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比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

世界遺産・・・越中五箇山…相倉・・・合掌造りの建築様式を見る

2014-09-26 | 道をゆく 越後・越中・加能・越前
9月15日、金沢から富山県に入り砺波平野(庄川扇状地)を西に向かい東海北陸自動車道の城端PAを過ぎ白山山系の北端の山なみの下、トンネルを抜ける五箇山(ごかやま)です。世界遺産「白川郷・五箇山の合掌造り集落」の谷、相倉(あいのくら)集落を尋ねました。標高約400m。

合掌住宅の建築様式を見たくて展示館に入館しました。写真が10枚にもなりました。見る人の集中力を考えて枚数の多い画像アップはなるべく避けているのですがゴメンナサイ。古民家の構造などに興味のない人は読み流してください。わたし的の好奇心ではこの画像では足りないので、後からあれも撮っておけばよかったという対象を撮り損ねていて反省しています。

展示館・・・池端家(屋号勇助)、明治元年隣りの集落に建てられ明治の中ごろ相倉に移築されたそうです。
合掌造りの玄関は妻入りが普通ですがここは平入。間口はざっと見て13間、奥行き5間、建坪200㎡以上です。

合掌造り、切り妻の最上部、合掌(叉首)の最先端を外側から見た写真です。二階から上が合掌、正三角形。
・・・ということは屋根の斜度は60度、豪雪の地の雪を滑落させる知恵でしょうか。いろんな面で合理的です。
窓は五箇山和紙・・・ガラス窓に相当しています。

軒下部分を外側から見た写真。

1階の部分は宮大工が造った。曲がった太い梁はチョンナ張りというのだそうです。
明治元年の建造の根拠はところどころに漆塗りが施されているのだそうです(江戸時代は一般住宅に漆加工が許可されなかった)。

2階はアマといいます。ところどころ簀子になっていて囲炉裏の煙、暖気が上がってくるようになっています。
養蚕、大家族制ですから居室にもつかわれていました。

叉首の横ずれを防ぐハネガイ・・・西洋のトラス工法と同じ。筋交いのような働きをする。

叉首のほかにいろんな木材が使われ藁縄で固定されています。釘は使っていません。木組みによる木材の接合もないようです。

3階の部分、ソラアマといいます。機能は2階(アマ)と同じようです。
切妻部分は明り取り、エアーコンデショナーと機能的です。

叉首の部分を中から眺めた。叉首とは丸太を両側から合掌状に組み合わせてうえに棟木をのせて縛り上げる工法です。
叉首の下はチョンナ張りにタボを打ってそこに引っ掛けています。不思議な工法です。
二階から上はすべて集落の人たちが共同作業(結い)で造り上げたそうです。


※外壁は土壁ではなく杉皮です。冬は軒下に雪囲いをして落下する雪が自然に積み上がるようにしてるのだそうです。このへんでは降雪3m以上とか。雪下ろしもするそうです。
※叉首(さす)・・・一般的な建築用語では叉首というようですがここでは合掌というようです。合掌の最下端の部分、ダボ(ピン)との接触部分を写真に収めたかったのですが欠落してしまいました。
※部屋割の、オエ(囲炉裏の間、食事場、居間、リビング)、デイ(客間)、座敷、仏間などは省略することになってしまいました。

※合掌造りの茅葺屋根のふき替えは30~40年に1回、1000万円以上かかるといわれます(資材は入会山から、ほとんどが人件費)。この作業は集落内の共同作業(無償労働)で行われます。この共同作業は日本各地で「ゆい」とか「もやい」とか呼ばれ、沖縄では「ゆいまーる」、朝鮮半島から東南アジアの国々でも同じような共同作業があるようです。
社会学では地域共同体とかコミュニティー(英語)とかゲマインシャフト(独語)などといいます。
わたしの子どものころの田舎では田植えとか稲刈などは「結い」で行われていたようです。
この話は長くなるので割愛します・・・これから文章を継ぎ足していくかもしれません。 

※建築に素人の好奇心からのレポです。
囲炉裏でお茶をいただき、管理人の方、福光から来たという古民家にお住まいの方にいろいろ教えてもらいました。
楽しいひと時でした。


世界遺産・・・越中五箇山…相倉合掌造り集落・・・黄金の稲穂と白い蕎麦の花

2014-09-25 | 道をゆく 越後・越中・加能・越前
9月15日、金沢から富山県に入り砺波平野(庄川扇状地)を西に向かい東海北陸自動車道の城端PAを過ぎ白山山系の北端の山なみの下、トンネルを抜ける五箇山(ごかやま)です。世界遺産「白川郷・五箇山の合掌造り集落」の谷、相倉(あいのくら)集落を尋ねました。標高約400m。

世界遺産といっても日常生活の場です。江戸時代は楮(和紙)、蚕、塩硝造りが主な生活の道。
集落内で水田耕作が始められたのは明治の中期の1888年ごろだそうです。

稲の天日乾燥・・・架懸け(はざかけ)。

旧五箇山街道(相倉往来、城端往来)の標識柱。

五箇山街道(城端往来)・・・越中城端と五箇山を結ぶ街道。現在は中部北陸自然歩道(約12㎞)、城端側の若杉集落跡(標高533m)~唐木峠(680m)~朴峠(850m)~鹿取峠(730m)~相倉(標高400m)に至る古の道。徒歩の道であり、人の背中、牛の背中による荷駄輸送の道でした。ところどころの石畳が残るそうです。浄土真宗中興の祖蓮如が1468年に北陸から白川郷を経由して京都に向った道。1887年(明治22年)に道谷新道開削、1927年にほぼ現在の304号線に、1935年井波~五箇山を結ぶ現在の国道156号線開通。1952年(昭和27年)城端~五箇山バス路線開通。1984年五箇山トンネル開通。塩硝街道という古道があるそうです。塩硝は火薬、加賀藩が五箇山の民に作らせた軍事品、その輸送路は秘められて謎だそうです。、

蕎麦の花盛り。蕎麦は米作が普及する前の貴重な穀類だったと思います。

蕎麦の花と合掌造りの家。

※世界遺産は非日常の世界ではありません。日本人の生きてきた道を考える場所です。
   ①ゴミは持ち込まない、捨てない(おいていってイイのは足跡だけ
   ②火気厳禁・・・合掌造りは木と萱と藁縄、すべて植物の自然素材でできています。
   ③自然を大切に・・・道端の花を勝手に採らない(トッてイイのは写真だけ)踏んづけない、畑や田圃や畦道の中に入らない。
   ④トイレは・・・駐車場にあります。
   ⑤世界遺産、史跡ですが日常の生活の場です。散策路以外の私有地に入らないで・・・どうしてもというときは了解を得ることです。
    住宅により、資料館、お休み処、お土産処などになっていますが、そうでない住宅もあります。むやみに戸を開けたりしないように。
    写真のように今は収穫の最盛期です。おジャマにならないように。でもアイコンタクトしたらスマイルで。必ずスマイルを返してくれます。
(パンフレットより)

世界遺産・・・合掌造り集落の旅・・・越中五箇山…相倉集落にきました 

2014-09-22 | 道をゆく 越後・越中・加能・越前
9月15日、宿泊地の金沢から早朝出発。富山県に入り砺波平野(庄川扇状地)を西に向かい東海北陸自動車道の城端PAを過ぎ白山山系の北端の山なみの下、トンネルを抜ける五箇山(ごかやま)です。
五箇山・・・平村、上平村、利賀村の3つの村が2004年に砺波平野側の福野町、城端町、井波町、井野村、福光町と合併して南砺市(なんとし)に。高山市南西部の山中に流れを発する庄川の中流部、合掌造りとして昔から知られる白川郷と接しているため飛騨のように思われますが富山県(加賀前田藩の領内であった)です。
赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷・・・5つの谷からなるから五箇谷間。かつて5つの荘園からなるから五箇荘、などの説がある。日本には五箇と呼ばれる場所が120ヶ所ばかりあるそうです。五穀、五人組、伍長とか5で括る習慣があったからとも。

