トーキング・マイノリティ

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イラク―テロと略奪の国 その三

2015-03-22 21:10:14 | 読書/ノンフィクション

その一その二の続き
 カルバラーの戦い(680年)で、イマーム・フサイン軍は殆ど殲滅状態となり、かろうじて生き残った彼の妻子ら一族はダマスカスヤズィード1世の元に送られる。ヤズィードはフサインの家族・支援者らの財産を没収、奴隷身分に降した。敗者一族は全財産を没収され、奴隷にされるのは、当時のアラブ社会では当たり前のことだったが、フサインは何といってもムハンマドのたった2人の孫の1人なのだ。もう1人の孫である兄ハサンは既に故人となっており、680年時点で生存していた教祖の孫はフサインのみだった。
 ヤズィードの行為にはシーア派はもちろん、スンナ派ムスリムからも当時から激しい批判があり、現代に至るまで“カルバラーの悲劇”はシーア派とスンナ派との確執となっている。

 アラ・バシールは、ダマスカスまで連行されたフサインの家族に対する人々の伝説をこう紹介している。フサインの近親らが辱められているのを目にして、涙を流す人々で通りは一杯になった。それでもなお、人々は嘆き悲しみながら捕虜たちから身ぐるみ略奪するのを止めなかった。
「あなた方は私たちの運命を思って泣きながら、何故こんなことをするのですか?」と、フサインの妹であるザイナブは尋ねた。「私たちがこうしなければ他の者がすることになるからです」というのが、その答えだった。

 池内恵氏はこれらのエピソードを紹介して、「イラク史に塗り込められたテロと略奪の政治文化」という章を締めくくる。
この矛盾したような光景が切迫感を込めて語り継がれるところにこそ、イラクの社会意識に長時間かけて形成されてきた、複雑にねじれた政治権力への姿勢が現れている。風土と人々の記憶に固着した政治文化を払拭する困難を思えば、イラクが「悪夢」から醒める日がそう近くにやってくるとは楽観できない。(62頁)

 ちなみにこの章は、2005.6.11付の新潮社の雑誌『フォーサイト』に寄稿されたものであり、10年経た現代は状況がより深刻化しているのだ。池内氏の著作『中東 危機の震源を読む』は実に興味深い内容満載だったが、この章だけはあまりにも重く、読んでいる途中と読後の2回、溜息をついてしまった。サイード首相の遺体が最後には、「血塗れで汚れた脊椎骨だけが残っていた」状態となったのは絶句させられる。70歳の老人にここまでやるとは……
 7月14日革命で虐殺された摂政アブドゥル=イラーフも、一応はムハンマドの末裔である名家ハーシム家の一員。7世紀のイラク人は貴種の一族に対しては略奪だけで済ませたが、20世紀は惨たらしく殺害している。

 イラク王国オスマン帝国の末期はあまりにも好対照だ。トルコ革命でもオスマン一族は殺さず、追放で済ませたトルコと王族を虐殺したイラク。英国の傀儡国だったイラク王国と、自ら中東を長きにわたり支配したオスマン帝国では重みが違い過ぎるが、風土と人々の記憶に固着した政治文化も違っているようだ。アラブ人からカリフになることを要請されたムスタファ・ケマルが、丁重ながら断ったのはやはり賢明だ。
 イラク史は異民族による支配が長く、米英の前はトルコ、モンゴル、ペルシア帝国などが統治していた。バグダードが帝都だったアッバース朝は「イスラム黄金時代」を築いたが、その担い手は地元民よりも余所者が多かった。これがイラクの政治文化に少なからず影響を与えたはず。

 現代のイラクの惨状の原因が米国の軍事侵攻なのは書くまでもないが、米国が介入せずともこの国でテロと略奪の政治文化がなくなるとは到底思えない。
 TVに登場する中東解説者の1人に高橋和夫氏がいる。湾岸戦争前にサダム・フセインと面会した唯一の日本人でもあるそうだが、フセインが米軍に捕えられた際、明らかに興奮した様子でフセイン擁護とも取れる発言をしていたことを憶えている。この時の高橋氏の怒りに満ちた眼差しからも、イラクの代弁解説者だと私は見ている。尤もTVに登場する日本の中東研究家にはその類が多いのだが、そうでないと中東諸国やТV業界から締め出されるのであろう。

 イラクには「豊かなる過去を持つ国」という意味があるという。国名通り、戦慄するテロと略奪の過去も豊かなのだ。

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