漫筆日記・「噂と樽」

寝言のような、アクビのような・・・

ショウトクタイシ

2009年07月10日 | Weblog
きのうの続き。

今は、1万円札を指して、
「諭吉サン」と云うが、
その以前は、永らく「ショウトクタイシ」だった。

戦後、千円、五千円、一万円と、
時の高額紙幣が、一貫して聖徳太子の肖像だったから。

聖徳太子がなぜ選ばれたのかは、
寡聞にして知らないが、
おそらく、その平和的イメージが、戦後の思想的混乱期に無難とされたのだろう。

実際、それ以前の千円札、
「日本武尊(やまとたけるのみこと)」のままなら、激しい論争が起きただろうし。

聖徳太子は、教科書に必ず出て来る上、
その業績も、共に教えられるから知名度は抜群に高い。

処が、さて、その生涯となると、
伝説は多いが、確実とされる事蹟は、それほど多くないのが実情のようだ。

その漠(ばく)としたあたりが、
又、
戦後の世情から見て、
高額紙幣の肖像として 国家を代表させるに都合が良かったのだろう。

人々に親しまれたその聖徳太子が、
福沢諭吉に代わったのは、
当時、ニセ札がますます巧妙化し、その対策が急務となっていたためだった。

肖像画より、写真の方が、
ニセ札に気付きやすいと云う理由、

つまり、
絵よりも写真の方が、表情の変化などに気付きやすいから、と云う分けだ。

「写真でなければ」と、云われてしまえば、
聖徳太子も、
引き下がらざるを得ない分けで、
以来、近世以前の歴史上の人物は、
如何に立派な業績が有ろうと、オサツに印刷される資格は失ってしまった。

代わって登場したのが、
明治以後の偉人たちで、現代人の曽祖父にあたるぐらいの人々。

当然、事蹟や経歴もはっきりしている分けで、
伝記を、と思うと、記録の量が多すぎて、取捨するに苦しむぐらい。

若死にした樋口一葉なら、
全作品を読むに、大して苦労はないが、
「夏目漱石や新渡戸稲造の全作品を」、となると、ちと尻込みしてしまう。

もちろん、諭吉先生も。

おそらくだけれど、
慶応の生徒だって、
全著作とまでは、読んでなかろうと思うのですが・・・ネ。 (笑)

 
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【漠】 ばく
 1 はてしなく広々としているさま。
 2 とりとめがなくはっきりしないさま。

【聖徳太子】 しょうとくたいし
  (574-622)
  用明天皇の皇子。母は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后。
  名は厩戸豊聡耳(うまやどのとよとみみ)皇子。
  上宮太子(うえのみやのみこ)・法大王(のりのおおきみ)・上宮聖王などとも呼ばれた。
  聖徳太子は諡号(しごう)。

  推古天皇の摂政として冠位十二階・十七条憲法を制定。
  小野妹子(いもこ)を隋に派遣して国交を開いた。

  また、広く学問に通じ、深く仏教に帰依(きえ)して、法隆寺・四天王寺ほか多くの寺院を建立するなど仏教振興に尽くした。

  著「三経義疏」

[2] かつて聖徳太子の肖像が印刷されていた紙幣の俗称。一万円札、それ以前は千円札をさした。

【日本武尊・倭建命】 やまとたけるのみこと

景行天皇の皇子。
古事記の構想では、神武の大和平定後、
孝霊・崇神と引き継がれる国内における王化の拡大の歴史の完成者として位置づけられる。
西の熊襲(くまそ)討伐・東征などは、その具体的活動。

なお、日本書紀では、
景行自身の九州・東国巡行とともに
日本武尊の西征・東征が語られ、景行による国内平定という色彩が強い。

小碓命(おうすのみこと)。
倭男具那命(やまとおぐなのみこと)。

【福沢諭吉】 ふくざわ‐ゆきち
 [1835~1901] 
  啓蒙思想家・教育家。
  大坂の生まれ。  豊前(ぶぜん)中津藩士。

  大坂で蘭学を緒方洪庵に学び、江戸に蘭学塾(のちの慶応義塾)を開設、
  のち、独学で英学を勉強。三度幕府遣外使節に随行して欧米を視察。
  維新後、新政府の招きに応ぜず、教育と啓蒙活動に専念。
  明六社を設立、「時事新報」を創刊。

  著「西洋事情」「学問のすゝめ」「文明論之概略」「福翁自伝」など。

 



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