ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【修復腎移植ものがたり:(16)拡大】難波先生より

2014-12-10 18:03:36 | 修復腎移植ものがたり
【修復腎移植ものがたり:(16)拡大】
 修復腎移植はその後95年2例、96年4例、97年2例、98年1例、99年4例、2000年6例、2001年5例、02年0件、03年3例と続けられた。内訳は市立宇和島病院23例、呉共済病院4例である。9年間で透析患者27人が腎移植を受けることができた。91年の光畑移植からだと31例に達した。
 この数値は他の市中病院で行われている生体間腎移植の実績に匹敵する。この間に、死体腎移植、生体腎移植も並行して行われているから、二つの病院で実施された腎移植の総件数は、膨大なものになる。すでに男は1986年に「腎移植100例」を9年間で達成していた。
 呉共済病院の4例はいずれも光畑直喜による移植で、彼は1991年の「病腎移植第1例」の手術以来、97年6月、7年ぶりに病腎移植をおこなった。腎臓を提供したのは71歳の老女スマコで、高血圧と腰痛を主訴として内科を受診したところ、右腎動脈に直径20ミリの動脈瘤が見つかったのだ。内科から紹介されてきた患者は、位置的に部分切除はむつかしく、年齢を考えると手術が短時間ですむ腎尿管全摘術が妥当と考えられた。動脈瘤のほとんどは大動脈に発生する。内臓に行く動脈(内臓動脈)の動脈瘤はまれで、腎動脈瘤はさらに少ない。しかし放置すれば脳動脈瘤と同じように、生命にかかわる。
 光畑はこのめったに出ない腎臓を何とか移植に使えないかと考えた。幸い話を聞いたスマコは、
 「先生、取った腎臓を<あんたのもんじゃけん、持って帰れ>ちゅうて、言われたら、私が困ります。
 他人さまの生命が助かるんなら、どうぞ腎臓を使うてあげて下さい」
 と、快諾してくれた。
 当時院内に倫理委員会が設置されていたが、すでに1991年11月、巨大腎動脈瘤のある腎臓を全摘し、修復後に移植に用いたことが、読売新聞により大きく報じられていた。だからドナーとレシピエントの承諾さえ取れば、わざわざ委員会にかける必要はないと光畑は思った。どうせカルテにはこのことは書いておくし、カルテは永久保存される。やましいことは何もない。
 レシピエントには、生体腎移植のドナー見つからず、長い間透析を続けていた56歳のタケオが、ドナーと血液型一致することもあり選ばれた。
 タケオも二つ返事で腎移植の話にとびついた。スマコの腎摘出とタケオへの腎移植は6月の末に同時に行われ、男と廉介、西光雄が応援にかけつけた。手術は成功し、体外で切除した腎動脈瘤だけが「腎臓は移植に使用しました」というコメントをつけた病理検査依頼書と一緒に、病理科に提出された。術後1週間目に戻って来た病理診断書には「動脈硬化性腎動脈瘤」とあった。
 だがタケオに運命の女神は微笑みを与えなかった。2ヶ月後に急性拒絶反応がおこり、せっかく植えた腎臓は取り出され、また透析生活に舞い戻った。腎臓を摘出してもらったスマコの方は、10年後の2007年現在、81歳になり元気に広島県内で暮している。
 1997年6月までは、両病院とも院内で発生したドナーからの腎臓を院内で移植に使用していたが、それだけではドナーが足りなくて、他の病院で摘出された腎臓のうち、使えるものをもらってきて移植に使用するようになった。最初に院外からのドナー提供施設となったのは、広島県三原市の三原赤十字病院泌尿器科(西谷嘉夫部長)で、ドナーは下部尿管がんが見つかった62歳の男性だった。
 摘出術は97年11月に岡山から廉介が参加して行われ、呉共済病院へ運ばれて44歳の男性に移植された。このレシピエントは岡山市内に住む44歳の男性弁護士、林秀信である。当時、岡山市の協立病院にいた廉介が林の主治医だった。妻からの生体腎移植が早期に拒絶された後、血液透析とCAPD(持続携行式腹膜透析)で生きていたが、高血圧、身体のかゆみ、頭重感それに頭痛のため、弁護士としてろくに仕事ができなかった。
 林は97年の秋、岡山協立病院の廉介医師の診察室に呼び出された。
 「下部尿管がんの手術が予定されているが、腎移植を受けるか」と、廉介がぶっきらぼうに尋ねた。
 藪から棒の話に驚いた林が、がんのリスクを訊ねると、側に立っていたひょろ長くて髪がボサボサのおっさんが、
 「そりゃ、万が一のときには、がん死するくらいの覚悟はしとかにゃいけんで」、と言った。
 これが移植を担当する呉共済病院の光畑直喜医師だった。
 腎移植で現在の地獄から脱出できるなら、何年か先に起こるかも知れないがんのことなど、後で考えればよい。
 「20〜30%のがん再発の可能性なら、移植を受ける方に賭けよう」と、林は決断した。
 結果としてこの腎臓は15年間以上生着し、ブダペストでの「世界腎移植者スポーツ大会」にも出場し、仕事の範囲もそれまでの消費者事件から、自分の体験を生かして医療過誤事件にまで広げた。
 この患者つまり林秀信弁護士は、いまや移植学会幹部を相手取った、患者による損害賠償訴訟の原告側弁護団長として、弁護団をまとめている。林は今回の事件で自分が名乗り出たのでドナーと連絡が取れ、会いに行った。もう70代になっていて、農業をしている穏和な人で、がんの手術のおかげで元気になったと感謝していたそうだ。林自身も「彼の“身体”を私は“共有”している」と感じている。
 林は後に「病腎移植」を支持するフロリダ大のリチャード・ハワード教授(元全米移植学会会長)が、イメージチェンジのために考案した「レストァド・キドニィ」という言葉に、「修復腎」という適切な訳語を考案し、自らの体験を綴った手記『修復腎移植の闘いと未来』(生活文化出版)を公刊した。
 その後、ドナー腎の提供病院には、かつて市立宇和島病院泌尿器科にいた、山口大卒の北島啓一が院長になっていた鹿児島徳洲会病院(2000年)と廉介が勤務する岡山協立病院(2001)が加わった。2004年4月に男が、市立宇和島病院から新設の宇和島徳洲会病院に移籍すると、ドナー施設は、川崎医大川崎病院(2006)、香川労災病院(2006)、備前市立吉永病院(2006)が加わり、7施設に拡大した。
 しかし「第三の移植」の道は順風満帆ではなかった。行く手には暗雲が立ち込めていた。(続)
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