さて、東海北陸自動車道を五箇山ICで下りて五箇山合掌集落相倉(あいのくら)へ。国道156号線(越中街道、飛騨街道、白川街道)と国道304号線が接するあたり、南砺市相倉。案内に従って車を進めると駐車場に。駐車場から少し小高い展望台に。

越中五箇山の相倉集落の俯瞰。稲の収穫をする人。

道端に咲くツリフネソウ

蕎麦畑が見えます。

道端に咲くキツリフネ

ジオラマではありません・・・人々が生活する場です。相倉集落32戸にうち20戸が合掌住宅だそうです。
※カメラはPanasonic LUMIX DMC-GH2 14~140mm。

北陸の旅・・・能登・・・千里浜なぎさドライブウエイ・・・波飛沫と少女

2014-09-20 | 道をゆく 越後・越中・加能・越前
千里浜なぎさドライブウエイ・・・世界に3カ所しかないといわれるタイヤの潜らない砂浜・・・全長8㎞。

砂浜の砂が細かく水を含むと固くなりタイヤが潜らなくなる。
世界ではアメリカのデイトナビーチ、ニュージーランドのワイタレレビーチとここだけだそうだ。
道路ではないが道路標識がある。場所によりタイヤがスタックするところもあるそうだから轍のあとを選んだほうがイイ。

遠浅の海岸で夏は海水浴場に。秋になると波が高くなるそうだ。




※カメラはPanasonic LUMIX DMC-GH2 14~140mm。
全長8㎞、快適です。観光バスも大型トラックも走れます。日本に唯一、世界で3カ所しかない自動車も走れる渚、一度は行ってみたい海岸です。

富山の雨晴海岸から次の目的地の氷見漁港のフィッシャーマンワーフ海鮮館に。なんとそこは閉館していて、いまは橋を渡った先に「氷見港場外市場ひみ番屋街」としてリニューアル。ここで「氷見前寿し」に・・・マグロとかウニとかイクラとかなくて、ほとんどが地魚・・・フクラギ(ブリの幼魚)、ノドグロ、白エビ、アカガレイ、サワラ、コチなど関東では寿司ダネとして馴染みの無いもの、氷見ブリは季節でないのでナシ。どれもオイシュウございました。
氷見で寿司を腹いっぱい食べたあと、能登を貫く山なみを越えて能登半島の西側の、羽咋市に、千里浜海岸をドライブしたあとは金沢に。

久しぶりの北陸への旅・・・雨晴海岸で立山連峰を見たかったのだが

2014-09-18 | 道をゆく 越後・越中・加能・越前
9月14日、久しぶりの旅行です。このごろは1年に1回ぐらいになりました。
今回は北陸から飛騨へ、ロングドライブ。例によって前夜にネットでホテルの空き部屋を探す。何とか確保。
朝、8時半ごろ出発、宿泊地は金沢。氷見市で富山湾の美味しい魚をランチするのが第一の目標。何とか昼ごろ高岡あたり。氷見の手前の雨晴海岸で海を見る。

雨晴海岸・・・海を挟んで立山、剣岳が見えるのがここのウリですが今日は見えません。1年のうちで見えるのは数日だそうです。

海の上に大きく見えるのは女岩、男岩はどこだろう。女岩の右に白く見えるのは伏木港の防波堤。


※カメラはPanasonic LUMIX DMC-GH2 14~140mm。
参考》2010年10月21日のブログ→クリック雨晴海岸から・・・海のむこうに立山連峰が・・・見えなかった

春の越後路の旅・・・新井ハイウエイオアシスで・・・三角チマキを買った

2014-04-23 | 道をゆく 越後・越中・加能・越前
3月29日、越後路の旅、関越自動車道で長岡市の越後丘陵公園、北陸自動車道で直江津、上信越自動車道で長野まわり帰路へ。

