先週末、山形にバスツアーに行って来た。行き先は羽黒山が中心だったが、ツアーの最後は湯殿山・注蓮寺に寄り、名高い天井絵画を見る。しかし、このツアーで最も印象的だったのは、注蓮寺に安置されている鉄門海上人の即身仏だった。ツアーのパンフレットには天井絵画への説明はあっても、即身仏のことは載っていなかった。
私的には期間限定で公開された秘仏や羽黒山五重塔よりも、即身仏の方がずっとインパクトがあった。注蓮寺のパンフでは鉄門海上人の生涯をこう紹介している。
―宝暦9年(1759)鶴岡市に生まれ赤川の川人足や木流しを生業としていたが、25歳の時、注蓮寺に入門し、『鉄門海』という名で湯殿行者になられました。湯殿山で厳しい修行に励み湯殿山大権現と一体となり霊力を得て湯殿山信仰並びに即身仏信仰の布教に努めました。
上人は疫病退散や酒乱治療を始め多くの人々の病を治し、困窮者には金銭を施し、子供達には手習いの為に硯を配布し、多くの寺院再建に尽力し、庶民に尊敬されました。
加茂坂の新道工事では、多くの人々が上人の力になりたいと鍬を持参し奉仕活動により2年を費やして完成しました。また、江戸では眼病が流行し、自らの左目を隅田川の龍神様に投じ祈願した事から、京都の御堂御所より『恵眼院(えがんいん)』の院号が授けられています。
衆生救済に生涯を捧げ多くの人々から尊敬された上人は、文政12年(1829)12月8日71歳で即身仏となられました。上人の石碑は、庄内地方を中心に北海道から関東にまで及び当時の上人の活動範囲や信仰状況が偲ばれます。
トップ画像こそ鉄門海上人の即身仏であり、注蓮寺HPにも彼の主な活動が載っている。それまで本やネット等で即身仏を見たことはあるが、直に見たのは初めてだった。即身仏、つまりミイラというだけで迫力があり、顔や手はタールを塗られたように黒光りしている。もしかすると腐敗防止のため、何か処置を行っているのかもしれないが、本堂の一角にそのまま即身仏が置かれているのは興味深い。
山形弁丸出しの注蓮寺の坊さんによる解説は面白かったが、かつて行者に求められたのは加持祈祷が第一だったという。現代と違い当時の農民は医者にもかかれず、農薬もない時代だった。疫病の治療や豊作は霊力を持った行者に祈祷に頼る他なく、疫病を治したと思われていた上人は、庶民から絶大の敬意を払われていたのは想像に難くない。
即身仏になるためには、先ず山草や木の実だけを口にする木食行が行われるが、これだけで大変な苦行なのか判る。殆ど飢えと渇きでの衰弱死状態だが、衆生救済に生涯を捧げた上人の強い意志があってこそ苦行も出来たのだ。即身仏になろうとしても、失敗する者の方が多かったらしい。
山形県には荘内地方を中心に8体の即身仏が現存しており、特に鉄門海上人は知られている。注蓮寺の解説によれば鉄門海上人が特に有名なのは、山籠もり中心だった他の行者と違い鉄門海上人は度々下山していたこと、NHK TVに取り上げられたことにあるそうだ。既に生前から名は知られていたし、現代はメディアが情報を拡散する。
それにしても、山形県に現存する即身仏は全国的にもダントツである。東北の他県では福島県・貫秀寺の宥貞法印くらいで、何故山形にはこれほど即身仏が多いのだろう?気候の厳しさでは秋田や青森も劣らぬはずなのに、北東北には即身仏は見られず、山形の風土も影響しているのか。
今回のバスツアーで、昼食は宿坊での精進料理で取った。精進料理ゆえ山菜中心だったが、とにかく美味しかった。その際給仕していた男たちはとにかくよく働いていたのが印象的だったし、同行した友人(女)はこう冗談を言ったほど。
「山形の男ってよく働くね。もう20~30歳も若ければ、山形に嫁いでいたかも」
オバサンが多いバスツアーなので、これを聞いた他の参加者女性たちも大笑い。確かに山形県民は働き者が多い。対照的に宮城県には“かばねやみ”(仙台弁で怠け者の意)が目立つ。かばねやみなら端から即身仏になろうとする気も起きない。
注蓮寺は空海が開山したとされ、寺の庭には空海ゆかりの桜が植えられている。しかし、この桜は実は江戸時代のものだったことが後の調査で分ったそうだ。こうなると空海開山説も疑わしい上、上人の霊力も創作にちかいものがある、と私は想像している。医療制度や農薬が当たり前の現代は、昔のように素朴な信心が出来ないのだ。
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ご丁寧に『即身仏になる方法』なんて記述もあって確か『五穀絶ちから始め、最後は桶に入って竹で空気抜きの穴を通し、鈴を鳴らしながら読経して最期を迎える、音がしなくなった後に掘り出してお祀りする』とあった(子供が真似したらどうするンだ?)。
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今回の記事で注蓮寺が真言宗のお寺だと知ってナットクした。真言宗には即身成仏の考え方があり、本来は生身のまま仏になることを目指す考えなのだが、それが木乃伊造りに結び付いたのだとしたら理屈が通るというものだ。
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余談ですが真言宗のお葬式ではお坊さんが『我真言の奥義を授け・・・』として即身成仏の儀式をしてくださる。私もお葬式でそれをしてもらえるはずです。
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いくらお寺が真言宗でも空海が奥州まで足を伸ばしたとはとても思えナイです。
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これは民俗学では『かつて山中には「大子(おおご)」という一つ目で一本足の妖怪がいて、里の人々と関わった』という伝承があり『この大子(おおご)が、太子(たいし)さらには大師(だいし)と読まれることで、日本全国に聖徳太子や弘法大師に関わる伝説が残っている』とする説があります。
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確かに『食べ物を分けてあげなかった仕返しに村が飢饉に見舞われる』なあんて言い伝えを聞くと、いくらナンでも德の高い弘法大師が意趣返しをするというのはオカシクないか?と思いますが、妖怪の仕業だとするとナットクできるのです。
