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比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

上野の森で・・・レオナール・フジタ展

2008-12-08 | 絵画、彫刻
上野の森を歩いて「上野の森美術館」(日本美術協会)にやってきました。
枯葉散る公園の道は行き交う人も絵になってます。

レオナール・フジタ展」です。
レオナール・フジタ・・・藤田嗣治ではありません。フランス国籍の日本人。日本国籍を自ら抹消。




フェルメール展」にやってきて看板を見てふと急に思い立ちました。


絵葉書より「裸婦と猫」(1923年)

絵葉書より「座る女性と猫」(1923年)

2点とも同じ年、モデルは違うようですが、猫は同じか。37歳くらいの作品、パリでその名が認められたころです。


藤田の絵の二つの特色、「乳白の肌」と「細い輪郭」。
乳白色の肌」は後の分析で汗取りに使うタルカンパウダーと同じタルクではないかといわれますが謎です。
藤田独特の輪郭(浮世絵の技法)は面相筆(日本画で使う極細筆)に細い針金状のものを芯にしのばせたものを使ってるようです。眼鏡をかけて絵に近づいて見ましたがカラスグチで書いたような均一な線でした。

藤田嗣治(1886~1968年)東京生まれ、父は陸軍軍医総監。1914年パリに、モディリアーニ、ピカソ、ルソーらと親交。1938年から従軍画家として戦意高揚画を描き、戦後これを日本美術会から厳しく糾弾されます。
1949年日本を去り1955年フランス国籍を取得、のち日本国籍を抹消。

会場の年譜にはこの辺の事情(戦争協力画のこと)がありません。フジタの晩年は宗教画が多いようです。戦争はこの天才画家に深い傷を残しました。

国立近代美術館藤田嗣治らの戦争プロパガンダの絵が所蔵されています。それについて考えて見ました。

上野の森で・・・フェルメール展

2008-12-06 | 絵画、彫刻
フェルメール展」を見に行ってきました。

上野公園・・・東京都美術館・・・上野の森の中。動物園の入り口の右側。


     
(絵葉書から)
ワイングラスを持つ娘
16659~1660年ごろ
77.5cm×66.7cm

この娘もなぜかカメラ目線です。
「わたしを酔わせてどうしようっていうの」
「マアマア・・・もう一ッ杯」
ところで隅っこで陰鬱そうな顔をしてる男は何なんだ。

(絵葉書から)
ヴァージナルの前に座る若い女
1670年ごろ
25cm×20cm

ヴァージナル・・・鍵盤楽器、チェンバロみたいなもの。
なぜかカメラ目線(この場合は画家に対する目線)。



ヨハネス・フェルメール(1632~1675年)・・・17世紀中ごろ、オランダ、デルフト地方の画家。17世紀のオランダは東インド会社を擁し大海上帝国時代といわれたもっとも栄えた時代。年譜によると父は織物業、画商、居酒屋、旅篭など営む。21歳のころ結婚、11人(ほかに4人は夭折)の子供(奥さんは生む機械か?)と莫大な借財を残して43歳で死去。借財は残された奥さんが自己破産して整理。借財がどういうものか不明。父の借財遺産と子沢山が生活を圧迫・・・絵が売れなかった・・・フランスとの戦争で国内経済が逼迫していた・・などが原因らしい。賢婦人は後に夫の絵をほとんど買い戻したといわれます。
寡作の画家といわれ生涯作品は36点?子供は多かったが作品は少ない。謎が多いから贋作の多いそうです。そのころはサインの習慣などがなかったのかな。
話しが飛びました。絵はたいへん素晴らしい。構図は当時の最新の技法の遠近法、透視図法。ピンホール写真の技法も?)。


・・・わたし的に見ると圧倒されて面白くない・・・やっぱりゴッホのようなヘタウマでオリジナリティーあふれるのが好きだ・・・ゴメンナサイ

《蛇足》
2003年アメリカ、イギリス、ルクセンブルクの合作で「真珠の耳飾りの少女」という映画が公開されました。フェルメールの召使で後に助手をつとめた女性が「真珠の耳飾りの少女(別名・・青いターバンの女)」(今回の出品はなし)のモデルという設定だそうですが、モデルは娘クリスともいわれ定説は無いようです。

映画も興味がありますがフェルメールの生きた時代の背景がどんなものか知りたいですね。

故郷忘じがたく候・・・薩摩焼のふるさと・・・苗代川・・・沈壽官

2008-10-21 | 絵画、彫刻
                                       、
10月20日月曜日、某テレビ局の「鶴瓢の家族に乾杯」という番組、鹿児島県日置市のあたりが出ていました。この番組いつもウチのオバサンが熱心に見ていてわたしは横目で見てる程度ですが、この日は例の大河ドラマ「篤姫」の初恋の相手とかいう小松帯刀(清廉)の墓所を某華道家が訪ねたりする場面があって、そのうちに薩摩焼のふるさと苗代川の風景が出てきて、鶴瓶さんが沈寿官さんの屋敷に迷い込むという場面が映し出されました。
たいへん懐かしい風景です。ここは旅人として昨年12月に訪れました。

沈寿官邸はこんなところです。

  07.12.19のブログ 鹿児島の旅・・・薩摩焼き・・・故郷忘じがたく

ネット社会とは面白いもので今朝(10月21日)昨日のアクセス状況を見ましたらこのブログにアクセスしてくれた方々がいました。昨日のテレビの影響ですね。たいへん嬉しく思ってます。

私が南九州を訪ねたのは昨年の12月、司馬遼太郎さんの「故郷忘じがたく候」、赤羽礼子さんの「ホタル帰るを読まなかったら南九州の地を踏まなかったかもしれません。

司馬遼太郎故郷忘じがたく候
    (文藝春秋1968年刊)
小説というより歴史随想というか司馬遼太郎独特の語り節です。十四代沈寿官さんとの出会いから始まり例によって司馬流の語りが展開していきます。

1597年朝鮮全羅北道南原城の戦いで逃げ遅れた70名ばかりの男女が島津軍の捕虜となります。この時、意識して朝鮮磁器の工人を捕虜にしたかは定かではないようです。結果的に連行してきた捕虜が磁器の技術をもっていたかも知れません。
島津軍に捉えられた一行は島津軍撤退に従って日本に来ますがどうも単独で鹿児島県串木野の島平というところに上陸したようです。偶然に流れ着いたということでしょうか。数年を経て現在の土地に移住、以来曲折はあったでしょうが薩摩藩では彼らを郷士として処遇します。彼らの焼く白薩摩は藩の財源になりました。

「故郷忘じがたく候」・・・・・・・・は薩摩上陸以来200年もたったある日、尋ねてきた人の問に答えてつぶやく故老の言葉です。

沈さんはソウル大学の講演で学生達に語りかけます。

「あなた方が三十六年をいうなら・・・」
「私は三百七十年をいわねばならぬ」


新しい国家の建設のためには前へ前へと向いて欲しい。そういいたかったのでしょう。学生達の大合唱の前で身をふるわせて立ちつくします。

1597年ここに上陸、痛恨の思いで400年余を過ごしたかどうかはわたしには窺い知ることはできません。わたし的に考えて日本人以上に日本人として生きてきたように思えます。そう思いたいのです。

静かな美しい田舎の村です。

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諏訪湖のほとりで・・・美しい日本を見た・・・原田泰治美術館

2008-10-07 | 絵画、彫刻
信州・・・諏訪湖岸にやってきました。

原田泰治美術館です(原田泰治美術館のパンフレットから)。
諏訪湖畔に浮かぶように。ちょっとリッパ過ぎるが・・・。1階エントランスホール、2階のティールームから額縁に囲まれたような諏訪湖の風景が。

入館料チケット。
こういうのをとっておくのが好きなんです。原田泰治ってご存知ですか。絵を見れば「ア~」と思い出されるはずです。


原田泰治さん・・・
1940年諏訪市に生まれ1歳のとき小児麻痺で足が不自由に。4歳で長野県下伊那郡伊賀良村(現飯田市)に。1960年武蔵美術大学洋画科に、商業デザイン科に転ずる。1982年朝日新聞日曜版に「原田泰治の世界」を連載。42歳のデビューで遅いデビューです。
 

ボンネットバス・・・岩手県遠野市の風景(絵葉書から)


霧ヶ峰・・・長野県諏訪市霧ヶ峰の風景(絵葉書から)

誰にも真似のできない真似をしてはいけない原田泰治さんのオンリーワンの世界です。
アクリル絵の具、下地はわかりません。人物の目鼻がありません。建物の垂直・水平がアンバランスです。景色の遠近もおかしいのです。
それでいてフシギな調和の美しさがあります。
感動する絵です。豊かな気持ちになりました。

霧ヶ峰高原の絵を見て霧ヶ峰高原に行きたくなりました。

《蛇足》この地方には美術館がたいへん多いのだそうです。この美術館のほかに諏訪湖畔にはエミール・ガレ、東山魁夷のコレクションで有名な「北沢美術館」、茅野市には放浪の画家「山下清美術館」があります。どれがおすすめかはわたしには言えません。みんな素晴らしいです。アートは創作者の分身です。

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信濃国上田・・・山本鼎記念館

2008-09-29 | 絵画、彫刻
信州上田城・・・堂々たる天守閣を構えたお城でもないし広い城郭もありません。三つの隅櫓と一つの櫓門、ただそれだけです。その中に上田市博物館山本鼎記念館があります。山本鼎記念館に入ってみました。

山本鼎といっても今は知ってる人はいないと思います。わたしも知りません。

山本鼎(1882~1946年)・・・油彩、水彩、木版画家です。
愛知県岡崎市生まれ。東京に移住、10歳のとき木版工房の内弟子に、16歳のとき一家をあげて上田市大屋に移住。20歳東京美術学校西洋画科に。木版画を発表。
教科書に載ってるとか国立近代美術館にあるとかいう代表作はありません。この人の業績は3つあります。
自由画教育・・・当時の絵画教育は写し絵、模写でした。それを児童の創造性を伸ばす自由画教育にしたのが鼎でした。今の図工教育はこの流れを継いでいます。
版画・・・版画という言葉は鼎の造語だそうです。浮世絵の下請け作業だった版木彫りを独立した美術に高めました。
農民美術教育・・・上田市に記念館がある由縁です。いまは市立記念館(美術館とはいわない)ですが、有志が創立したものだそうです。鼎が画家としての道を歩みだしたころ日本の農村は疲弊のドン底にあり、農民の精神的な自立を求めて日本農民美術研究所を開設します。農民が農閑期に民芸品を作る、これが経済的な救済になったかは私は知りませんが今もこの地ではこの流れをくむ木彫りが盛んです。

入館料250円。この券で隣接する上田市立博物館、上田城南櫓の入場が共通です。

山本鼎の「自画像
画像クリック・・・「塩田平からの独鈷山

石井伯亭、石井鶴三、梅原龍三郎、岡田三郎助、藤島武二らと親しい。
北原白秋の「邪宗門」の挿絵、後に白秋の妹いえ子と結婚。

夭折の画家村山槐多は従弟。槐多の絵は上田市塩田平の「信濃デッサン館」で見ることができます。

ブログのエントリーが前後しましたが上田城内をブラブラしてるとき入館しました。信濃国分寺に行く前です。
鼎の提唱した農民芸術の流れをくむ木彫り作品、手織物などが展示してあります。トルストイに共鳴して理想主義的ではあったかも知れませんが農民に誇りを持たせることに鼎がいかに腐心したかが窺えます。

1923年創設した日本農民美術研究所は1935年閉鎖されます。それは日本が日中戦争の泥沼に入っていくころでした。

甲斐の国から・・・ミレーだけじゃないぞっ!

2008-06-10 | 絵画、彫刻
山梨県立美術館を出ると外は「芸術の森公園」。豊かな木が生い茂り、噴水があり、芝生広場があります。バラ園もあるそうです。ここは半日はブラッとできそうです。
高価だと思われるブロンズがさりげなく置かれています。みんな有名な作家です。
彫刻は何気なくポ~ッと見ているのがいちばんです。



クロード・ロランオーギュスト・ロダン(1840~1917年)あの有名なロダンです。
木の下の少女はブロンズです。


裸のフローラアリスティド・マイヨール(1861~1944年)この人の作品は日本のあちこちにあります。
優しくて親しみやすい。上野の西洋美術館で見ました。


「ゴッホ記念碑オシップ・ザッキン(1890~1967年)。向こうのリンゴはオブジェです。


四つに分かれた横たわる人体ヘンリー・ムーア(1898~1986年)屋外に設置されるパブリック・アート。
抽象的だが何となくわかるような気がする。


昼食にしましょう

甲斐の国から・・ミレーを見れ~

2008-06-10 | 絵画、彫刻
山梨県の甲府市に行きました。あいにくの曇りで甲斐の山々は日に映えていません。
山梨県立美術館」でミレーを見レーと「芸術の森公園」に。山に行った帰りの人などがミレのザックを背負ってミレーを見に来ています(ミレ…フランスブランドの有名ザック)。
1978年開館。元農事試験場の壮大な跡地に。緑いっぱいの公園内を散歩するだけでも楽しいところです。公園内にはあちこちにブロンズが置かれてます。

正面玄関。ミレーです。

彫刻はケンタウロス(半人半獣)」アントワーヌ・ブールデル(1861~1929年)。芸術的な雰囲気だ。

入館料は500円(65歳以上無料)。
1978年、当時の山梨県知事(田辺国男)が「山梨に文化を」と県民文化会館と芸術の森公園をセットで企画したもののようです。なぜミレーか、語るとながくなります。いまこうして見るとミレーの農民芸術が山梨の風土にあってるかなとも思えます。
ちなみに「種をまく人」は当時2億円(安田海上火災のゴッホの「ひまわり」は1987年58億円)。購入資金は県営発電所売電収益を議会承認、通産省許可を得て、そのた寄付金で。
壮大なハコであり中身ですが、これを無駄と考えるか、県民に文化をと考えるか、人それぞれです。私は後者をとります・・・・時の財政状態によりますが。
美術館の前ではいろいろなお国のナマリが聞かれます。2006年(開館28年目)で入場者が1000万人を超えたそうです。

ジャン・フランソワ・ミレー(1814~1875年)バルビゾン派、セザンヌ、モネらの印象派の前。フォンテーヌブローの森・バルビゾン村で農村の自然、農民の姿を描いた。

 「種をまく人」


 「羊飼い」

 「落穂ひろい」

「種をまく人」はボストン美術館にもう一つのバージョンが。「落穂ひろい」はパリオルセー美術館に横広のバージョンが、「(夕暮れに羊を連れ帰る)羊飼い」は「羊飼いの少女」という同じような構図の絵がオルセー美術館にあるそうです。もちろんミレーの絵はこの3点だけではありません。パルビゾン派の画家たちの絵や日本の名画、県出身の画家の名画もあります。

こうした絵が世界に散らばってる状態がいいことか、画家の故郷に置くべきか、考えはいろいろですが、世界の文化遺産と考えて私たちが見られることは幸せなことです。山梨に行ったら、ぜひ寄ってみてください。私は今回で2度目です。甲府で公演されるある「ミュージカル」を見る前で、あわただしかったのですが至福の時間でした。絵葉書を買って外に出ます

絵なんて人に感動を与えるものなら「何でもアリ」なんです。

秩父路・・秩父芸術文化会館・・北村西望展

2008-05-12 | 絵画、彫刻
二子山の山歩きの終点は芸術鑑賞です。イソガシイ!
秩父市にやってきました道の駅「ちちぶ」、お伽の国のような外観。羊山公園の芝櫻の臨時駐車場のようです(ここから羊山まで30分以上は歩くのだ)。隣接して秩父市芸術文化会館がありました。駐車場は入館者のみOK。


入場券300円、北村西望「墨の世界と彫刻展」
チケットの写真は代表作「笑う少女」・・・「喜ぶ少女」ともいう。
北村西望(1884~1987年)
長崎県南有馬村(現南島原市)生まれ。東京美術学校卒業、同校教授、日本の近代彫刻界の重鎮です。1944年銅像供出阻止運動を朝倉文雄などと行います。
1945年埼玉県秩父の矢那瀬村(現長瀞町)に疎開。
1950年長崎市より平和祈念像を依頼され(66歳)、
1951年原案提出、決定、着手。
1955年完成(71歳)。
1973年天草四郎像(島原・天草の乱の原城城址に)。



北村西望がなぜ秩父と?、館員の方が熱心に説明してくださいました。大戦中に矢那瀬(長瀞と波久礼の間のあたり)の高徳寺に疎開、熊谷次郎直実の像(熊谷駅に)、秩父鉄道の創業者柿原萬蔵の像(羊山公園に)も作っており、柿原家とは縁戚関係でもあります。

展覧会場には「長崎平和祈念像」の縮小ブロンズもありました。
縮小ブロンズは東京都北区の「北とぴあ」、東京都三鷹市新川の仙川公園、島原市「北村西望記念館」などに。

試作品は30cm、長崎市白鳥町の長崎拘置支所に設置されています。、

これをだんだん大きく作り直し原型にして最後にパーツに分けてブロンズにしてつなぎ合せたそうです。原型は東京都井の頭公園「北村西望彫刻館」に。

モデル・・・長崎県大村市出身の当時の相撲取り「力道山」または柔道・レスリングの指導者の方とか諸説あるようです。
秩父の方の説明では顔は娘さんそっくりだそうです。そういえば優しい顔をしています。


