比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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佐久甲州往還・・・東馬流・・・秩父困民党終焉の跡

2012-05-12 | 秩父事件を追って
2泊3日の信州の旅・・・最終日は佐久から甲州に抜けて帰ります。
塩田平から丸子、長久保、芦田、望月、臼田、小海に。

小海町で秩父困民党終焉の地に寄っていくことにしました。昨年の9月18日小海町東馬流の諏訪神社の脇に建つ「秩父暴徒戦死者之墓」に寄りましたが、困民党の最後の激戦地天狗岩あたりを見なかったことが心残りになっていたからです。

天狗岩です・・・戦いはここではじまった。

信州佐久・・・小海町東馬流・・・天狗岩の下・・・小海線、道路のそばの一角にこんな記念碑が建っていました。石碑の下は畑、千曲川をはさんでその向こうは国道141号線甲州往還(山梨県からいえば佐久往還)。

明治17年11月9日未明 秩父困民党散華之地 佐久秩父事件100周年顕彰実行委員会

1884年(明治17年)10月31日秩父風布で蜂起した秩父事件は11月3日秩父盆地では瓦解、11月4日上吉田塚越で菊池寛平が新リーダーとなって信州佐久に進路をとります。そして11月9日ここ東馬流で軍、警官隊と衝突、野辺山方面に壊走、11月10日完全に消滅しました。

この衝突現場で農民13名が死亡。6名の名前が刻まれています。碑文の間にスペースがあります。残り7名の死体は名前がわからなかったのでしょうか。

石碑のそばに菊池寛平、井出為吉の像が・・・二人は秩父困民党結成に佐久から参じました。秩父佐久事件の佐久サイドのシンボルです。
もう少し凛々しく悲壮感あふれる像を作ってもらいたかった。

菊池寛平・・・(1847~1914年)北牧村の生まれ、北相木村の菊池家の養子。岩村田町で代言人を。秩父事件蜂起前に秩父入りをして幹部に、秩父困民党の軍律5ヶ条を起草したといわれる。佐久事件のリーダーであるが逃亡を重ね逮捕され終身刑に、恩赦により釈放。余生を北相木村で。
井出為吉・・・(1859~1905年)北相木村の戸長を務めていたインテリ。寛平とともに秩父困民党の結成に参じて会計係りに。秩父で逮捕され懲役、恩赦により釈放後、群馬県で吏員を務めていたが病を得て故郷に帰り46歳で没。


2011年9月29日のブログ・・・クリック→信州佐久の・・・東馬流・・・秩父暴徒戦死者之墓

秩父事件を尋ねて歩いた道をフォトアルバムにまとめました・・・クリック→秩父へ・・・秩父事件の原点を追いかけて

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