比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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若狭の旅・・・旧敦賀港駅あたりの風景・・・命の港「敦賀ムゼウム」と杉原千畝

2015-12-24 | 道をゆく 越後・越中・加能・越前
彩風人・・・近江から若狭・丹後への旅です。
旅の始まりは新幹線米原駅からJR東海道本線琵琶湖線で彦根・・・そして越前若狭へ。
・・・彩風人の写真帳・・・
(比企の丘からブログのギャラリー開放です)
越前国若狭・・・敦賀港にやってきました。
シベリア鉄道経由でヨーロッパ諸国と繋がる「欧亜国際連絡列車」の発着駅として賑わった時代の敦賀港駅。いまもその歴史を伝えるモニュメントが残っています。

1999年「つるが・きらめき・みなと博21」のシンボルの一つとして建てられた旧敦賀港駅(1913年竣工駅舎の復元)。
2009年に「敦賀鉄道資料館」として再整備され、敦賀の鉄道に関する歴史を物語る各種資料類が展示されている。

旧敦賀港駅ランプ小屋」・・・1882年敦賀駅開設のころ建築。現存する鉄道関連の建築物では国内最古だ・・・そうだ。

敦賀赤レンガ倉庫」・・・1905年スタンダード石油会社の石油貯蔵用の倉庫として建設。木造軸組み、煉瓦壁工法。2009年国登録有形文化財。
2015年から「鉄道と港のジオラマ」、「敦賀ならではの魅力的なレストラン」などの観光施設に。

金ヶ崎緑地に建つ「人道の港敦賀ムゼウム」・・・主として 杉原千畝の資料館。旧大和田別荘洋館を復元した施設。
1940年ナチスの迫害を逃れたユダヤ人がリトアニア領事代理杉原千畝の「命のビザ」により敦賀港に上陸。その数約6000人。
杉原千畝の軌跡を追った展示がされています。ムゼウムはポーランド語。ミュージアム、博物館、史料館のこと。
※撮影は12月14日。

杉原千畝(ちうね)・・・1900~1986年、岐阜県八百津町生まれ、早稲田大学高等師範部英語予科中退、日露協会学校特修科修了。外交官。第二次大戦下の1940年リトアニア領事官で日本本国外務省の命令に反してナチスのユダヤ人迫害を逃れるポーランドを中心とするユダヤ人亡命者たちにピザを発給。亡命者たちはシベリア鐡道、ウラジオストック経由で敦賀港に上陸します。わずか数カ月の間にその数約6000人。敗戦後、ソ連に拘束されたが1946年釈放、シベリア経由で帰国。1947年外務省から訓令違反で退職通告書が出され依願退職。実質は懲戒解雇か?。不遇の後半生を送ります。杉原千畝の「命のピザ」発給の行為が世界に知られるようになったのは1968年から69年、杉原のピザによって命を救われたイスラエル人らとの再会から。1985年イスラエル政府は「諸国民の中の正義の人」として顕彰。日本国内では賞賛の声もあがるも日本政府は訓令違反行為を認めることはありませんでした。ようやく日本政府によって公式に名誉が回復されたのは2000年のこと。杉原千畝が国の命令に背いて「命のピザ」を発給し続けた60年後、千畝の死から14年後でした。
※ナチスのユダヤ人迫害(ホロコーストともいわれる)による犠牲者は少なくとも600万人といわれます。900万人とも1100万人ともいう説も。※「日本のシンドラー」といわれる杉原千畝・・・ドイツ人の実業家オスカー・シンドラーはポーランドの自社工場で雇用したユダヤ人労働者1200人を救い、1962年年イスラエル政府は「諸国民の中の正義の人」として顕彰、ドイツ連邦共和国は功労賞第一級に。


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