goo blog サービス終了のお知らせ 

比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

冬の北陸・・・金沢・・・加賀藩の藩祖前田利家公を祀る・・・尾山神社に詣でた

2017-04-07 | 道をゆく 越後・越中・加能・越前
2016年12月、北陸新幹線で金沢へ・・・金沢の旅・・・市街地に入ります。
※ブログ「比企の丘から」のギャラリー公開です。
信州上田の・・・六文銭の写真帳・・・

近世・江戸時代の加賀100万石の藩祖前田利家公を祀る尾山神社
金沢城址の西、金沢市のメインストリート(国道157号線)、香林坊の近くにあります。創建は1873年。


藩祖神社・・・江戸時代が終わり明治時代に入り廃藩置県、藩主は県の主としての地位を失いました。そのころに流行った?のが藩祖神社。鹿児島の照国神社(1862年)、熊本の加藤神社(1871年)、米沢の上杉神社(1871年)、弘前の高照神社(1877年)、松江の松江神社(1877年)、松前の松前神社(1881年)などなどが創建されて行きます。
前田利家(1539~1599年)・・・尾張国荒子(現名古屋市中川区)の土豪の四男、織田信長の足軽から小姓に、柴田勝家の与力、後に羽柴秀吉の傘下に、豊臣家の重臣に。1599年没、1年後に関ヶ原の戦い、天下の覇者となった德川家康は加賀藩前田家の取り潰しを計画するが利家の正室松が人質として江戸入りすることにより前田家は安泰した。乱世の戦国時代、足軽から出世し大藩を経営した武将であり知略家。

加賀藩初代藩主前田利家公の銅像。

尾山神社の「神門」・・・神社にしては奇妙な構築物。1875年建造。国の重要文化財。
※撮影は2016年12月19日 Panasonic LUMIX DMC-FZ100。

神門・・・擬西洋建築、擬中国建築に見えます。その土地の大工の棟梁設計による日本人が作ったものです。1階は木骨煉瓦張り3連アーチ、2階3階は竜宮城を思わせるような南中国寺院風、ステンドグラス張りのアールのついた窓。望楼としてか?奇をてらって集客?を目論んだのか・・・ワカリません? それにしても神門を造った大工の棟梁は前衛的な人です。100数十年後の今でも周囲に溶け込まないアンマッチなデザインです・・・と思うのはわたしだけ?
尾山とは・・・犀川と浅野川に挟まれた小立野台地の先端(山の尾っぽ)という地域名。


※コメント欄オープンしています。



春の越後紀行・・・越後川口SAで越後平野を見た

2016-04-21 | 道をゆく 越後・越中・加能・越前
4月16日、久しぶりのロングドライブ・・・春の山野草を見たくなって・・・越後丘陵の長岡の雪国植物園へ。朝6時30分出発、関越自動車道、赤城PAでドライバー交替、残雪の谷川岳、越後三山を見ながらひたすら北へ。
越後川口SAでひと息。蛇行する信濃川左岸の河岸段丘の上、まん中奥が越後平野、画像の右の上流が魚野川と信濃川の合流点(川口)。

絶好のビューポイント・・・越後に来たなという実感がする場所です。

長岡の雪国植物園はもうすぐです。

2014年3月29日の関越自動車道越後川口SA、同じフォトポイントからの画像です。
このあたりいちめん雪景色でした。雪はここ川口から小千谷の魚沼の谷を過ぎ越後平野に出ると消えてなくなっていました。

若狭国の旅の写真日記・・・最後に思ったこと・・・若狭国は原発王国だ

2016-02-10 | 道をゆく 越後・越中・加能・越前
彩風人・・・2015年12月、近江から若狭・丹後への紀行文です。しばらく間を置きましたが再開します。
旅の始まりは新幹線米原駅からJR東海道本線琵琶湖線で彦根・・・そして越前若狭へ・・・でした。
今回は若狭から「海の京都・丹後」への旅です。
その前に、福井県若狭国のこと・・・どうしても触れてみたいことを書いてみました。
・・・彩風人の写真帳・・・
(比企の丘からブログのギャラリー開放です)

