南のまち、と森の端

南九州の一隅からちょっとした日常の出来事や思いを綴ります。

「山河来て」

2018-12-31 20:40:13 | 芸術文化

山河来て瞳のはばに星拾います
総だけの軍旗焼いてのち髑髏
たましいがころんと箱に小石でいる
海を見た二足歩行で森を出て
少女老ゆ永き戦の長々し水尾
(徳永義子句集「山河来て」より)

12月15日に義子さんが98歳でお亡くなりになって、もう半月になります。今ごろご主人が戦死した南の島を訪れ、のんびりお正月を迎えようとしているのかも知れません。こちらは相変わらずよちよち雑踏の中を歩いています。
行きつけの喫茶店で、このお店の近くにお住まいの義子さんと知り合ってから20年ほど。今年お亡くなりになった金子兜太さんの「海程」、また地元宮崎の「流域」などの同人として活躍、宮崎県でも名の通った俳句作家と名前だけは知っていましたが、お会いするたびに俳句というよりはとりとめのない日常的な話を交わしながら、母のように慕える見識あるおばあちゃんでした。
義子さんは大正8年朝鮮半島の京城で生まれ、昭和18年に結婚。翌年長男が生まれたが、同年ご主人が出征、そして戦死。終戦の年に大分に引き揚げ、翌年宮崎へ。以後母一人子一人さまざまな苦労を重ねながら苦しい時代を生き抜いてきた人でした。
一生愛を貫いた義子さん。キリスト教のお葬式で、参列者みんなで「きよしこのよる」ほか賛美歌を歌いましたが、義子さんのやさしい笑顔を思い浮かべながら涙がこみ上げてくるのを止めることができませんでした。
鋭い感覚の多くの俳句作品を残しました。その根底にあるのは、ご主人への、戦争の不条理への深い思い。終戦、開戦の日の前後にはその思いをよく語ってくれたものでした。
愛を奪われ、多くの人がそうであったように、いやおうなく戦争とともにあった人生、庶民のどうしようもない悲しみ。
いま日本は知らず知らずのうちに戦争が可能になるような方向に傾いていっているように思えてなりません。このような戦中・戦後の庶民の軌跡、痛みを為政者はどれだけ理解しているでしょうか。
また、義子さんはジェンダーの問題、差別についても強い関心を示し、行動もしてきました。

あと数時間で18年も終わります。一人のおばあちゃんが亡くなった、で終わるのでは、なんとも悲しく、虚しい。少なくとも私は、義子さんの思いを少しでも理解し受け継ぐ努力をし、行動していかねばと思っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする