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菅原道真の真実に迫る。

2016年09月19日 | 歴史メモ
 10~11世紀にかけて行われた摂関政治(せっかんせいじ)や当時の藤原氏の権力の強さを語る上では見逃せない事件で、学問の神様として有名な菅原道真(すがわらのみちざね)が出世するきっかけになった事件がある。宇多天皇(うだてんのう)が、自分を天皇に推薦してくれた藤原基経(ふじわらもとつね)に感謝の意を表し「天皇に関する全ての事は太政大臣である藤原基経が関与する。これからは天皇が臣下に対して命令する際にも、臣下の要望を天皇に伝えるときも全て藤原基経に相談して決める」という詔(みことのり)を出され、正式に関白(かんぱく)と言う役職が誕生した。

 この詔に対して藤原基経は辞退する。1回は断る慣例、そして2回目の詔が形式的に出される。2回目の詔は藤原基経を『阿衡(あこう)の任』とするという内容。「阿衡」とは古代中国の王朝だった殷(いん)の宰相(さいしょう・大臣)の事を指す言葉だが、藤原基経は「阿衡とは位の呼び方だけであって、政治的な権限が無いと言われてるようなもの」と激怒し、詔を書いた文章博士の橘広相(たちばなのひろみ)の処罰を求め、政界を揺るがす大事件に発展してゆく。「阿衡」と言う言葉はさほど大きな問題ではなく、問題なのは詔を書いた人だ。詔を書いたのは、文章博士の橘広相、この人は藤原氏のライバルでもある名門「橘氏」の血を引く人。しかも橘広相の娘は宇多天皇に嫁いでいて2人の子供まで生まれている。つまりは橘広相を失脚させようという藤原基経の陰謀だった。ところで、摂政と関白の違いは何か。「摂政」も「関白」も「天皇の権限に関与して最高権力を持つ」という点は共通しているが、摂政は天皇が幼いときなどに政務を代行する役で、関白は天皇の成人後に色々なことを相談する後見役と言う微妙な違いがある。摂政は幼い天皇に代わって政治を代行する役なので最終決定権を握っているが、関白は天皇が政務を行える成人なので最終決定権は天皇本人が握っている。藤原基経が関白に指名されたことで、歴史の歯車は藤原氏全盛とも言える「摂関政治」へと一気に回り始めていくことになる。


 翌年の888年6月に宇多天皇は「阿衡と言うのは本意ではなく間違いでした」との詔を出すが、橘広相が処罰されていないので藤原基経の怒りは収まらない。天皇が謝っているのに許さないという、それだけ当時の藤原氏の権力が相当強かったことになる。この大事件の収拾のため一人の男が立ち上がる。それが菅原道真(すがわらのみちざね)、現在では「学問の神様」として天満宮に祀られている人物。菅原道真は上京し、怒りまくっている藤原基経に次のような内容の手紙を送る。「文章博士などの役職にある人は古典から言葉を引用して「詔」や「命令」を伝える文書を作成しますが、引用した全ての言葉の細かい意味などを完全に理解して引用するのは不可能です。ですから橘広相の書いた詔にある「阿衡」はあなた(藤原基経)に権限がないと言う意味で使ったのではありません」。「もし、今回のようなことで橘広相を処罰するなら文章博士などの役職に就いている人々はみんな罪に問われることになり、そんなことになれば文章道そのものが廃れてしまいます。 また、橘広相は宇多天皇の即位に力を尽くした人物で、しかも嫁いだ娘は宇多天皇との間に2人の子供を産んでいます。その功績や血筋はあなた(藤原基経)でさえも到底かないません。このような素晴らしい功績があり才能もあり血筋も文句の言いようがない橘広相を処罰することはあなた(藤原基経)にとっても、これからの藤原氏の繁栄にとっても得策では無いと思います。」 と。

