漫筆日記・「噂と樽」

寝言のような、アクビのような・・・

かかる卑しきものは

2009年05月18日 | Weblog
きのうの続き。

きのうの話だと、
伊達政宗は、
直江兼続に一本取られてギャフンと云う形だが、
しかし、「この話は後世の作り物」と云うのが大方の見る処。

戦国時代と云うのは、
武力の戦いには違いないが、一面では経済力の戦いでもある。

端的に云えば、
最新の武器である鉄砲を多く揃えた処が絶対に有利だが、そのためには、まずカネ、

その資金を調達するに、
経済感覚が鋭くなくては、たちまち生き残り競争に敗れてしまう。

「金銭など汚らわしい」
な~んて云っていて、勝ち残れるような気楽な時代ではないのだ。

ならば、上杉家の執政・直江兼続がそんなことを云うはずがない、と云う分けです。

処で、この話には、
「時期」が書いてないのですが、内容から大体の想像は付く。

場所は「伏見城」
参会者は、戦国期の諸大名となれば、

その「経済的に鋭敏な感覚を持つ戦国大名たち」が、
「珍しいと持てはやした」と云うのだから、銅銭などではない。

当然、金貨と云う事になるが、
徳川家康が、最初に「慶長小判」を発行したのが西暦の1600年。

アノ「関ヶ原の戦い」の年です。

小判なら、
「そのころ金銭の始まりしころにて」と云う文章にも符合する。

さて、もしこの話の、
「伏見の城にて」と云うのが、関ヶ原の後であり、
「諸大名の歴々並み居たる」が、家康に会うため集まっているのだとしたら、

また違う見方もできようと云うモノ。

上杉家は、石田三成と組んで、
会津で兵を挙げ、家康に対抗したが、
なにしろ肝心の関ヶ原は、たった一日で東軍の大勝利。

やむなく降伏した上杉家は、
やっと取り潰しだけは免れたが、大幅に石高を削られた上、米沢へ領地替え。

この席の直江兼続は、敗軍の将であり針のムシロ状態のはず。

一方の伊達政宗は、家康に味方して、上杉軍を攻めた側。

云わば、勝ち組の政宗だ、勢いの悪かろうはずが無い。

しかしこれを、
兼続側から見れば、
家康が発行したばかりの小判を見せ廻ってはしゃいでいる政宗は、

「狸親父の家康にゴマをすってる軽薄者」と写ったとして不思議は無い。

ならば、兼続としては、

「戦の指揮を取る采配を持つ手にては、
 かかる卑しきものはさわりそうらわず」ぐらいのことは云いたかったろうな、

そう思わせる辺りが、この話の良く出来ている処なのだろう。




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