上信越自動車道新井パーキングエリア・・・ハイウエイオアシス道の駅・・・スマートIC.
ここにはこんな魚市場があります。こういうのを見ると目が点になるわたしです。






結局、お魚は何も買わずに、三角粽だけ・・・これ餅米を笹に包んで蒸しただけ・・・味がついていない・‥黄粉をつけて食べる・・・これがいいのだ

ゴチソウ様


雪どけのすぐ後の・・・雪割草の群落を探して・・・国営越後丘陵公園に行った

2014-03-31 | 道をゆく 越後・越中・加能・越前
3月29日、新潟県長岡市越路の国営越後丘陵公園に行ってきました。
国営公園とは国土交通省が管轄する公園です。
朝9時前に到着。早すぎました。ゲート前でしばらく休憩。9時30分開演。3月30日まで冬季入園料無料、駐車料無料・・・儲けた

越後丘陵公園はほとんどが紅葉落葉樹の丘陵地、300㌶、皇居や大阪城公園の約3倍の広さ。園内バスに乗って片道35分。

※越後丘陵公園のある長岡市越路町・・・2005年長岡市に合併(合併時の人口14000人)、ラケットを主力とするスポーツ用品メーカーヨネックス、呑兵衛には銘酒「久保田」で知られる朝日酒造の本拠、国民的歌手の故三波春夫の出身地。

フォリーの丘・・・芝生広場の丘にメタセコイアの樹。

雪割草の群生地に緩やかな階段を上っていきます。

簡単なロープを張った支柱だけの周遊路。時には踏み跡のそばにも雪割草が芽を出しています。

雪割草(ミスミソウ)はたいへん小さな花です。花の直径10㎝弱でしょうか。派手な花ではありません。
でも雪解けを待って落葉の間から顔を見せています・・・可愛いです

ショウジョウバカマ・・・です。

雪割草の大群落?・・・花と緑の館・・・の中のデモンストレーション用の寄せ植えです。

花と緑の館では雪割草のポッド苗の販売をしていました。1000円で3鉢ぐらい。高いものではありません。
ポッド苗があるということは実生が容易なのいでしょうか。買いたいのですが家は環境に適した場所がないのですぐ枯らしてしまうでしょうね。

花と緑の館の中でスタッフの人と少しお話ししました。このあたり、むかしはどこの山にも自生地はあったようです。開拓が進んで、さらに薪炭の利用がなくなったこと、農業技術の変化により里山に手が入らなくなり、自生地はだんだん減少してゆく。ここは自生地の再生を目標にしてきたとのこと。
群生地といってもまだ途上、ここのすぐ近くの雪国植物園をぜひ見ていってくださいと勧められました。これが正解・・・そこで素晴らしい山野草の群落を見ることができました。スタッフさんありがとう。

長岡市の雪国植物有園の紹介は次回に。

越後長岡の雪割草街道・・・いつが見ごろでしょうか…今でしょう

新潟の夜・・・萬代橋・・・信濃川に花火が上がる

2013-10-18 | 道をゆく 越後・越中・加能・越前
9月29日、上高地を歩いたあと思いつきで新潟市まで来てしまった。
わっぱ飯」と美味しいお酒に逢いたくなったからです・・・。


想い出の夜は 霧が深かった
  今日も霧がふる 萬代橋よ・・・
※美川憲一が歌う「新潟ブルース」(作詩 山岸一二三・作曲 山岸美樹 1967年)。
萬代橋(ばんだいばし)の上から。日本最大長の大河・・・信濃川に架かる307mの橋です。国指定重要文化財だそうです。

なぜか・・・このタイミングで信濃川のド真ん中で花火が上がった。
※言い訳になるがポケットカメラで撮ったもので画像が悪い。

新潟駅近くのホテルから新潟市の中心部の繁華街まで歩いています。遠い・・・3㎞余はあるような気がする。

只管打禅・・・道元禅師の・・・永平寺を歩く

2010-10-24 | 道をゆく 越後・越中・加能・越前
10月7日朝、金沢の街を抜けて越前永平寺に向かう。落ち着いた金沢の街や兼六園や犀川大橋のあたりを散策したかったのですが時間の都合でパス。

北陸自動車道福井北ICを出て永平寺方面に。5kmぐらい走しるとえちぜん鉄道永平寺口駅(福井から10.9km)。

かつては京福電鉄永平寺勝山線、この駅から永平寺まで支線が出ていたらしいが2003年第三セクターえちぜん鉄道となり支線は廃線に。永平寺への公共の乗り物はこの駅から乗り換えるバス路線のみになる(約7km)。

