明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

祝 30000人 北信・上越の親鸞聖人ご旧跡を訪ねて(国府別院②遍)

2010-11-13 17:51:15 | Weblog
この後、私達は恵信尼(えしんに)廟所(えしんの里)に移動する訳ですが、国府別院について是非ともふれておかねばならな歴史事実があるのです。それは、国府別院がある小丸山(こまるやま)の地は、親鸞聖人の竹の前草庵のご旧跡ということで、越後・北信州のご門徒の並々ならぬ熱意により獲得された土地であるという事実です。
写真は、国府別院境内に建つ居ケ多浜上陸の場面の銅像。

前回にも述べましたが、この地が、親鸞聖人竹の前草庵のご旧跡の跡であるというのは、親鸞の袈裟(けさ)掛け松の伝説より歴史の証人はありません。
時代は戦国時代末期、上杉謙信公は一向宗(本願寺教団)禁止の方針を捨て、大阪の石山本願寺の融和(ゆうわ)政策を取るようになりました。織田信長との戦争の為です。この時、信州より親鸞聖人の直弟子(じきでし)である覚善(かくぜん)の子孫という安養寺(あんようじ)が進出し、小丸山に定着しました。だが、この安養寺も江戸時代に入ると越後高田に移り、小丸山は親鸞聖人ご旧跡の伝承のみが残りました。
その後、この小丸山の地は天台宗宝持院(ほうじいん)の土地となってしまい、浄土真宗のご門徒達はお参りすらできなくなりました。しかし、ご門徒達の聖人の敬慕の念は押さえがたく、宝暦11年(1761年)親鸞聖人500回大遠忌(だいおんき)法要にあたって、信州の康楽寺(こうらくじ)と越後高田の瑞泉寺(ずいせんじ)によって仮小屋がつくられ、親鸞聖人の御影(ごえい)が掛けられたのです。この頃から、小丸山は親鸞聖人の聖地として門徒達があらそうようにお参りするようになったと伝えられています。親鸞聖人500回大遠忌法要に対する、当時の越後・北信州のご門徒の強烈な熱気が伝わってくるようです。
宝持院も、参拝者の便宜(べんぎ)の為に、境内の小さな阿弥陀堂とお茶所を建てたといわれています。そして、幾多の歴史の流れの中で、小丸山に浄土真宗本願寺派の国府別院が建立されたのは明治に入ってからの事です。写真は、国府別院本堂

このように小丸山の国府別院は、越後・北信州の真宗門徒の並々ならぬ熱意により獲得された聖地であったのです。平成23年には、親鸞聖人750回大遠忌法要がご本山本願寺でご修行になります。このご勝縁(しょうえん)を迎えるにあたって、越後・北信州のご門徒が500回大遠忌法要の際に示された熱烈な熱気を、私達は今一度思いを廻らさなければならないと考えています。そして、この国府別院=小丸山の歴史は、広く真宗門徒に知っていただきたい話であると思うのです。
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