漫筆日記・「噂と樽」

寝言のような、アクビのような・・・

旧事諮問禄⑤

2009年02月24日 | Weblog
きのうの続き。

明治の古老に質問した「旧事諮問禄」、
今日は、その中から、「天大奥勤めだった女性の話を御紹介。

答ええているのは、
「旧幕府・中臈・箕浦はな子」、「御次・佐々鎮子」のお二人。

「中臈(ちゅうろう)」は、云わば大奥の花形、

将軍様の御手がつけば、たちまち大出世、
側室として部屋がもらえ、何人もの女性が付いて身の回りの世話をするようになる。

もし懐妊し、男子でも生れれば「未来の将軍の御生母さま」と云うことだってありうる。

今一人は、「御次」と呼ばれた女性で、こちらは中臈予備軍と云った処。

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質「御台(みだい)様や天璋院(てんしょういん)様は、
  毎日どういうことをして、日をお過ごしなさいましたか。

  朝のお目覚めは何時頃。

答「朝は六つ半のお目覚めでございます。
  御年寄りが御目覚めを触れますと、それから御三の間から部屋方に触れるのでございます。
  『六つ半おめでとうございます』と言って触れるのでございます。」

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子緒に出て来る「御台様」は、
幕末、天皇家より徳川家茂へ降嫁した「和宮(かずのみや)」。

「天璋院様」は、「天璋院・篤子」、
もちろん、去年、大河ドラマで好評だった「篤姫さま」のことです。

なお、現在では女の子でも、
「子」の付く名前ははやらぬようだが、
昔は、高貴な身分の女性は、みな「子」がついた。

例えば、清少納言が仕えたのが「定子」、
紫式部が仕えたのが「彰子」で、いずれも天皇の奥さん。

皇室から上流貴族、さらに武士と、
名前の下に「子」を付けるのは、血筋貴く身分のあるしるしだったのです。

戦後、身分制度が無くなって、
庶民の娘でも、気兼ねなく「子」が付けられるようになった。

だから「○○子」と云うのは民主主義の申し子だったんですがね、
ともかく、今はハヤラナイようです。

あすからは、食事も含めてその日常生活を。





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