永平寺・・正門の石柱に・・・勺底一残水 汲流千億人・・・水は命の源、、ものの命を大切に、ものの命を生かして・・・という意味でしょうか。

一般通用門、この門をくぐり吉祥閣という建物に。ここで券売機で参拝券を買う。なにやらおかしな気がする。若い修業僧に参拝の心構えを聞き回遊路に。ここは観光寺ではなく研修のための寺です・・・厳かに歩かなければ。七堂伽藍、緩やかであるが長い階段を巡り歩く。これも修業のうちであろうか。けっこうキツイ。

七堂伽藍、最奥、最も高いところに法堂(ホットウ)、1843年建立、420畳あるそうだ。小学生の子供たちの社会科見学であろうか。みんなイイ子です。静かに挨拶してくれます。先生も懸命に引率。

七堂伽藍・・・はじめて見ました。比叡山や高野山を見たことがないし、どういうものか想像はしていましたが階段歩きはツライです。いっぱい写真を撮りましたが信心の場所ですので公開は法堂の1枚だけにします。もちろん寺内では雲水さんの写真はご遠慮くださいとのこと。

外に出て永平寺川に沿って少し山歩きしました。境内は10万坪(33㌶あるそうです。

永平寺川の左岸、2000年に整備された寂光苑・・・歴代住職の霊石、開基波多野義重の墓所、など、。

稚髪像」・・・宗祖道元禅師は14歳で比叡山に入ったといわれます。有髪の少年のころの姿でしょうか。

いろいろな塔がありますがそれぞれ苔むして静かな雰囲気です。

散策している前を若い僧侶が通り過ぎました。

さらに道を登っていくと、ふつうの山道になり、Uターンです。

永平寺・・・北陸にある有名な禅寺というぐらいしか知りません。
吉祥山永平寺・・・曹洞宗の總持寺と並ぶ大本山。宗祖は道元禅師。

道元禅師・・・1200年、久我という公卿の家に生まれ、若くして父母をなくし14歳で比叡山に。1223年宋に留学、1227年帰国、妥協をしない自己主張の強いまじめな理論派で天台宗の教義と合わなかったらしく比叡山から迫害され、1243年越前の土豪の波多野義重に招かれて北陸入り、1244年大佛寺を建立、1246年永平寺と改称、1253年京都にて没。ただひたすらに坐禅に打ち込むことが修業と主張した。著書に「正法眼蔵」。・・・よくわかりません。

曹洞宗という禅の宗派もややこしいです。本山が2つもあります。奈良時代、能登国に諸嶽寺という寺があり平安時代は真言律宗のお寺だったらしいのですが1321年曹洞宗4世の瑩山が入山して總持寺と改名、1322年後醍醐天皇から曹洞宗大本山の認可を受けます。
永平寺は1372年本朝曹洞宗第一道場に、1539年本朝曹洞宗第一出世道場に、いずれも天皇家から認可。
つまり道元の開いた永平寺をさしおいて能登の總持寺が本社になり永平寺は単なる付属校ということだったのです。
1615年、徳川幕府により總持寺、永平寺ともに大本山になりました。1つの宗派で本山が二つになったわけです。
能登の門前町(現輪島市)の總持寺は1898年焼失、1911年移転した横浜市鶴見が本山に。能登の總持寺は祖院となりました。
永平寺が元祖、能登の總持寺が本家、新社屋の鶴見の總持寺が本店ということでしょうか。
本山・・・宗教においてはピラミッド組織の頂点、家元とかいうのと同じです。集金マシーンの頂点でもあるのです。道元も親鸞もキリストも同じですが新しい宗教のリーダーは清潔で孤高で融通が利きません。その後継者が民衆が親しみやすいように教義をわかりやすくして、為政者と妥協して為政者も利用して、発展していきます。

信心がないとダメですね。せっかくの厳かな雰囲気がよくわかりません。

永平寺を後にして勝山、大野の街を通り過ぎ九頭竜川沿いに美濃の郡上方面に向かいます。