若狭は古代より北の海への玄関口、渤海の国、宋の国との貿易拠点。江戸時代には北前船により京都、大阪と北の国との物流の中継地。明治時代に入り、1882年敦賀駅開設、1899年国際港として開港。時代を越えて物流の一大拠点です。

敦賀港・・・内陸部に深くえぐられた若狭湾は天然の美港です。

いま、若狭というと何をイメージするでしょう・・・
敦賀から高浜まで直線距離にして約60㎞の間に7つの発電所、ぜんぶで17基あります。原発大通り・・・です。
そして敦賀から大阪まで直線距離で約130㎞。東日本大震災で起きた福島原発事故のことを考えるとゾッとするような大都市圏内との距離です。

もんじゅ  高速増殖炉     1基現在停止中
敦賀市  ふげん   新型転換炉     1基廃炉、解体終了予定2025年
敦賀市  敦賀発電所1号機 沸騰型軽水炉  1基廃炉 
敦賀市  敦賀発電所2号機 加圧水型軽水炉  1基点検中、建設中2基(3,4号機)
美浜町  美浜発電所 加圧水型軽水炉   3基  1号機2号機は廃炉、3号機は点検中 
おおい町 大飯発電所 加圧水型軽水炉   4基  東日本大震災で全機点検に入ったが、3、4号機が2012年4月再稼働、2013年9月ふたたび点検に
高浜町  高浜発電所 加圧水型軽水炉   4基  全機点検に。2016年2月下旬に3、4号機再稼働予定



原発のこと・・・危険なものであるか、安全なものであるか・・・原子力物理学については素人ですから何もわかりません・・・おそらく99%の人がわからないでしょう。
わたしたちの生活に欠かせない電力、工業立国日本に欠かせない電力。
核エネルギーか化石エネルギーか自然エネルギーか・・・難しいところです・・・わかりません。
若狭から丹後へ…同じような立地条件ですが京都府には原子力発電所が1基もありません。
京都府久美浜原発・・・かつて1975年関西電力が久美浜町(現京丹後市)に原発の計画を持ち込みました。以来30年間、周辺部を含めて住民を二分する是非問題になりました。31年目の2006年計画は中止になりました。


1973年スリーマイル島事故,1986年チェルノブイリ事故・・・わたしたちはどれだけ知ってるでしょうか。
私の町にも福島からの原発避難者がいらっしゃいます。いろんな問題があります。
2016年1月11日の新聞、ネットでは1954年の太平洋ビキニ環礁のアメリカ軍による水爆実験で被曝した第五福竜丸以外のマグロ漁船団の乗組員で後にガンなど放射能による症状を発症した方々の遺族の方々が労災認定を集団申請するとの記事がヒッソリと配信されていました。

これからの世代が考えていく問題です。



若狭の旅・・・小浜の名刹・・・若狭観音霊場十九番・・・妙楽寺を尋ねる

2015-12-27 | 道をゆく 越後・越中・加能・越前
彩風人・・・近江から若狭・丹後への旅です。
旅の始まりは新幹線米原駅からJR東海道本線琵琶湖線で彦根・・・そして越前若狭へ。
・・・彩風人の写真帳・・・
(比企の丘からブログのギャラリー開放です)
この人は旅に出ると必ず神社仏閣に詣でる。信心深い人だ。
若狭小浜市野代・・・高野山真言宗岩屋山妙楽寺です。
719年、僧行基が千手観音菩薩像を彫ったという。797年空海がその観音像を拝して堂を建立したと伝えられるが定かでない。

荘厳な雰囲気の山門(1777年再建)。

本堂・・・鎌倉時代初期の建立、厨子には永仁4年(1296年)と銘があり、若狭における最古の建造物。
桁行5間・梁行5間のほぼ正方形、寄棟造檜皮葺。国指定重要文化財。
本尊の千手観音菩薩立像は平安時代中期の作。国指定重要文化財。
※撮影日は12月14日。