・・・・・五年の歳月をかけた生涯一の大作「長崎平和祈念像」・・・・・

総制作費、昭和30年(1955年)で3000万円、募金による浄財です。台座2000万円は長崎市が。この当時はまだ被災者の法的救済処置は取られていませんでした。

最後にむかし描いたわたしのスケッチです。ヘタクソですが平和祈念の気持ちを込めて描きました。


鎌倉散歩・・・鏑木清方記念美術館

2008-04-03 | 絵画、彫刻
鎌倉の象徴、鶴岡八幡宮にお参りしたあとはブラブラ散歩です。
鎌倉は歴史の街であり文化の町でもあるのです。県立近代美術館、鎌倉文学館、鎌倉国宝館、棟方版画美術館、葉祥明美術館、鏑木清方記念美術館などがあります。八幡宮の境内にある近代美術館は前だけを通過して静かな住宅街を散歩していると鏑木清方記念美術館に前に出ます。

普通の家です。ウッカリして通り過ぎて引き返しました。
おもやの玄関に通じる小さな小径です。

道路のそばにある門の横にある案内の中にポスターが貼ってあります。

入館券、大人300円。
 
鏑木清方(1878~1972年)明治、大正、昭和を代表する美人画の画家です。戦災に遭われ1946年より東京から鎌倉に居を移し終焉の地とします。

伊東深水(昭和を代表する美人画家、女優朝丘雪路は娘)は清方の弟子。

美術館は鎌倉市が遺族の方から寄贈を受け2000年に再現、財団法人で運営。

美術館を訪れると数枚の絵葉書を買うことにしています。

「朝涼」(1925年)

清楚なお嬢さんという感じです。清方というと日本髪の豪華な着物姿の美人画を思い浮かびますが、こういう絵がいいですね。

散歩はさらに進みます。近くに寿福寺があるはずだ


赤い風車・・モンマルトル・・ロートレック

2008-02-28 | 絵画、彫刻
東京ミッドタウンのサントリー美術館。「ロートレック展」です。

アンリ・トゥルーズ=ロートレック(1864~1901年)。ロートレックと呼ばれていますがトゥルーズ=ロートレックというのが正式のようです。フランスの裕福な伯爵家の生まれ。
この人の絵を見る場合、身体的ハンデについて知っていることが必要でしょう。13歳で左足、14歳で右足の大腿骨を骨折します。以来、上半身は成長しますが下半身の成長が止まります。骨粗鬆症と骨形成不全症がかさなったようで、医学的には遺伝子疾患と考えられているようです。名門の家系にあった血の近さがそうさせたのでしょうか。
身体的ハンデのための劣等感にさいなまれながら絵の才能を開花させ、18歳のときパリに出て、モンマルトルのアパートで退廃的な生活を過ごします。
モンマルトル・・19世紀パリ郊外のニュータウン、安アパート、飲み屋街、キャバレー街、共同墓地、今はどうなのか知りませんが吹き溜まりのようなひどいところだったようです。モディリアーニ、ピカソも住んでいたようですが家賃が安かったからでしょう。
伯爵家のお坊ちゃんですが容貌魁偉の不具者ですから相手にしてくれるのは売春婦か飲み屋街の人しかいません。鬱屈した生活を送ってたのでしょう。酒と娼婦の日々です。

そんなことを目に浮かべればロートレックの絵が見えてきます。
入場券の絵は厚紙に油彩のものです。ロートレックを凝縮したものだと思います。

絵葉書からです。

左は厚紙に油彩。あとの2枚はポスター(リトグラフ)です。油彩は厚紙に書いたものが多いですね。自由に書きたかったからでしょうか。紙ですから滲みていって油彩独特の光がありません。パステル調にも見えます。厚紙にガッシュもあります。キャンパスに油彩もありますがこれは頼まれた肖像画だけのようです。リトグラフは漫画チックに見えますがデッサンはしっかりしています。
ロートレックといえばポスター(リトグラフ)ですね。モンマルトルそのものです。よく見ると「R」という「落款」らしきものが見えます。写楽、歌麿、国貞など浮世絵の影響がありありです。顔の輪郭を線で表現するという技法は西洋画にはなかったようです。「ジャポニスム」といいます。ゴッホ、モネなどにも浮き世絵の影響が見られます。
リトグラフ・・詳しい技法は知りませんがその当時は石版だったらしいです。亜鉛版、アルミ版に変わっていきますが基本的には変わっていません。

「赤い風車」1952年アメリカ映画。100円ショップで目にはいりましたので買ってしまいました。重たい映画です。



1901年母に連れられて田舎に帰り37歳、アルコール依存症、梅毒の生涯を閉じます。
血縁のための病にさいなまれながらパリの下町の人に目をおいて珠玉のような作品を残しました。