小林一茶の故郷は、豪雪地帯。そこは、越後との国境である信州北部の柏原。当時(江戸期)は、北国街道(現在は、国道)が通過する宿場でもありました。そして、信州北部(信越国境)は浄土真宗が盛んな土地。中世以来、関東に起源を持つ数ヶ寺のお寺が信州北部に進出。結果、信州北部には多くの道場・寺院が誕生し、強固な門徒組織が形成されていきました。
故郷である柏原にも、明専寺(現在、浄土真宗本願寺派)という真宗寺院があり、小林一茶も弟との遺産争いにて明専寺住職が調停に入るなど大きな影響を受けました。
明専寺本堂
冬の明専寺鐘楼堂
そのような土地柄もあり、小林一茶は親鸞聖人の教え頂戴する念仏者として最後を迎えています。最晩年の俳句「としもはや あなかしこなり 如来様」を見ても明らかです。この俳句は、「阿弥陀様に全てをお任せして、この世を終わらせていただきます」と解釈されます。一切の衆生を救おうとされた阿弥陀様の大いなる願い(本願)に任せきった一茶の心情が見事に読まれているのです。
しかし、晩年家庭的にも不幸が続き、1827年の柏原大火事の為に、一茶宅も全焼。住む場所もなく、焼け残った残った土蔵で暮らしました。そして、そこで一茶は終焉(しゅうえん)しているのです。一茶、65歳。
終焉の土蔵(小林一茶記念館ホームページより複写)
一茶関係の本を走り読みしますと、この事実を見て、不幸のどん底・悲惨な生活であったと書かれているのです。この解釈は、明らかに間違いではないのでしょうか?現実は不幸な生活でも、心は阿弥陀様に任せきった豊かな心情が俳句して残されているのですから。
一茶の心情とは、「嬉しいときも、悲しいときも、如来様のおてまわし」。これです。ところが、一茶のこの真宗的心情は見事に忘れられ、忘れられというよりも現代の評論家の先生方の宗教心の欠如から必然的というべきでしょうか。この状態で一茶を「ああでもない。こうでもない」と解釈されるのですから、一茶もはなはだ迷惑な話です。
でも、読者の中には一句だけの紹介で、「念仏者一茶とはこれいかに」といわれる方もおられる筈。その方のために、以下を紹介。
一茶51歳の時(文化10年=1813年)、北信州の長沼にて俳聖である松尾芭蕉の「芭蕉忌」を主催。その際に、一茶は自分の俳句観を浄土真宗の教義を引き合いに出して次のように述べているのです。「我宗門(意味・・私の信仰する浄土真宗)にては、あながちに弟子と云(い)わず、師といはず。如来の本願を我も信じ人にも信じさすことなれば、御同朋(おんどうほう)・御同行(おんどうぎょう)とて、平座にありて讃談するを常とす。いわんや俳諧においてをや」と述べています。一茶は、浄土真宗の教えを例に引きながら、普通の俳句社会のように師匠・弟子の関係を否定し、「ありのまま」の平等の俳句を打ち出しているのです。それにしても、なんと見事な真宗理解でありましょうか。故に、一茶は念仏者なのです。そして、一茶の俳句は如来の大悲に裏打ちされた慈愛の俳句なのです。
次回は、一茶の人生の歩み・・・続く
このブログの訪問者が、121000人(正確には、121206人)を超えていました。いつも訪問していただき有難うございます。
故郷である柏原にも、明専寺(現在、浄土真宗本願寺派)という真宗寺院があり、小林一茶も弟との遺産争いにて明専寺住職が調停に入るなど大きな影響を受けました。
明専寺本堂
冬の明専寺鐘楼堂
そのような土地柄もあり、小林一茶は親鸞聖人の教え頂戴する念仏者として最後を迎えています。最晩年の俳句「としもはや あなかしこなり 如来様」を見ても明らかです。この俳句は、「阿弥陀様に全てをお任せして、この世を終わらせていただきます」と解釈されます。一切の衆生を救おうとされた阿弥陀様の大いなる願い(本願)に任せきった一茶の心情が見事に読まれているのです。
しかし、晩年家庭的にも不幸が続き、1827年の柏原大火事の為に、一茶宅も全焼。住む場所もなく、焼け残った残った土蔵で暮らしました。そして、そこで一茶は終焉(しゅうえん)しているのです。一茶、65歳。
終焉の土蔵(小林一茶記念館ホームページより複写)
一茶関係の本を走り読みしますと、この事実を見て、不幸のどん底・悲惨な生活であったと書かれているのです。この解釈は、明らかに間違いではないのでしょうか?現実は不幸な生活でも、心は阿弥陀様に任せきった豊かな心情が俳句して残されているのですから。
一茶の心情とは、「嬉しいときも、悲しいときも、如来様のおてまわし」。これです。ところが、一茶のこの真宗的心情は見事に忘れられ、忘れられというよりも現代の評論家の先生方の宗教心の欠如から必然的というべきでしょうか。この状態で一茶を「ああでもない。こうでもない」と解釈されるのですから、一茶もはなはだ迷惑な話です。
でも、読者の中には一句だけの紹介で、「念仏者一茶とはこれいかに」といわれる方もおられる筈。その方のために、以下を紹介。
一茶51歳の時(文化10年=1813年)、北信州の長沼にて俳聖である松尾芭蕉の「芭蕉忌」を主催。その際に、一茶は自分の俳句観を浄土真宗の教義を引き合いに出して次のように述べているのです。「我宗門(意味・・私の信仰する浄土真宗)にては、あながちに弟子と云(い)わず、師といはず。如来の本願を我も信じ人にも信じさすことなれば、御同朋(おんどうほう)・御同行(おんどうぎょう)とて、平座にありて讃談するを常とす。いわんや俳諧においてをや」と述べています。一茶は、浄土真宗の教えを例に引きながら、普通の俳句社会のように師匠・弟子の関係を否定し、「ありのまま」の平等の俳句を打ち出しているのです。それにしても、なんと見事な真宗理解でありましょうか。故に、一茶は念仏者なのです。そして、一茶の俳句は如来の大悲に裏打ちされた慈愛の俳句なのです。
次回は、一茶の人生の歩み・・・続く
このブログの訪問者が、121000人(正確には、121206人)を超えていました。いつも訪問していただき有難うございます。
一茶は念仏者だったのですね 「としもはや あなかしこなり 如来様」この俳句を頂戴し、私とて65歳は通り越しながらそのような心境にすらなれない今の自分が不甲斐なく思います
続編をお願いいたします