【女は度胸の事】
津の国、富田の女、
村を隔てて男の方(かた)へと通いけり。 (津の国→今の大阪あたり)
道は一里の余もありければ、行きて臥すにも時足らぬなり。 (一里→約4km)
また定かなる道にもあらねば、
田畑を分ける細道を心細くもたどりつつ、
露の玉散る草道行くを、
歩くをとがむる里の犬、
あやしみ訝る人の目避けつつも、
忍び忍びに通いしは、実(げ)に恋の奴の故なりけり。
この通い路に西河原の宮とて森深き所ありて中の小川に架け橋ひとつあり。
ある夜この女の通うに、例の架け橋流れてなし。
その小川の岸、
上り下りて見るに、
乞食の行き倒れたるが溝に横たわり、あお向けにになりて臥す。
女、さいわいと思い、
かの死人(しびと)を橋にたのみて渡るに、この死人、女の裾(すそ)をくわえて離さず。
裾ひきなぐりて通るが、一町ばかり過ぎて思うよう、 (一町→約百m)
「死人に心なし、何ゆえ我が裾をくわえん、
いかにもいぶかし」と心残りて、
また元のところへ帰り、
わざと己が後の裾を、死人の口に入れ、
胸板を踏みて渡りて見るに、元のごとくくわゆる。
さてはと思い、
足を揚げてみれば、口あく。
案のごとく死人に心はなし、
足にて胸踏むと口をふさぎ、
踏まぬと口をあくなりと合点して、もはや未練なく男の方へ行く。
さて、寝屋のむつ言果てて、右のことを誉められ顔に話す。
男、大きに仰天して、それよりは逢わずとなりけり。
げにことわりなり、
かかる女に誰とても添い果てなんや。
天性、女は男(おのこ)よりなお肝(きも)太きものなり。
そこら隠すこそ女めきて良けれ。
慣れぬ虫など見たる時も、
「あ、こやつ」などと摘みたるは、おおらかよりも心にくし、
女にもなき手柄話して、
「肝ふとけれ」などと誇る人は、たとえその人に恋する身とても興さめて心冷えん。