明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

蓮花寺過去帳(2)

2010-04-21 00:20:16 | Weblog
古来、軍記物の双璧と言えば、「平家物語」と「太平記」。蓮花寺に関係するのは、太平記の世界。楠木正成(くすのきまさしげ)・新田義貞(にったよしさだ)・足利尊氏(あしかがたかうじ)等が活躍する世界である。
時は、元弘3年(1333年)。後醍醐(ごだいご)天皇の、幕府(鎌倉幕府)倒幕計画も大詰めを迎えた。足利尊氏が天皇方に寝返り、京都周辺の情勢が一挙に動いたのである。本来、足利尊氏は北条氏の命令により天皇方を撃つために関東から大軍を率いて上洛したもの。
5月7日には京都を天皇方が激戦の末に占領。それまで、鎌倉幕府の西国支配・京都支配の要(かなめ)の拠点としておかれた南北の両六波羅探題も焼け落ちた。六波羅(ろくはら)探題は、鎌倉幕府を支配する北条氏にとっては極めて重要な役職。北条氏一門でも、執権(しっけん)・連署(れんしょ)等に次ぐ役職とみなされており、中枢に近い人物が代々任命されてきた歴史がある。この時、北六波羅探題は、北条氏の名門である北条仲時(28才)であった。仲時は、鎌倉にて態勢を立て直すことを考え、最後まで忠誠を誓う2000余騎を引いて京都を脱出する。この中には、鎌倉幕府により立てられた光厳天皇一行も含まれていた。美濃国の境に近い近江番場(滋賀県米原市番場)までたどりついたが、「太平記」では番場の地形を「東山道第一の難所」と書いている。実際、番場集落は周囲を山に囲まれたすり鉢の底のような場所であり、「太平記」の記実が分かろうというもの。北条仲時一行は、ここで天皇方に包囲さて立ち往生の状態となる。京都を出発した時は2000余騎であったが、番場に到着した時は相次ぐ脱落にて700余騎となっていた。
ここからの展開は、現代日本人には到底理解しがたい展開・場面であり、新田義貞の鎌倉占領(鎌倉幕府の滅亡)と共に、私は「太平記」前半の白眉(はくび)の場面と思う。「太平記」という本は、高校の図書館にて初めて出あったが、この蓮花寺の場面は強烈なインパクトで迫り、何度も読み返したのを覚えている。
写真は、蓮花寺本堂。壮烈な悲劇は、この本堂手前の境内地で起った。(明日に続く)


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