鉄門海上人はその記事では「誤って人を殺して仏門に入った」との記述で、子供心に「ずいぶん破天荒なお坊さんだ」と思ったことを覚えている。
んんん、本当に行ったのかもしれません⤵。
奥州の即身仏の話は『少年マガジン』でも取り上げられていたのですか。夏が近い時期となると、超常現象記事が子供向けの雑誌にも載っていましたが、結構この種の話って面白いですよね。私もそれが楽しみでした。
「大子」という一つ目で一本足の妖怪のことは初めて知りました。食べ物を分けてくれなかった村を恨み、飢饉の呪いをかける弘法大師の話も初耳ですが、妖怪の仕業となれば納得がいきます。
記事を書くにあたり、鉄門海上人について検索したら、「誤って人を殺して仏門に入った」という記述もヒットしました。
https://tvtopic.goo.ne.jp/program/nhk/21311/864303/
これが事実かは確認できませんが、殺人者でも仏門では受け入れてくれますからね。釈迦の弟子にさえ殺人鬼がいたほどだし。
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一本足はちょっと分かりませんが、一つ目といえば「溶かした鉄を見続けたため目を失ったという鍛冶神を一つ目とする伝承もある」とのことで、思い浮かぶのは「ひょっとこ」です。
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これは「火男」が語源らしく、片目がツブれかけています。口が尖っているのは火吹き竹を吹いているためだそうで、こうした異形の人々が山中に居たのではないかと考えます。
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で、ときどき里に降りては「食べ物をよこせ」とか「娘をよこせ」とか交渉するのでは、と。
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製鉄は当時最高の軍需産業ですからその場所と存在は軍事機密となっていて一般のヒトには知らされていないワケです。
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日本書記(だったか)にも「鍛冶の翁変じて八岐大蛇となる」という記述があり、尻尾から天叢雲剣(草薙剣)が出たことからも、山中で製鉄に携わる集団が、里の人々に「娘を差し出せ」と要求していたことが分かります。
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この八岐大蛇のところへ行ったら「十人行けば五人帰る(だったか?)」なので、諜報員は半分がた殺されたようです。やはり軍事機密だったのでは?と。
「大子(おおご)」への貴方の解釈は面白いですね。「ひょっとこ」といえばお祭りに登場する陽気なキャラのイメージがありますが、元が鍛冶神だったというのは驚きました。確かにあの顔立ちは異形です。
水木しげるが著書『続・妖怪画談』の中で、一本ダタラという妖怪を取り上げていました。文字通り一本足の妖怪で、一つ目とも言われているとか。ダタラとはダイダラ法師、つまり体の大きい人を意味するとか、タタラ師(鍛冶師)と関係があるとも言われていても、本当の所は不明だそうです。ただ、一本ダタラが出没する処には必ず鉱山跡があるとか。
一本ダタラとは、重労働で片目と片脚が萎えた鍛冶師の零落した姿という見方もあるそうですね。
貴方も水木しげるの『妖怪画談』を読まれましたか?妖怪に続き、『幽霊画談』『妖精画談』も出ていますが、このシリーズはイイですね。
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中を見ると、水木しげるも鳥山石燕などから結構影響を受けているようで、中には『タッチまでそのまま』な絵も多くあります。
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こうした本を読んで感じるのは百科全書派にも通じる『名付けて分類すること』への恐るべき情熱です。本来『よくわからないもの』である『怪異』にまで、名前を付け分類してしまう。なかなか凄いことだと思います。
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しかし考えてみれば、人間にとって最も恐ろしいのは『何だかよく分からないモノ』なのではないかと思うのです。
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例えば病気でも『よくわからないけど、とにかく人が死んでいくンだ』はとても恐ろしいでしょう。
しかしながら『これは疱瘡という病気ぢゃ』となれば怖さは半減です。
恐ろしい病気には変わりがなくとも『疱瘡に罹ったから死んだのぢゃ』といえば皆がナットクするのです。
そして『疱瘡患者には近寄らないようにするンぢゃ』とか『この薬が効く』とか『前もって種痘をすれば死なないんじゃ』ということになる。
名前を付けて分類すれば対処の仕方も分かってくるのです。
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ですから、こうした妖怪図鑑が出るってことは、もはや妖怪が恐ろしいものではなくなったことの証ではないかと思うのです。
私は『妖怪図鑑』は未読ですが、『妖怪画談』シリーズの巻末には参考文献が載っていて、鳥山石燕の「画図百鬼夜行」もありました。『妖怪画談』に描かれた妖怪の画には浮世絵そっくりのものがあったのも納得です。
仰る通り、正体がよく分からないモノに対しては、人間は殊更恐怖を感じると思います。だから昔の人は怪奇現象を恐れ、酷い場合には魔女や祟り、呪いのせいにしました。科学が発達した現代は様々な超常現象への解析も進み、妖怪の正体がかなり分るようになりました。妖怪が恐ろしいものではなくなったのは結構かもしれませんが、少し寂しいと思う人もいるでしょう。
「怖いのは死人ではない。生きている人間だ」といった人もいます。