 この橘広相を藤原基経よりも格上だとしておきながらも藤原氏の将来を心配してくれる内容の手紙に藤原基経は大変感動し、また基経の娘も宇多天皇に嫁いだこともあって藤原基経は怒りを収め、橘広相の罪も問わず、政界を揺るがす大事件は一気に解決に向かう。菅原道真が手紙を書いたのは、藤原基経と菅原道真の間に信頼関係か友情のようなものが既にあったと思われる。この事件以来、宇多天皇は藤原氏を疎ましく思うようになり、また逆に事件の解決に功績のあった菅原道真に対する信頼感を強めて重く用いる。菅原道真は、845年、代々「文章道」を研究する家系「菅原氏」の長男として生まれた。幼い頃の名前は「阿古(あこ)」と言った。兄が2人いたとの話もあるようだが兄たちの名前はいずれの歴史書にも名前が出てこず今のところ不明だが。菅原道真の詩にも「我に父母無く兄弟無し」とあるので2人の兄たちは若いときに死んでしまったと考えられる。菅原道真自身も健康だったわけではなく皮膚病と脚気(かっけ)が持病だったと言われている。幼い時から非常に聡明で、5歳にして「梅の花 紅の色にも似たるかな 阿古がほほにもつけたくぞある」という和歌を詠み11歳にして「月夜に梅花を見る」と言う題で、月耀如晴雪 (月の輝きは晴れたる雪のごとく) 梅花似照星 (梅の花は照れる星に似たり) 可憐金鏡転 (憐れむべし 金鏡転り) 庭上玉房馨 (庭上に玉房の馨れるを) という漢詩を詠んだという。菅原道真が死ぬまでに書いた漢詩の文集は「菅家文草(かんけぶんそう)」12巻と「菅家後集(かんけこうしゅう)」1巻があり、漢詩だけでもざっと500首以上、また即吟も得意で1時間に10首の漢詩を詠んだという話も残っている。

 18歳の時に「文章生(もんじょうせい・現在で言うところの東京大学文学部)」の試験に史上最年少で合格、23歳の時に「文章得業生(もんじょうとくぎょうせい・現在の東京大学大学院特別奨学生)」に選ばれ、26歳の時には当時の最高の国家試験で過去約260年間の間に合格者がたった67名という超難関試験「方略試(ほうりゃくし)」に合格、そして33歳の時に「文章博士(もんじょうはかせ・現在の東大教授みたいなもの)」という異例の昇進を遂げる。100年に1度の大天才といわれる。41歳となった886年、菅原道真は財政が破綻していた「讃岐国(さぬきのくに)」を立て直すため「讃岐守(現在の香川県知事)」に選ばれる。この時の菅原道真の位は「従五位上(じゅうごいじょう)」、ランク的には上から13番目の位の中級貴族だったが、讃岐国は当時人口密度の高い大国だったので讃岐守には「四位」で任じられる事が多かった。「従五位上」で讃岐守に任命されたと言う事は3~6ランク上の仕事を与えられるという大抜擢となる。当時の貴族は「正一位」~「少初位」までの30のランクあって上から順に、 「正一位」「従一位」「正二位」「従二位」「正三位」「従三位」「正四位上」「正四位下」、「従四位上」「従四位下」「正五位上」「正五位下」「従五位上」「従五位下」「正六位上」、「正六位下」「従六位上」「従六位下」「正七位上」「正七位下」「従七位上」「従七位下」、 「正八位上」「正八位下」「従八位上」「従八位下」「大初位上」「大初位下」「少初位上」「少初位下」、となっており、このランクに応じて「太政大臣」や「大納言」や「文章博士」などという仕事が与えられる。

 讃岐守に任じられた際には当時の太政大臣(だじょうだいじん)藤原基経(ふじわらもとつね)の宴会にわざわざ呼ばれ(普通は従五位上の貴族になどお呼びがかからない)、激励の言葉も受けた。しかも讃岐国へ赴任する際には光孝天皇(こうこうてんのう)からお呼びがかかり、直々に会うことを許された。讃岐守としての任期中であった888年「阿衡の紛議(あこうのふんぎ)」と言う太政大臣「藤原基経」によるストライキが起こり、菅原道真は藤原基経に対して怒りを収めるようにとの内容の手紙を送り、事件を解決に導くという功績を残している。

