漫筆日記・「噂と樽」

寝言のような、アクビのような・・・

【 松葉屋・瀬川の事 】

2013年08月31日 | ものがたり


  【 松葉屋・瀬川の事 】

享保のころ、
江戸、浅草の辺りにて、
小庵に住める自貞尼(じていに)が来由をたずねるに、

この尼、
もとは江戸吉原の江戸町の大店、松葉屋の抱え、瀬川と云う遊女なり。

その父は、大和は奈良の生まれにて、
若きより京に出で、
富小路家に仕え、大森右膳と名乗り居たる。 
然るに右膳、
同じ家に仕える朋輩(ほうばい)の女と不義これ有り。 

密通 露顕の上は、両人ともに暇出て京都に住み居り難くなり、 

その女を連れ大和へ帰り、

ここで大森通仙と名を変え、
医業並びに売薬にて、
つましく暮らし居りける内、女子を設け、これに「たか」と名づく、

即ち「瀬川」の事なり。

たか、十六・七歳のころ、
町奉行与力、玉井与一右衛門が若党、源八と云う者、 
たかに恋慕して、

たかが父、大森通仙が下男、与八を頼みて艶書を送りたり。 

然(しか)るに、たか、身持ち堅く、
これに従わざるを逆恨みして、
夜中に源八、秘そかに鹿を殺して通仙が家の表に置き去る。

奈良は、鹿を殺す事、古来、堅く御禁制なり、
これ、鹿は春日大社の御使いなるゆえの由(よし)。 

もし、鹿に対する過ち、
これ有る時は、人を殺せしよりも罪重し。

翌朝起き、鹿の屍を見つけた通仙、
はなはだ驚きしが、
最早、止むを得ぬ仕儀なれば、奉行所へと届ける。 

これにより、奉行所より検使を差し越され、
色々に吟味(ぎんみ)有りと云えども、
誰の仕業とも見えぬゆえ、先ず通仙、牢屋入り申し付けらる。

段々に詮議の処、
通仙が所業とは見えざれども、
下手人不明の上は、
通仙、そのまま許し置かるべきにあらずとて、所払いとなる。

それより通仙、一旦は京へ出で、
名も山脇通仙と改め、わずかの営みを始めけるが、
様々の難儀に会い、
再び京を捨て、
大坂へ流れ行き、暮らし定まらぬまま死す。

あとに残れる後家娘、暮らしに難儀迫りぬる。

時に、たか女へ縁談あり。

鯛屋大和(たいややまと)とて、名の通れる狂歌師、
生前、通仙と親しかりければ、

この者が世話いたしつかわし、

御城代、内藤豊前守、配下、
小野田久之進と云う、
百五十石取りそうろう勘定役の者へ、たか女を嫁せしめ、

久之進、配慮して
母もろとも引き取れば、母娘、しばらくは安堵(あんど)の思いをなす。

享保三年、
豊前守(ぶぜんのかみ)、大坂城代、御役御免となりて、
江戸へ下らるるに付き、

久之進も供いたし立ち返り、
江戸深川の御長屋にまかり在りしが、

大坂跡勘定のため、
同年、十月、久之進は用金四百五十両を預り、

携(たずさ)えて、まかり登る処に、
道中、江尻の駅にて、盗賊のため、横死す。

これに依り、豊前守大いに怒りて、

「用金を取らるるのみか、盗賊の手に掛かりたる条、
 その身も不甲斐なし、

 又、他家への聞えも、成り難し」とて、

小野田の家、跡目相続も許されず、
家内の者、離散になりけるを、

飛沢町に住む若松屋金七と云う者、
日頃、懇意に出入りあれば、これを憐れみ、

まず我が方へ引き取りかくまい置ける。

そのうちに、
近隣より出火して、急火の類焼に合い、

金七と共に大いに難儀の身と成りける程に、

