きのうの続き。
さて、「新居(静岡県) ⇒ 仙台 ⇒ 銚子」と航海した船は、
又もや進路を北に取り、
宮古(岩手県)へ向うと、同地で材木を積み込み、
今度は南下、
一旦仙台の小竹浦港へ入港して後、
享保四年、十一月二十六日にこの港を出て、一路江戸方面を目指したのだが。
~~~~~~~~~~~~~~~~
十一月 三十日、上総の国 (今の千葉県)
九十九里浜の沖合いまで参りそうろう処、
俄(にわか)に強風吹き荒れ、
嵐となりて、
波荒くして沖合いはるかまで吹き流され、
それよりは、島や山の影さえ見え申さず候(そうろう)。
斯くては、船中一同、方向も見失い、ただ漂い流されるばかりにて候。
それよりおよそ二ヶ月も漂いそうろうか、
年明けての一月二十六日ごろに覚えそうろう、
船中の飲み水、飯米も残りわずかとなり、
このまま使い切れば命も限りと思い定めそうろう時、
いずこの国とも存ぜぬ島山を見付け、
船中の者共大いに力を得、残らず小舟に乗り移り、
伊勢神宮の御祓札(おはらいふだ)、下田御番所の通行切手、
並びに、食糧米、鍋、釜、
そのほかに、小道具の入れたる箱ひとつ、斧一丁、彼の島へ持ち上がり、
まずは水を探し居りそうろう処、
俄に大しけとなり、
海荒れ出し、停泊して置きたる本船、小船、もろ共に流れ、全てを失い申し候。
~~~~~~~~~~~~~~~~
何たる不運、
必死に水を探すうちに、大波に船もろ共機材全てを流された。
静岡県東部、伊豆半島の先端近くにある下田市には、
享保四年当時、
船改(ふなあらため)の番所があり、
西国から江戸に入る船は必ず立ち寄り、船舶、積荷、船員、鑑札などのを検査を受けた。
上陸する際、下田御番所の切手を持って持って上がったのは、
自分たちの身分を証明するのに必要だったからだろうし、
伊勢神宮の御札は、全員の無事帰還を願ってのことだろう。
現代人から見れば、
航海の無事を願って受けた御札も、
遭難したのでは、御利益が無かった、と、考える所だが、
危険を承知で海に乗り出していた、当時の船乗りたちの感覚では、
これほどの危難に逢いながら、
全員の命が無事なのは伊勢神宮のお陰と考えるモノのようだ。
さて、「新居(静岡県) ⇒ 仙台 ⇒ 銚子」と航海した船は、
又もや進路を北に取り、
宮古(岩手県)へ向うと、同地で材木を積み込み、
今度は南下、
一旦仙台の小竹浦港へ入港して後、
享保四年、十一月二十六日にこの港を出て、一路江戸方面を目指したのだが。
~~~~~~~~~~~~~~~~
十一月 三十日、上総の国 (今の千葉県)
九十九里浜の沖合いまで参りそうろう処、
俄(にわか)に強風吹き荒れ、
嵐となりて、
波荒くして沖合いはるかまで吹き流され、
それよりは、島や山の影さえ見え申さず候(そうろう)。
斯くては、船中一同、方向も見失い、ただ漂い流されるばかりにて候。
それよりおよそ二ヶ月も漂いそうろうか、
年明けての一月二十六日ごろに覚えそうろう、
船中の飲み水、飯米も残りわずかとなり、
このまま使い切れば命も限りと思い定めそうろう時、
いずこの国とも存ぜぬ島山を見付け、
船中の者共大いに力を得、残らず小舟に乗り移り、
伊勢神宮の御祓札(おはらいふだ)、下田御番所の通行切手、
並びに、食糧米、鍋、釜、
そのほかに、小道具の入れたる箱ひとつ、斧一丁、彼の島へ持ち上がり、
まずは水を探し居りそうろう処、
俄に大しけとなり、
海荒れ出し、停泊して置きたる本船、小船、もろ共に流れ、全てを失い申し候。
~~~~~~~~~~~~~~~~
何たる不運、
必死に水を探すうちに、大波に船もろ共機材全てを流された。
静岡県東部、伊豆半島の先端近くにある下田市には、
享保四年当時、
船改(ふなあらため)の番所があり、
西国から江戸に入る船は必ず立ち寄り、船舶、積荷、船員、鑑札などのを検査を受けた。
上陸する際、下田御番所の切手を持って持って上がったのは、
自分たちの身分を証明するのに必要だったからだろうし、
伊勢神宮の御札は、全員の無事帰還を願ってのことだろう。
現代人から見れば、
航海の無事を願って受けた御札も、
遭難したのでは、御利益が無かった、と、考える所だが、
危険を承知で海に乗り出していた、当時の船乗りたちの感覚では、
これほどの危難に逢いながら、
全員の命が無事なのは伊勢神宮のお陰と考えるモノのようだ。