 890年、菅原道真は讃岐守の任期が終了し帰京。翌年の891年に藤原基経は亡くなり、その後宇多天皇は菅原道真への信頼を深め、菅原道真を「蔵人頭(くろうどのとう・天皇の命令を臣下に伝え、臣下の言葉を天皇に伝える役)」に任命。蔵人頭に任命されるというのは将来が約束されたも同然とも言える役職。蔵人頭に任命されてからの菅原道真は出世街道まっしぐら、同年の891年に「式部少輔・左中弁」に任命され(普通は中弁から蔵人頭に任命されるが、菅原道真は昇進が早すぎて普通の人とは順序が逆に)、893年には「参議(太政官以外で国政の会議に出席出来る役職)」にまで昇進する。この時の太政官・参議は14人でそのうちの7人が「藤原氏」、6人が「源氏(皇族から臣下に下った人達に与えられる姓)」で残りの一人が菅原道真だった。しかし参議以上の上級貴族にはお年寄りが多く、当時40歳代の菅原道真がますます昇進していくことは間違いない状況なので藤原氏にとっては将来的に邪魔になる存在だった。 しかも「天皇親政(天皇が中心となって自ら政治を行う事)」を目指す宇多天皇は国の政治においての大事な話を菅原道真ただ一人に相談することもしばしばあり、そういった面でも菅原道真は他の貴族達からも疎まれる存在だった。

 894年、日本は約60年ぶりに「遣唐使」の派遣を決定、菅原道真は「遣唐大使(けんとうたいし・遣唐使の責任者)」に任命される。遣唐使は過去18回派遣されたうちの3回は唐へは到着できておらず、また無事に全員が到着できることもほとんど無く、唐から日本へ無事に生還できたのは遣唐使全体の約半分というかなり危険な任務であった。894年当時の唐は衰退し始めて政治が不安定になっており、このような状況で約60年ぶりに遣唐使を復活させるには無理があった。この裏には唐へ行く途中の事故で菅原道真を死に追いやろうとした藤原氏の陰謀があったといえる。「遣唐大使」に任命されたあと、菅原道真は遣唐使の派遣の廃止を宇多天皇に求める。理由は「渡航途中の遭難」「海賊などによる危険」「唐の衰え」など。遣唐使の目的の一つである「唐の仏教典を持ち帰ること」はほぼ達成されており、潮時だったとの考え方もあり、630年から264年続いた遣唐使は廃止される。(894年)  907年に唐が滅んだので結果的に菅原道真の提案は当を得ていた。その後も菅原道真の昇進は留まることを知らず、遣唐使廃止の翌年の895年には参議の先輩方を5人抜いて「中納言(ちゅうなごん)」、897年には「大納言(だいなごん)」にまで登りつめる。

 897年、宇多天皇は皇太子である敦仁親王(あつぎみしんのう)へ譲位し、醍醐天皇(だいごてんのう)が誕生するが、この時宇多上皇は「天皇の判断に任せる話は『藤原時平(ふじわらのときひら・基経の子)』と『菅原道真』に執り行わせなさい」と他の貴族達に言いつけたため、「源光(みなもとのひかる)」ら他の貴族達は仕事を放棄するという事件も起こる。醍醐天皇は父の言いつけを守って菅原道真と藤原時平を重用し、899年には道真を「右大臣(うだいじん)」に藤原時平を「左大臣(さだいじん)」に任命し、「摂政(せっしょう)」「関白(かんぱく)」は任命せず天皇親政を行う。学者の身分でありながら右大臣まで出世したのは、奈良時代に活躍した「吉備真備(きびのまきび)」と菅原道真の2人だけだ。この時代を延喜・天暦時代(えんぎ・てんりゃくじだい)と言い、律令制が栄えた最後の時代として歴史の教科書では紹介されている。そして菅原道真が右大臣に昇進した後、宇多上皇は出家し、政治の世界から遠ざかる(899年)。

 菅原道真の今までの出世は全て宇多天皇のお陰と言っても過言ではない。その後ろ盾が無くなった菅原道真は非常に危険な立場となる。菅原道真のライバルで漢学者の三善清行(みよしよしゆき)は菅原道真に対し 「占いによると来年は革命が起こる大変革の年だから出過ぎた行動は慎みましょう。」と遠回しに辞任を勧める手紙を出す(900年) 901年1月25日、突然「菅原道真を『太宰権帥(だざいごんのそち)』に任命する。」との詔が出される。「太宰権帥」とは北九州にある「大宰府」という役所の長官だが、長官とは名ばかりで大した仕事もない左遷のために作られた役職だった。この左遷の理由は 「菅原道真は低い身分の家系から右大臣にまで出世したのに分をわきまえず、宇多上皇の信任を裏切って醍醐天皇を辞めさせ、自分の娘の嫁いでいた斉世親王(とこよしんのう)を皇位につけようとした」と。菅原道真には思い当たることなど全くない。びっくりした宇多上皇は直ちに処分の停止を醍醐天皇に訴えるために宮中へと急ぎ、醍醐天皇と会おうとするが、蔵人頭「藤原菅根(ふじわらのすがね・藤原南家の人)」は醍醐天皇に取り次がず、宇多上皇は夜まで裸足のまま門の前に立ちつくしていた。藤原菅根は菅原道真のお陰で出世した人だが、謀反の疑いがある人を上皇に会わせるわけにはいかなかった。901年2月1日、菅原道真は一言の弁解も受け入れて貰えないまま幼い2人の子供と弟子の味酒安行(うまさけのやすゆき)を連れて大宰府へと左遷され、また菅原道真の4人の息子達も土佐(現在の高知県)や駿河(現在の静岡県)などに左遷される。

