ」と云うアレです。

そうやって、
リアリティーと滑稽を、交互に繰り出し、
客の心を自在に操りながら、
客がストーリーの中に遊び、気持ちよく陶酔した処で、オチをつける。

映画のように主人公が死ぬでなく、ましてやハッピーエンドでもない、
ただ、話の途中としか思えない処であるのに、
「オチ」をつけることで、唐突に話を打ち切ってしまう。

この意表を突いた「オチ」の効果で、
客の心を、
一気に現実に引き戻し、
「どう、面白かった?、でも、コレ作り話やからね」と舌を出す。

もちろん、
実際に舌を出すわけではないが、そう思えるような終り方をする。

客も、それで満足し、
「イヤぁ、うまくダマされたなァ、愉快、愉快」と機嫌よく帰る。

落語と云う芸、
中でも、この話の基本構造はそうなっているのです。

尤も、どんなライブにも共通する、
「腕のある演者に限り」と云う、但し書きは付きますが。



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