murota 雑記ブログ

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法と現実とのギャップはどうなるのか。

2012年03月03日 | 歴史メモ
 三方一両損(さんぽういちりょうぞん)というのは良く知られている話。ある男が三両の金を落とした。それを別の正直者の男が拾って、落とし主に返そうと仕事を休んでまで探す。落とし主の男を見つけたが、その男は受け取ろうとしない。逆に、仕事を休んだ補償分としてもらってほしいといわれる。二人の間では結着がつかないので、名奉行といわれた大岡越前守のところへ行く。奉行は先ずこの三両を没収し、奉行が一両足して合計四両とし、二人に二両ずつ与える。落とし主は三両落としたけれども二両の戻りで一両の損、拾い主は三両もらうところを二両となり、これも一両の損。奉行も一両出したので一両の損。つまり、三人(三方)がそれぞれ一両の損という話だ。こんな裁判は世界中にない。シェークスピアの「ベニスの商人」の話のように、胸の肉1ポンドを切り取っても良いが血は流すなという名判決で被害者を救うという話はある。これは法解釈の問題だ。しかし、三方一両損の話は法解釈ではない。奉行が一両出すのは法に照らせば違法だ。公金でも違法であり、奉行のポケットマネーを出したとしても問題だ。こんなのは実話ではなかろう。大岡越前守は正しいと考えて、自分も一両出すという結論を出したのだが、昔の日本人が何を理想としていたかが分かるような話である。

 西欧では法を基準とし、全てあいまいにせず白黒をはっきりさせる。日本人は法による解決が全てだとしても、それが最善だとは思わない。関係者が丸く収まることを理想とし、和を大切にしてきたという歴史がある。公正無私を貫くべき裁判官が法を無視することはできない。裁判官は法を守り、安易に当事者の立場に立ってはいけないが、三方一両損の話は、日本における「法」というものが、あくまで当事者間の納得を実現させる手段の一つであったことを示している。「法」だけで「納得の実現」が困難なら、他の手段でやってもよいという考え方である。

 鎌倉時代、北条泰時が行った訴訟事件の処理方法も見事だ。九州のある御家人が死に、相続問題が起こる。死亡した男には二人の息子がいた。兄は孝行息子で父がかつて借金のために所領を取られた時、自ら借金して父のために所領を取り戻してやった。ところが、この父は死に際に、全部の所領を弟の方に譲る。孝行息子の兄は借金を背負った上に財産もゼロになる。弟の母は父の後妻であり、兄の母は亡くなった先妻である。当時の武家は子が大切なので、妻に先立たれた場合、若い妻をもらって子を産ませる。年長の先妻の子は奉公のため鎌倉や京へいっている。そんな時に故郷の父親が死に、近くにいる若い後妻とその子に財産を取られてしまう。泰時が定めた御成敗式目の第22条には、継母の讒言に付き或は庶子の鍾愛により相続から除外された子については、その相続分を確保させなければならないとしている。
 大岡越前守には「大岡裁き」という伝説があるが、実は、「大岡裁き」のモデルは北条泰時なのだ。御成敗式目に端を発する「武家法」は当時の有名無実化した「律令」の法に対する批判の立場から生まれた。北条一族自身も後妻には悩まされた。北条時政の後妻だった牧の方(まきのかた)は娘婿を将軍にしようとした。泰時自身も父義時が死んだ時、京の六波羅探題(幕府の京都出張所)に駐在していて、父の後妻の伊賀氏に執権の座を奪われそうになった。
 話は北条泰時が行った訴訟事件の処理方法に戻るが、孝行息子が訴えてきた時、泰時は同情したが、法の上では所有者の父が下の息子(弟の方)に相続させると決めたことが事実である以上、幕府としてはどうしようもない。御成敗式目では「讒言」や「溺愛」にあたる事実があった時だけ被害者を救うことができる。現代の社会が民主主義、法治主義を絶対の基本としているように、鎌倉武士の社会では「土地所有権の尊重」が絶対の基本であった。最高権力者であった北条泰時も、これを踏みにじることはできない。男には幕府に奉公してきた実績もあり、泰時は個人的に同情した。九州に欠所(相続者のいない遺領)が出たので、これを与えた。この男には長年の貧乏暮らしで苦労してきた糟糠の妻がいた。男は九州に赴任するにあたり、女房を連れてゆき、ねぎらってやりたいとまで申し出た。泰時は、人は出世した時、糟糠の妻など忘れてしまうものなのにと感心し、妻の分まで馬を用意してやっている。泰時とはこういう情のある人だったといわれている。