 菅原道真は大宰府へ出発する前に自宅の梅の木を眺めて、「東風(こち)吹かば 思い起こせよ 梅の花 主無しとて 春を忘るな」 (春の風が吹いたら咲いて香りを届けておくれ。梅の花よ、主人が居なくなっても春を忘れるな)と言う短歌を詠み、また自宅から出ていく際には「君が住む 宿の梢を 行く行くも 隠るるまでに かえり見しやは」 (君が住んでいる家の立木を道すがら隠れて見えなくなるまで振り返って見ていました。)と詠んだ。その後、大宰府へ左遷された菅原道真の生活はかなり悲惨で、床が腐って抜けたり雨漏りしたりする家に住まされ、毎日の食事もまともに食べられない状況だった。いつの日か疑いが晴れて都に戻れる日を夢見ながら、去年今夜侍清涼 (去年の今夜、清涼に侍す) 秋思詩篇獨断腸 (秋思の詩篇、独り断腸) 恩賜御衣今在此 (恩賜の御衣、今此処に在り) 捧持毎日拜餘香 (捧持して毎日余香を拝す)、という漢詩を詠んだりする日々を送った。ある時は近くにある「天拝山(てんぱいざん)」に身を清めて登り、自分の無罪と国家の安泰を天に祈ったとも言われ、この時に神様から「天満大自在天」の称号を得たとも言われる。幼い2人の子供達も亡くなり、もともと健康では無かった菅原道真は左遷された2年後、再び京都に戻ることなく59年の生涯に幕を閉じた(903年)。

 菅原道真がなぜ「学問の神様」として祀られるようになったのか。901年、菅原道真は藤原氏の陰謀で「謀反の疑いがある」という無実の罪で九州の「大宰府(だざいふ)」に左遷され自分の無実が証明されることと国家の安泰を願って「天拝山(てんぱいざん)」という山に登り、天の神々にお願いし、この時に神様から「天満大自在天」の称号を得たと。その願いも空しく、菅原道真は京都に戻れないまま失意の内に亡くなった。享年59歳。亡くなったのは誕生日と同じ2月25日。菅原道真の遺体は牛車に乗せられて大宰府の北東の三笠郡の辺りに運ばれるが、遺体を運んでいる牛が途中にあった「安楽寺」の前で突然動かなくなる。その場にいた菅原道真の弟子「味酒安行(うまさけのやすゆき)」は仕方なく遺体をその場に埋めて祠を建てて祀る。これが北九州にある「太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)」のもとになった。菅原道真が死んだ直後、比叡山延暦寺の第13代座主)「法性房尊意(ほっしょうぼうそんい)」の目の前に菅原道真の霊が現れ、「今から私を左遷に追いやった者達へ復讐のために祟りに行きますが、もしそれらの者達があなたに助けを求めてきても応じないでください」と告げる。困った法性房尊意は、「しかし天皇が直々に3回もお願いしにいらっしゃれば応じない訳にはいきませんよ」と冷静に答える。それを聞いた菅原道真の怨霊はもっともなことだと返事に困ったので、法性房尊意は菅原道真の気持ちを鎮めるためにザクロの実を道真に食べさせるが、菅原道真は食べたザクロを炎にして吐きだし、自分の怒りをあらわにした。ここから菅原道真の復讐劇になる。

