漫筆日記・「噂と樽」

寝言のような、アクビのような・・・

無人島漂流船の事 ③・規制

2009年11月04日 | Weblog
きのうの続き。

徳川幕府は、
仮想敵である諸藩の軍事力を警戒し、
一国一城など、様々な規制を出したが、勿論それは船舶にも同じ。

例えば、藩所有の船の規模や数量制限、帆柱や舵の規制など。

そして、そう云った船舶の規制は民間の輸送船にも影響した。

一般に江戸時代の大型和船が「千石船」と呼ばれるのは、
大きくともこの辺りが限界だったからでもあり、
また、
大船が軍船に転用されるのを警戒した幕府が、
それ以上の船舶大型化嫌ったから、とも云われている。

帆柱や舵の制限など、
様々な構造上の規制は、船の性能や安全性にも様々な無理を強いた。

当時、海運の需要は増大していたが、
大型船を建造しようにも、新技術の開発を幕府が好まない。

と、なれば、規制内の船で、
「積めるだけ積む」と云う事になるが、過積載が海運事故につながるのは当然だ。

例えば、菓子を入れる木箱を船と考えれば、
機密性のあるフタをしておけば、転覆しても沈まない原理だが、
それでは、木箱の容量以上には、菓子が詰め込めない。

同じサイズの箱でも、
フタを外して、
その中へ菓子を山盛りにすれば、たくさん入るが、
それでは、「水に浮かべた時に不安定」 と、云うのは、子供でも分かる理屈。

処が、当時の和船の現実は、まさにその菓子箱で、
フタにあたる甲板がないから、
波が少しでも荒くなると、すぐ、
側板を乗り越えた海水が、船内へ流れ込んでくる事になる。

また、帆柱を原則一本に制限されると、
その帆柱で、
より大きな推進力を得ようとするから、
帆柱は巨大となり、船のバランスが悪くなり、不安定となる。

帆が大きくなると、帆柱も大きい道理で、
海が荒れたときには、巨大な圧力を受け、破損しやすい。

事情は「舵(かじ)」も同じ。

当時の船は、嵐に遭うと先ず帆を降ろし
次に積荷を捨て、
最後には、転覆を防ぐために帆柱さえ切り倒したと云う。

勿論、これでは、天気が回復しても、まともな航行は覚束ない。

この記録にある船が、いかに方角を見失ったとは云え、
「流されるままに漂流」と云うのは、今からみれば不審に思える処だが、

もし「帆や帆柱が破損」したか、
または、「舵が壊れた」とすれば、それも納得できる。

ただ、陸地を見ながら、沿岸沿いに航海する当時の船なら、
四・五日に一度は港へ入るだろうに、
二ヶ月もの間、海上を漂流し、
「水も食料もなんとか持った」と云うのは意外なほど備えがいい。

ただ、これも見方を変えれば、
当時の船乗りにとって、
「遭難漂流は常にあること」と覚悟し、それに備えていたのかもしれない。

いずれにしても、徳川幕府の船舶規制は、
日本の造船技術の大いなる停滞を招き、世界の進歩から取り残された。

17世紀には可能だった「鎖国」が、
19世紀に不可能となったのは、
この間に、世界の造船技術と銃砲が格段に進歩したためである。

それは黒船と和船を比べてみれば容易に分かる。

戦国時代までの軍船は、
何人もの漕ぎ手を乗せていたが、
江戸時代の千石船は、民間輸送船だから風だけが頼り、無風なら動けない。

それに対し、黒船は石炭を焚いて、蒸気機関で進む。

つまり、風がなくても動く軍艦と、
連射が可能な鉄砲や、殺傷力の強い炸裂弾の大砲に対し、
火縄銃と日本刀と、風頼みの和船では、対抗の仕様がなかったのである。

徳川幕府が亡びた原因は、

軍事的には、
海戦を想定せず、軍船を作ろうとしなかったためであり、

文化、学術的には、
家康以来の現状維持を旨とし、
武器や船舶の技術革新を軽視、あるいは嫌ったためである。





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