トーキング・マイノリティ

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イラク―テロと略奪の国 その二

2015-03-21 21:10:34 | 読書/ノンフィクション

その一の続き
 かつてサイード首相の遺体に機関銃の弾丸を撃ち込んだターヘルは、カーシムの護衛官となっていた。ターヘルは追っ手を待たず自ら命を絶つ。ターヘルの遺体は国防省からラジオ・テレビ放送局へと運ばれ、外の芝生に同じように並べられた。1人の兵士が駆け寄り、機関銃を彼の頭部に据え、引き金を引いたという。ターヘルの死体損壊は因果応酬でもあるが、この兵士はその後どうなったのやら。

 入り乱れた政治抗争は、79年にフセインが全権を掌握するまで続くが、粛清が仕上げだった。大統領に就任して程なくフセインはバアス党幹部を一堂に集める。書記長が促されて立ち上がり、「シリアのアサド政権と結んでイラクに対する陰謀を試みていた」と“告白”し、60名以上の「共謀者」の名前を挙げた。彼らは即座にその場から連行され、多くが処刑された。“告白”の役を演じれば助命されるはずだった書記長も、もちろん処刑された。
 この粛清劇はТVで収録され、国民に教訓として示された。イラク戦争時には、米国によりフセインの残虐さの証拠として世界に示されることになる。

 以上の残忍極まる記述を延々紹介されると、あたかもアラ・バシールの回想録が怪奇趣味や暴露モノであるかのような印象を受けてしまう。しかしバシールの筆致はあくまで冷静であり、センセーショナリズムとは無縁、と池内恵氏はいう。これらの事象はイラク人には驚くべきことではなく、イラク人の思い描く政治とは、まさにこのような陰惨な光景の連なりなのだ。「むしろ、これほど苛酷な現実をここまで淡々と記せてしまう人物が現れる社会状況にこそ、本当の意味で衝撃を受けるべきだろう」とも述べる池内氏。
 注目すべきなのは、秩序の動揺に伴って湧き出てくる暴徒の姿だ。自発的に、しかし相互に連動して動く大小の武装集団と、それに連ねて数倍の規模で膨れ上がる群衆からなる暴徒による略奪と暴行の光景は、1人1人のイラク人にとって悪夢なのだ。しかも時に自らもその一員にならざるを得ない悪夢。

 バシールはアリーフによる63年のクーデターの際、彼の父が遭遇した状況を記している。バアス党が主体となったクーデターに便乗、思想を異にする共産党も蜂起する。父の勤める警察署は共産党勢力に包囲され、武器庫を開けるよう迫られる。拒否した父は銃弾を撃ち込まれ、暴行を受けた。
 その際に父が最もショックを受けたのは、ある1人の元同僚の仕打ちだったという。退職し幼い子供たちを抱えて生活に困窮していた元同僚が署内で働けるように、父は便宜を図ってやっていた。しかし父が撃たれ、暴徒たちに手錠をかけられると、元同僚が一番にやって来て父の顔を殴る。友人ではないことを共産主義者らに示さなくては、と思ったのだろうと父は息子に語ったという。イラクで情けは、わが身のためにならないこともあるらしい。

 フセイン政権崩壊直後にも広範な略奪の現象が起きている。バシールはイラク史で繰り返される略奪の心性を、イラク人の多数が信奉するイスラム教シーア派に特有な象徴体系に遡って解釈している。シーア派成立起源となるのは、680年にイマーム・フサインムハンマドの従弟で女婿でもあるアリーの次男)が、ウマイヤ朝カリフの軍勢とカルバラーの地で戦い(カルバラーの戦い)惨殺された事件である。これをシーア派では「フサインの殉教」と呼び、毎年のアーシュラー祭で悼む。

 驚くべきことに、尊敬するイマーム・フサインの家族に対してさえも人々は略奪を行ったという伝説が語り継がれているというのだ。そもそもイマーム・フサインがカルバラーで戦う羽目になったのも、クーファの人々がウマイヤ朝カリフヤズィード1世に対抗するため、フサインを招いたことにある。招致を受けてクーファへと進軍したフサインだが、結果は「カルバラーの悲劇」だった。
その三に続く

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