 菅原道真を左遷させる陰謀に加わった中納言「藤原定国(ふじわらのさだくに・藤原南家の人」が40歳の若さで急死(906年)。菅原道真の左遷が決定した際、醍醐天皇(だいごてんのう)に直訴するため裸足で駆けつけた宇多上皇(うだじょうこう)の行く手を阻んだ藤原菅根(ふじわらのすがね・藤原南家の人が雷に打たれて死亡(908年)。菅原道真を左遷に追いやった張本人「藤原時平」の両耳から蛇に化けた菅原道真が現れ、その蛇を退散させるために色々と祈祷させるが全く効果は無いどころか逆に蛇となった菅原道真に「控えよ」と一喝されて祈祷師はスゴスゴと退散してしまい、藤原時平は狂死。貴族達の集団職務放棄の中心人物だった源光(みなもとのひかる)が狩りの最中に底なし沼に乗っていた馬ごとハマって行方不明。醍醐天皇の皇子で皇太子でもあった保明親王(やすあきらしんのう)が21歳の若さで急死。保明親王の死後、醍醐天皇の皇太子となった慶頼王(よしよりおう・保明親王の子)が5歳で死亡。このような怪奇現象が続いたため、遂に朝廷は菅原道真の怨霊を鎮めるためにと、菅原道真を大宰府へ左遷するという詔に関係する全ての書類を焼き捨てるが、その火が周囲に燃え移って広がり、その場にいた僧侶や役人を焼死させてしまうという事件まで起こる。

 その後も国内では疫病や干ばつなどが相次いで起こり、その干ばつ対策の会議中であった930年6月の午後1時頃、会議場であった「清涼殿」に落雷、大納言であった藤原清貫(ふじわらのきよつら)など5人の貴族・女官が死傷するという事件まで起こる。この落雷事件で今までの不幸な出来事は全て菅原道真の怨霊による祟りであるとされ、「菅原道真の怨霊は雷神となり、この日本に神罰を与えようとしているに違いない」とまことしやかな噂になった。この落雷事件を境に「醍醐天皇(だいごてんのう)」は体調を崩し天皇の位をわずか8歳の皇太子「寛明親王(ひろあきらしんのう)」に譲り「朱雀天皇(すざくてんのう)」が即位(930年)。 譲位の1週間後、醍醐天皇はわずか46年の生涯に幕を閉じた。その後、藤原時平の長男「藤原保忠(ふじわらのやすただ)」も物の怪に取り憑かれ、僧に祈祷をさせたが、その場で狂死してしまった。当時の貴族達、特に藤原氏がいかに菅原道真の怨霊を恐れていたかが分かる。菅原道真の左遷に少しでも関係した者のほとんどが死亡してしまう。ただ、藤原時平の弟である藤原忠平(ふじわらのただひら)だけは大宰府での生活を余儀なくされていた菅原道真に対して励ましの手紙を送ったりしていたので菅原道真からは祟られていないという。藤原忠平はこの後、摂政・関白となって藤原北家を支えていく。菅原道真は「早良親王(さわらしんのう)の怨霊」と肩を並べる「最強の怨霊」として平安京の貴族達に恐れられる。こういった天変地異を起こしたり、関係者にことごとく取り憑いて祟ったりする強力な怨霊を「御霊(ごりょう)」と言う。

 北野天満宮や太宰府天満宮は菅原道真の御霊を鎮めるために建てられた神社。その後の986年、「慶滋保胤(よししげのやすたね)」が北野天満宮に捧げる祈願文の中で「天神を以て文道の祖、詩境の主」と語り、またその後の1012年、当時の文章博士「大江匡衡(おおえのまさひら)」が同じく祈願文の中で「文章の大祖、風月の本主」と言った事から、この後、菅原道真は「雷神」ではなく「学問の神様」として祀られるようになった。
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1 コメント

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遣唐使派遣廃止は正解だったんですね。 (K.H)
2016-09-19 09:35:29
遣唐使は過去18回派遣されたうちの3回は唐へは到着できず、無事に全員が到着できることもほとんど無く、唐から日本へ無事に生還できたのは遣唐使全体の約半分。遣唐使を復活させるには無理があった。唐へ行く途中の事故で菅原道真を死に追いやろうとした藤原氏の陰謀があった。「遣唐大使」に任命されたあと、菅原道真は遣唐使の派遣の廃止を宇多天皇に求め、それは潮時だった。630年から264年続いた遣唐使が廃止されたのは正解でしたね。

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