金七が妻の弟、
金田町の竹本君太夫と云う者方へ、
久之進家内もろ共、暫(しばら)く係り居るも、

たか、心痛に絶えず、
ある時、日ごろの憂き思いを君太夫に、かき口説き語る、

「こままにては、
 老母の養育いかんとも詮方なし、
 所詮、我身を遊里へ売るより無し、その金子によりて、母を養いたし。

 又、その遊郭とやらは、
 諸国の人々の集まれる処と聞き及び居れば、

 もしもの事に、夫の敵(かたき)の手掛かり、知るやもしれず。
 この頼み、何とぞ周旋してたまわれ」と、

涙と共に頼めば、
君太夫も哀れをもよおし、

「さいわい手前は、
 吉原よりも、たびたび御座敷かかる身なれば、」とて請けあう。

君太夫、
吉原、松葉屋に行きて、「たか」が事情、しかじかと語る。

松葉屋、
その折から看板の花魁(おいらん)欠け、
よき奉公人をたずね居る最中ゆえ、

さっそく親方、君太夫が方へ参り、
「たか」が様子を見て、相談きわまり、

十年の奉公、百二十両にて召し抱えぬ。

「たか」は、老母のことを金七にくれぐれも頼み置きて、
自分は松葉屋に行きて、突き出しの女郎と成りぬ。

たか、元来、容貌すぐれ、
行儀作法は云うに及ばず、
諸芸、教養ごと修めて格別よろしければ、

親方、大いに悦喜して、
間もなく、「瀬川」と改名させ、この家一番の女郎とす。

この名は、
松葉屋、代々の通り名にて、
通例の女郎にはこの名を付けさせず、

前の瀬川は、大伝馬町の大福長者の何某に受け出され、
しばらくこの名、絶えて至りしを、

「これほどの器量なら都合よし」と、
瀬川の跡継ぎにして、二間の座敷を持たせおけば、

やがて、吉原にその名、ときめきたる。

享保七年四月、
上方の客にて、松葉屋方に数日逗留し、

中三の女郎、
歌浦、八重咲、幾世と云う三人を揚げて遊戯せるが、
ある日、
亭主を呼びて云いけるは、

「我々これより鎌倉見物して、又ここに帰るべし、
 それに付き、金子少々ここにあり、

 これをこのまま
 鎌倉まで携え行くも心遣いなれば、
 路用少しばかり持参して、残りはそこもとに預けたし。

 もしその道中にて、金子使いきりそうろう事あれば、
 飛脚を以って取りに来す事もあるべし。

 その時は、渡し給うべくなり。」

亭主、承知し、

「しかしながら金銀の事にそうらえば、容易には請け合い難し、
 印形を残し置かれよ。」

とて、云えば、
「尤もなり」とて、判(はん)取り出し、紙に捺して渡す。

亭主、受け取りて、
勝手へ入り、
女房にも事情を語りて、印紙を見せける処に、

折ふし瀬川、
髪を直すとてその場に居合わせけるが、

それを見て、
何とやらん、見知りたる覚えあり。

そのまま部屋へ帰り、
亡き夫、久之進が印形の書き付けを取り出し、

確かめ見るに、凡(およ)そ疑いなし。

故に、亭主に相ことわりて、
彼の印紙を借りて、とくと合い見るに、いささかも違わぬ同印なり。

「さてこそ」とたか、
松葉屋の女房に、その客の事を問えば、

傍輩(ぼうはい)歌浦が客にて、上方にて名のある衆の由なり。

さ、あらんにては、
その者の腰の物を見せくれ給(たま)えと願う。

総じて、遊郭の法にては、
貴賎にかかわらず、
遊興の間は、その宿へ、腰の物預かり置く習いなれば、
女房、すなわち戸棚より、
歌浦と札の付けたる脇指を出し見せければ、

たか、取りて見るに、夫の差し料に違いなし。

瀬川は、さりげなき素振りにて、
松葉屋の女房へ脇指を返し、

部屋に帰りて、
まず母の居る金七が方へ、文にて知らせ、

心 静かに身支度す。

かねて用意の短刀を帯に差し、
打ち掛けにて隠し、
彼ら遊びける座敷へ忍び行き、

襖(ふすま)の隙間(すきま)より透かし見れば、

歌浦にもたれ掛かれ居る客は、
たしかにその背、その横顔、見覚えたる源八なり。

あわやと騒ぐ胸を沈め、

秘そかに歌浦が禿(かむろ)を呼びて、 (禿→ 遊女に付いて雑用をする少女)
歌浦が客の、あれやこれやを聞きただし、

さてこそと見定めたれば、内掛けを脱ぎ捨て、

禿に歌浦へ声を掛けさせ、

源八から離れる処、
客が柱にもたれ、浄瑠璃を語り居る処を、

襖を開けて言葉を掛け、
振り向く処を肩先より、思いを込めて乳の先まで突き通す。

思いの一念、思い知ったか、
短刀で深々と刺し通すあたりに、たかの血の涙の思いがこもる。

源八は、念力の理剣につらぬかれ、
不意の事には有り、悶え苦しむばかりにて、敵する事かなわず。

連れの両人、
瀬川を抱き留めんとするを、瀬川尚も振り切りて、

「夫の敵(かたき)なれば」と、
とどめを刺さんとして、源八が上に乗りかかる処を、

松葉屋主人、そのほか家内の者、大勢、
追々駆けつけ、中に入り、

「たとえ仇討ちとありても、
 証拠言わでは、御上への申し上げ、容易なるまじ、」と押しとどめ、

先ずは、このままにて公儀へ訴え、
検使を請けて、跡のことは御公儀の判断にまかすべし、と、

草々に使いを出し、訴え出る処に、

金七、ならびに君太夫など、
老母を連れ、皆々息を切りて、馳せ来たる。

委細の次第を聞き、
「年来の本望を遂げたる事この上無し、」と老母は涙し、

駆けつけたる人々も瀬川を讃え、悦ぶ事限りなし。

さて検使・曲渕治左衛門、広瀬作之助 来たりて、
段々に詮議の上、
手負の源八ら連れて奉行所へ立ち帰り、

町奉行・中山出雲守、御役所に於いて、
源八を、厳しく糾明ありければ、

奈良にては鹿を殺し、
「たか」が父、通仙に難儀を掛け、

京都に於いても悪事数条ありて出奔(しゅっぽん)、

それよりは道中の強賊と成り、
江尻にて「たか」が夫、小野田を殺し、
金を四百五十両、その他に 腰の物以下 雑具残らず奪い取り、

以後、
上方者と偽(いつわ)り、江戸吉原にて遊興いたし居る段、
ことごとく今、白状、

同類の者共も相知り、神奈川にて二人共捕えられ、

大罪の者共なれば、
鈴ヶ森にて、源八始三人共にて梟首(きょうしゅ)せらる。

  (梟首は、さらし首、、中山出雲守は、実在の町奉行)

又、瀬川事は、年来の本意を達し、
その上、右の事より、大罪人も相知れ、尤も神妙の至り、

これに依り、
本日只今より、遊女奉公、御免成される旨(むね)、申し渡され、

松葉屋亭主、
存じ居らぬ事とは申しながら、
盗賊の宿を致しそうろう段、不届きに付き
瀬川が抱え料 百二十両のうち、今日以後の分は損失たるべし。

且つ又、
盗賊所持の金子二百両の事、

元来は、内藤豊前守 用金たる由なれども、
その事件の折り、右盗賊の事、公儀へ届け無きにより、

右金子は、
公儀にて取り上げそうろう段、
内藤家家来、呼び召されて仰せ渡され、

右金二百両を、
若松屋金七、竹本君太夫に渡され、

その仰せ渡されそうろう趣(おもむき)は、 (趣→内意、意向) 

金七、君太夫の儀、
年来、瀬川が老母を育みつかわし候条、奇特(きとく)の至りなり、 (奇特→感心な行い) 

この度、瀬川事、
女の身にて、容易には知れ難き 敵(かたき)を討ち、

その手筋より、公儀の罪人も相知れ、
その身の本望すでにして、
且つ、上の御奉公にも相なり、このこと神妙に付き、

右金子、瀬川へ下されそうろう。

金七には、
世話いたす老母もろとも、
流浪いたさぬよう、
取り計らい遣(つか)わすべき旨にて、

一件、ことごとく落着せし仰せ付けあり。

瀬川はそれよりすぐに番隋院の弟子と成り、
剃髪して自貞と名乗り、
浅草辺の小庵、再法庵と云るに住みて、
親、夫の跡を弔(とむら)い、
以後、老母もろ共、念仏三昧に入り、行いすまして居りけるとぞ。

再法庵の壁に数種の歌、書き付けあり。

その中にあり、
  「池水に夜な夜な映る月影の 水は濁れど影の汚れぬ」と。


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