若狭の旅・・・小浜・・・真言宗棡山明通寺の・・・国宝三重塔をを尋ねる

2015-12-26 | 道をゆく 越後・越中・加能・越前
彩風人・・・近江から若狭・丹後への旅です。
旅の始まりは新幹線米原駅からJR東海道本線琵琶湖線で彦根・・・そして越前若狭へ。
・・・彩風人の写真帳・・・
(比企の丘からブログのギャラリー開放です)
この人は旅に出ると必ず神社仏閣に詣でる。信心深い人だ。
若狭小浜市門前の山中深くに入った真言宗御室派棡山明通寺(ゆずりさんみょうつうじ)です。

明通寺は806年坂上田村麻呂の創建と伝えられる古刹・・・鎌倉時代中期、僧・頼禅により再興した。
山門・・・江戸中期の1772年に再建したもの。

三重塔・・・(本堂とともに1953年国宝指定)鎌倉時代中期の13世紀ごろと伝えられる。
 
江戸期以前に建てられた三重塔は全国で105、五重塔は25、そのうち国宝は三重塔13、五重塔11あります。貴重です。
※撮影は12月14日、カメラはFUJIFIRM X-T10。

棡山・・・ユズリサンと読む。普通の転換では出てこない。ネットで調べた。ユズリ、コウと読むことが分かった。字義が分からない。ユズリハ(譲葉)という植物がある。春に新しい葉が出てから前値のの葉が落ちる常緑高木。関係あるのだろうか。


若狭の旅・・・旧敦賀港駅あたりの風景・・・命の港「敦賀ムゼウム」と杉原千畝

2015-12-24 | 道をゆく 越後・越中・加能・越前
彩風人・・・近江から若狭・丹後への旅です。
旅の始まりは新幹線米原駅からJR東海道本線琵琶湖線で彦根・・・そして越前若狭へ。
・・・彩風人の写真帳・・・
(比企の丘からブログのギャラリー開放です)
越前国若狭・・・敦賀港にやってきました。
シベリア鉄道経由でヨーロッパ諸国と繋がる「欧亜国際連絡列車」の発着駅として賑わった時代の敦賀港駅。いまもその歴史を伝えるモニュメントが残っています。

1999年「つるが・きらめき・みなと博21」のシンボルの一つとして建てられた旧敦賀港駅(1913年竣工駅舎の復元)。
2009年に「敦賀鉄道資料館」として再整備され、敦賀の鉄道に関する歴史を物語る各種資料類が展示されている。

旧敦賀港駅ランプ小屋」・・・1882年敦賀駅開設のころ建築。現存する鉄道関連の建築物では国内最古だ・・・そうだ。

敦賀赤レンガ倉庫」・・・1905年スタンダード石油会社の石油貯蔵用の倉庫として建設。木造軸組み、煉瓦壁工法。2009年国登録有形文化財。
2015年から「鉄道と港のジオラマ」、「敦賀ならではの魅力的なレストラン」などの観光施設に。

金ヶ崎緑地に建つ「人道の港敦賀ムゼウム」・・・主として 杉原千畝の資料館。旧大和田別荘洋館を復元した施設。
1940年ナチスの迫害を逃れたユダヤ人がリトアニア領事代理杉原千畝の「命のビザ」により敦賀港に上陸。その数約6000人。
杉原千畝の軌跡を追った展示がされています。ムゼウムはポーランド語。ミュージアム、博物館、史料館のこと。
※撮影は12月14日。

杉原千畝(ちうね)・・・1900~1986年、岐阜県八百津町生まれ、早稲田大学高等師範部英語予科中退、日露協会学校特修科修了。外交官。第二次大戦下の1940年リトアニア領事官で日本本国外務省の命令に反してナチスのユダヤ人迫害を逃れるポーランドを中心とするユダヤ人亡命者たちにピザを発給。亡命者たちはシベリア鐡道、ウラジオストック経由で敦賀港に上陸します。わずか数カ月の間にその数約6000人。敗戦後、ソ連に拘束されたが1946年釈放、シベリア経由で帰国。1947年外務省から訓令違反で退職通告書が出され依願退職。実質は懲戒解雇か?。不遇の後半生を送ります。杉原千畝の「命のピザ」発給の行為が世界に知られるようになったのは1968年から69年、杉原のピザによって命を救われたイスラエル人らとの再会から。1985年イスラエル政府は「諸国民の中の正義の人」として顕彰。日本国内では賞賛の声もあがるも日本政府は訓令違反行為を認めることはありませんでした。ようやく日本政府によって公式に名誉が回復されたのは2000年のこと。杉原千畝が国の命令に背いて「命のピザ」を発給し続けた60年後、千畝の死から14年後でした。
※ナチスのユダヤ人迫害(ホロコーストともいわれる)による犠牲者は少なくとも600万人といわれます。900万人とも1100万人ともいう説も。※「日本のシンドラー」といわれる杉原千畝・・・ドイツ人の実業家オスカー・シンドラーはポーランドの自社工場で雇用したユダヤ人労働者1200人を救い、1962年年イスラエル政府は「諸国民の中の正義の人」として顕彰、ドイツ連邦共和国は功労賞第一級に。

若狭の旅・・・ユーラシア文化の表玄関・・・敦賀港

2015-12-23 | 道をゆく 越後・越中・加能・越前
彩風人・・・近江から若狭・丹後への旅です。
旅の始まりは新幹線米原駅からJR東海道本線琵琶湖線で彦根・・・そして越前若狭へ。
・・・彩風人の写真帳・・・
(比企の丘からブログのギャラリー開放です)
越前国若狭・・・敦賀港にやってきました。

第八管区海上保安部巡視艇 PS202「ほたか」(高速特殊警備艇)です。
">※撮影は12月14日、カメラはFUJIFIRM X-T10。
敦賀港・・・は古代より北の海への玄関口、渤海の国、の国との貿易拠点でした。江戸時代には北前船の寄港地、北の国から運んできた海産物はここで陸揚げされて峠を越えて滋賀の海へ、そこから京都、大阪に運ばれました。明治時代に入り、1882年敦賀駅開設、1899年国際港として開港。1912年 ウラジオストク航路に接続する欧亜国際連絡列車が新橋駅~金ヶ崎駅(後に敦賀港駅に改称)で運行開始。1940年ナチスの迫害を逃れたユダヤ人が杉原千畝の「命のビザ」により敦賀港に上陸。
敦賀港は「日本海側拠点港」の一つ、重要国際港です。軍事・防衛を舞鶴港、民間の人流・物流を敦賀港にと丹後・若狭の海を棲み分けています。

若狭の旅・・・敦賀・・・気比神宮(けひじんぐう)に詣でる

2015-12-22 | 道をゆく 越後・越中・加能・越前
彩風人・・・近江から若狭・丹後への旅です。
旅の始まりは新幹線米原駅からJR東海道本線琵琶湖線で彦根・・・そして越前若狭へ。
・・・彩風人の写真帳・・・
(比企の丘からブログのギャラリー開放です)
この人は旅に出ると必ず神社仏閣に詣でる。信心深い人だ。
若狭国敦賀の気比神宮(けひじんぐう)です。
1645年建造の気比神宮の国指定重要文化財の大鳥居。春日大社、厳島神社とともに日本三大鳥居だ・・・そうだ。

気比(けひ)・・・読めない、官幣ってなんだ、神宮?・・・わからないハズカシイ

中鳥居。

外拝殿。
※撮影は12月14日、カメラはFUJIFIRM X-T10。

気比(けひ)・・・高校野球でその名を知った、広島カープの東出選手、読売ジャイアンツの内海投手ほか多くのプロ野球投選手を輩出している中高一貫の名門私立校です。恥ずかしながら神社のことは疎いほうで気比神宮のことは知りませんでした。
※第14代仲哀天皇のころの創建といいますから、西暦でいうとDC200年ごろ、まだ歴史以前、古事記、日本書紀の世界のころです。
※敦賀は朝鮮半島、中国東北部からの畿内への入口、北の国からの進攻を守る、北陸道総鎮守府、ということで創建されたのでしょうか。
※栄枯盛衰を繰り返し社領は越後にまで及んだといいますが江戸時代は100石程度だったようです。
※明治時代に入り、国家による神社管理制度で官幣大社に。官幣とは神社のランクで最高級、国費が支給されました。
※太平洋戦争敗戦後、神社は普通の宗教に。官幣の名は意味なくなります・・・それでも石柱に堂々と?
※神宮を名乗っています。明治時代に国からいただいたもの。戦後は意味がないのですが名乗っています。
※社殿は1945年の空襲により焼失、1950年再建。
※気比の由来・・・食(ケ)、靈(ひ)で食の神という説もあります・・・古代、若狭は御食国(みけつくに)といいました。朝廷に贄を捧げる国のこと。そのほか諸説あります。ワカリマセン。
※摂社に角鹿神社(つのが)があります。敦賀(つるが)の地名由来という説があります。


立山黒アルペンルート物見遊山・・・黒四ダムの風景

2015-09-27 | 道をゆく 越後・越中・加能・越前
9月22日、立山黒部アルペンルート物見遊山。早朝4時上田市のアジト出発、大町市扇沢へ。
関電大町トンネルをトローリーバスで潜り黒部ダムへ、ケーブルカー、ロープウエイ、トローリーバスを乗り継ぎ室堂まで。

関電大町トンネル(5.4㎞)をトロ―リーバス(架線から電源をとる電動バス)で黒部ダムへ。

通称クロヨン・・・黒部ダム・・・堤高186m、堰堤長492m、1956年着工~1963年竣工。標高1450m。
観光放水・・・自然環境保護のため6月下旬から10月中旬まで、時間を決めて、毎秒10トン。
高所から俯瞰できる展望台、同じ目線の展望台、見上げる展望台など・・・パスして室堂へ。

ダム放水の近くでは虹が・・・温度、光線、見る位置などで・・・画像として取り込むには難しい。、

黒部ダム堰堤から見上げる立山連峰・・・大汝山(3015m)、富士の折立(2999m)・・・雪のように見えるのは花崗岩系の岩礫。

室堂へのルートは堰堤を約500m歩いて黒部ケーブルカーの黒部湖駅へ。ケーブルカー800m、5分。

※余計なことだが・・・関電大町トンネル・・・関西電力黒部第四発電所・黒部ダム建設の資材運搬用のために掘削されたトンネル。1956年着工、1958年開通。翌1959年黒部ダムと黒四発電所との間に黒部トンネル開通。1963年黒部専用鉄道が仙人谷より黒部第四発電所前まで開通。1963年黒部ダム完成、黒部第四発電所完成。赤沢岳(2679m)の真下、標高1450mを貫通(5.4㎞)、多量の水分を含む破砕帯80mのために工事は難渋した。国立公園内であり工事終了後は一般公共使用に供するという条件のため観光路線として1964年トローリーバスの運行が開業。
1964年、毎日新聞で木本正次著「黒部の太陽 日本人の記録」が連載、同年、毎日新聞から単行本として出版。1968年、三船敏郎プロダクション・石原裕次郎プロダクションの共同制作で映画「黒部の太陽」(監督・熊井啓)が完成・公開。
参考・・・映画「黒部の太陽」(三船敏郎・石原裕次郎主演)のDVDあり。NHKプロジェクトX挑戦者たち「黒四シリーズ」DVDあり、木本正次著「黒部の太陽」(信濃毎日新聞社文庫 1998年刊)。


世界遺産・・・越中五箇山…合掌造り・・・菅沼集落

2014-09-27 | 道をゆく 越後・越中・加能・越前

9月15日、金沢から富山県に入り砺波平野(庄川扇状地)を西に向かい東海北陸自動車道の城端PAを過ぎ白山山系の北端の山なみの下、トンネルを抜ける五箇山(ごかやま)です。世界遺産「白川郷・五箇山の合掌造り集落」の谷、菅沼集落を尋ねました。

合掌造り菅沼集落。庄川が半円形に屈曲する内側に沿った南北230m、東西240m、標高350mの台地。
12棟のうち9棟が合掌造り・・・江戸後期に建てられたのが2棟。明治期に6棟、1925年(大正14年)に建てられたのが1棟。




よく見ると左の家は切妻ではなく入母屋になっています。これはあとから1階の部屋を増室したためでしょうか。


相倉集落より棟数が少なく静かです・・・
岐阜県に入り白川郷の合掌造り集落に向かいます。