比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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只管打禅・・・道元禅師の・・・永平寺を歩く

2010-10-24 | 道をゆく 越後・越中・加能・越前
10月7日朝、金沢の街を抜けて越前永平寺に向かう。落ち着いた金沢の街や兼六園や犀川大橋のあたりを散策したかったのですが時間の都合でパス。

北陸自動車道福井北ICを出て永平寺方面に。5kmぐらい走しるとえちぜん鉄道永平寺口駅(福井から10.9km)。

かつては京福電鉄永平寺勝山線、この駅から永平寺まで支線が出ていたらしいが2003年第三セクターえちぜん鉄道となり支線は廃線に。永平寺への公共の乗り物はこの駅から乗り換えるバス路線のみになる(約7km)。

永平寺・・正門の石柱に・・・勺底一残水 汲流千億人・・・水は命の源、、ものの命を大切に、ものの命を生かして・・・という意味でしょうか。

一般通用門、この門をくぐり吉祥閣という建物に。ここで券売機で参拝券を買う。なにやらおかしな気がする。若い修業僧に参拝の心構えを聞き回遊路に。ここは観光寺ではなく研修のための寺です・・・厳かに歩かなければ。七堂伽藍、緩やかであるが長い階段を巡り歩く。これも修業のうちであろうか。けっこうキツイ。

七堂伽藍、最奥、最も高いところに法堂(ホットウ)、1843年建立、420畳あるそうだ。小学生の子供たちの社会科見学であろうか。みんなイイ子です。静かに挨拶してくれます。先生も懸命に引率。

七堂伽藍・・・はじめて見ました。比叡山や高野山を見たことがないし、どういうものか想像はしていましたが階段歩きはツライです。いっぱい写真を撮りましたが信心の場所ですので公開は法堂の1枚だけにします。もちろん寺内では雲水さんの写真はご遠慮くださいとのこと。

外に出て永平寺川に沿って少し山歩きしました。境内は10万坪(33㌶あるそうです。

永平寺川の左岸、2000年に整備された寂光苑・・・歴代住職の霊石、開基波多野義重の墓所、など、。

稚髪像」・・・宗祖道元禅師は14歳で比叡山に入ったといわれます。有髪の少年のころの姿でしょうか。

いろいろな塔がありますがそれぞれ苔むして静かな雰囲気です。

散策している前を若い僧侶が通り過ぎました。

さらに道を登っていくと、ふつうの山道になり、Uターンです。

永平寺・・・北陸にある有名な禅寺というぐらいしか知りません。
吉祥山永平寺・・・曹洞宗の總持寺と並ぶ大本山。宗祖は道元禅師。

道元禅師・・・1200年、久我という公卿の家に生まれ、若くして父母をなくし14歳で比叡山に。1223年宋に留学、1227年帰国、妥協をしない自己主張の強いまじめな理論派で天台宗の教義と合わなかったらしく比叡山から迫害され、1243年越前の土豪の波多野義重に招かれて北陸入り、1244年大佛寺を建立、1246年永平寺と改称、1253年京都にて没。ただひたすらに坐禅に打ち込むことが修業と主張した。著書に「正法眼蔵」。・・・よくわかりません。

曹洞宗という禅の宗派もややこしいです。本山が2つもあります。奈良時代、能登国に諸嶽寺という寺があり平安時代は真言律宗のお寺だったらしいのですが1321年曹洞宗4世の瑩山が入山して總持寺と改名、1322年後醍醐天皇から曹洞宗大本山の認可を受けます。
永平寺は1372年本朝曹洞宗第一道場に、1539年本朝曹洞宗第一出世道場に、いずれも天皇家から認可。
つまり道元の開いた永平寺をさしおいて能登の總持寺が本社になり永平寺は単なる付属校ということだったのです。
1615年、徳川幕府により總持寺、永平寺ともに大本山になりました。1つの宗派で本山が二つになったわけです。
能登の門前町(現輪島市)の總持寺は1898年焼失、1911年移転した横浜市鶴見が本山に。能登の總持寺は祖院となりました。
永平寺が元祖、能登の總持寺が本家、新社屋の鶴見の總持寺が本店ということでしょうか。
本山・・・宗教においてはピラミッド組織の頂点、家元とかいうのと同じです。集金マシーンの頂点でもあるのです。道元も親鸞もキリストも同じですが新しい宗教のリーダーは清潔で孤高で融通が利きません。その後継者が民衆が親しみやすいように教義をわかりやすくして、為政者と妥協して為政者も利用して、発展していきます。

信心がないとダメですね。せっかくの厳かな雰囲気がよくわかりません。

永平寺を後にして勝山、大野の街を通り過ぎ九頭竜川沿いに美濃の郡上方面に向かいます。


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