 日本国憲法第九条は軍隊を否定し、戦争と国際紛争の武力による解決を放棄している。もう一つ、あまり知られていないが、憲法第八九条に、公金その他の公の財産は、(中略) 公の支配に属しない慈善、教育もしくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない、とある。年間3500億円以上の予算を計上している「私学助成金」は「公の支配に属しない」私立大学等に支出されており、これは厳密にいうと憲法違反になる。日本には大学教授など知識人を中心に「護憲派文化人」がいる。護憲派の人達は、現行憲法は一字一句変えるべきでないという。この人達が最も嫌な顔をするのが、この「八九条問題」だ。この件に関しては内閣法制局長官が「率直に言って困る規定」と予算委員会でも述べているぐらいだ。
 個人的には、この税金の使い方には賛成したい。国の私学助成は必要だからだ。むしろ、こんな規定のある憲法の方を改正すべきだ。「護憲派」の人々は、第九条については、自衛隊を持つことは憲法違反といい、第八九条については何もいわない。
 現行の憲法には現状に合わない点がいくつかある。今でも憲法改正は必要なのである。改正案を出すこと自体に反対する護憲派の人達もおかしい。意見を出す自由さえ認めようとしないのはおかしい。これまでも憲法と現実のズレを放置してきたために、憲法の規定はどうでもいいという、あいまいさが残っている。

 歴史の上では、現実無視の律令制度に対するアンチ・テーゼとして幕府が誕生した。そして、幕府の法は、律令と違って現実を踏まえたものでなくてはならないと認識していたのが北条泰時である。彼は名裁判官であり、名政治家と讃えられている。世に言う「大岡裁き」も、法律では充分に解決できない「納得の実現」を何らかの手段によって達成しようとしたものだ。
 日本人が重んじる「納得」、そこに「和」という基本概念がある。対人関係における他人との協調だ。日本人は裁判で白黒の決着をつけることを嫌い、できるなら和解を望む。本来、裁判官は「法による正義の実現」さえすればよい。しかし、民事においては、日本の裁判官は積極的に和解を勧める。日本の裁判のスピードが他の先進国に比べて異常に遅いが、それは建前であり、結着をつければどちらかが納得しない。そうなるより、話し合って納得を実現させたいというのが裁判官の本音だ。北条泰時は法こそ無視しているが、それを超える「納得の実現に至る道筋」を実践している。現代は泰時のような法を無視するやり方は許されないので、和解が勧められる。

 鎌倉武士が「律令政府」に対して反乱を起こし幕府を創設した理由は、律令政府の政治が不自然で納得いかなかったからである。日本は奈良時代に律令が制定されて以来、明治になって律令が廃止されるまで基本的には変わっていない。ただ、今の憲法と違う点でいえば、「格」(きゃく)と「式」(しき)という追加改正法が可能なことであった。格は「勅(天皇の命令)による追加」、式は「律令の施行細則(今でいう規則)にあたる。これによって律令に規定されたことを変えることも可能だった。現代の法律では憲法に違反する法律は定めることができない。現代は、憲法で軍隊を持つことは否定されているのに、自衛隊法という法律で軍隊を認めているのも厳密にいえばおかしい。
(注)律令: 律は刑法、令は行政法・訴訟法など

 最高裁判所で憲法違反と裁定され、期限を過ぎても未だに政治家が国会で対処していないのが議員定数の削減だ。
 憲法が戦争を放棄し、戦力の保持を禁じてはいても、国際社会においては自衛権の行使は自然法に基づく国の普遍的な責務でもある。
 基本的人権も、憲法があるから「ある」のではない。もともと「ある」ものであって、憲法はそれを保障しているに過ぎない。基本的人権は、なぜ「ある」のか。アメリカ人が学校で必ず習う「アメリカ独立宣言」の中に、全ての人々は平等に作られ、造物主によって一定の奪い難い権利を与えられ、その中に生命・自由及び幸福の追求が含まれているという一節がある。これが西欧の考え方の基本だ。

 律令政治が実務的には何もしない政治であったのに対し、幕府政治はリアリズム(現実主義)の政治であった。「日本の歴史は鎌倉時代から始まる」という見方をする人が国内にも海外にも多い。司馬遼太郎もその一人であり、「あれ(鎌倉幕府の成立)は土地革命ですね。律令体制は、支配者、国家という体制での奴隷的生活をしている農民階級に個がなくて、明快なモラルもない、それが鎌倉時代になると、にわかに出てくる。」といっていた。

 憲法と現実のズレについて、国会議員は建設的な提案をすべきであろう。彼等の中には「自衛隊の廃止」という非現実的な提案を考えている議員もいる。それでは国家が国民を守る義務を放棄し、法治国家・民主国家ではないといっているのと同じになる。

1 コメント

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日本人のあいまいさだね。 (T.H)
2012-03-03 14:20:43
西欧人は明確に白黒つけるところがあるが、日本人は、あいまいにしておくのが得意技だね。
政治家がこれでは国民が不幸だ。
大岡裁判の元ネタは鎌倉時代の北条泰時だったんか。
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