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廃校を巡る

風雪に耐えた美しい木造校舎。小さな空き地にポツンと二宮尊徳。
錆びたブランコに、朽ちかけた百葉箱。廃校ノスタルジア…。

奥会津 昭和村 野尻小学校

2014年09月05日 12時30分43秒 | 福島の廃校
昭和村 名前の如く昭和2年に野尻村と大芦村が合併して誕生した村です。
ここ昭和村には会津を代表する美しき木造校舎、喰丸小学校が有名ですが、
取り壊されるという話が出ては消える状態なので、
いつまで残るかは判りません。
本来はもう取り壊されている頃ですが、たまたま映画のロケに使われたことも有り
しばらく延命している状態です。

そんな喰丸小学校から野尻川沿いを下ること7~8キロ。
道路沿いに不意に現れた野尻小学校の講堂。
校舎は取り壊されてしまったようですが、木枠のガラス窓の講堂はきれいに手入れされ残っています。
門柱には今だ「野尻小学校」の名板が掲げられています。

シーソ型の旋回遊具が錆び付きながらも現存していました。
廃校記念碑らしきものは確認できませんでした。

講堂に付帯して老人福祉関係の建物も有りますが、
学校時代のものではなさそうです。

沿革
大芦小学校の分校として創立
明治34年 野尻小学校として独立
昭和55年 喰丸小学校、下中津川小学校、大芦小学校、大芦小学校畑小屋分校と共に昭和小学校に統合







奥に見える建物は老人福祉関係の建物。色合いやデザインは学校時代のものに合わせてありますが新しいものです。





積雪による破損を防ぐため2メートルの高さまで板で補強された窓。
残念ながら中を見ることができませんでした。


南会津 下郷町 旭田小学校 中妻分校

2014年08月31日 10時48分06秒 | 福島の廃校
2005年閉校の中妻分校。
現在は払い下げられたか、貸与されているのか
「学びや ボッポ館」というアトリエになっていました。

御用の方はボタンを押してください。のボタンを押してみましたが反応無し。
オーナーの方がいれば中も見せていただけるとの情報があったのですが、
どうやら不在のようです。

窓からちょっと中を見ると当時の机もそのままで、
なかなかいい感じです。
オーナーの方の作品らしきものも見えます。

残念ですが次の機会を待ちましょう。









会津 金山町 玉梨小学校

2014年08月21日 10時03分10秒 | 福島の廃校
校舎は昭和13年築の木造2階建。
いやー、美しいですね。
スイスのアルプス山岳地帯に建つホテルの様な佇まい。
会津の豪雪地帯で戦前の木造校舎がここまで美しく保たれているのは奇跡。
昭和13年の建築とは思えないモダンでヨーロッパ風のデザインがお洒落です。

1977年に廃校になっていますが、
現在は金山町の自然教育村会館として研修や合宿ができる施設になっているようです。
訪れた日も合宿の学生が泊まっているようでした。

これだけの木造校舎を美しく維持していくのは大変でしょうが
ぜひとも末永く保存してもらいたい物件ですね。



















南会津 只見町 只見小学校 蒲生分校

2014年08月12日 12時50分20秒 | 福島の廃校
只見町の国道252号線沿いをクルマで走っていて、たまたま見つけた学校跡。
国道横にはJR只見線が走っていますが、2011年の豪雨によって橋梁が流され今だ不通区間となっています。
鉄路には夏草が生い茂りつつあります。このまま廃線になってしまうのでしょうか。

ポツンと講堂だけ残された学校跡。
廃校記念碑らしきものもなく学校名も判りません…。

校庭の隅で何やら作業をしているおじいちゃん発見。
少しお話を聞いてみましょう。

「こんにちはー。昔の学校跡を見て回っているのですが、ここはなんて言う学校だったんですか?」
「ここには小學1年から小學6年までいたんだ」

「何年ぐらい前まで有ったんですか?」
「今は工場になっている」

ちょっと会話がかみ合いませんが、
どうやら小学校の後で20年ほど前に無くなったようです。
最初、遠くから見たときは70歳代のおじいちゃんと思ってましたが、
近づくと90歳代近いおじいちゃん。
耳は遠そうですがかくしゃくとしておりました。
ありがとうおじいちゃん。

帰って調べたところ1976年に閉校になった
只見小学校蒲生分校であることが判りました。
20年どころか40年近くたって経っていました。






南会津 田島町 長野小学校

2014年08月11日 10時30分56秒 | 福島の廃校
会津の廃校巡りはまだまだ続きます。
会津鉄道沿いの田島町 長野小学校は現在「長野林業研修センター」の看板を揚げています。

国道沿いには今もたくさんの製材所があり林業が盛んな地域です。
何しろ木材を摘んだボンネットトラックが現役で走っています。
間違いなく昭和40年代のトラックと思われます。

そんな、林業の盛んな町の「長野林業研修センター」。
正しいチェーンソウの使い方に木材の運搬方法など研修しているのでしょうか。

昭和50年の閉校ですが施設はとてもきれいなので、
かなり手を入れられたか、一部は増築されているのかもしれません。
林業関係の記念碑はたくさん建っていましたが、
廃校記念碑など学校関係のものは確認できませんでした。

校庭はわずかにウンテイに野球のバックネットが残っています。
校庭のすぐ脇に会津鉄道が走っていて、
この日は夏休み用の特別列車なのかトロッコ列車が走っていました。
昭和40年代までは蒸気機関車、C11が走っていた会津鉄道。
校庭からの姿は迫力が有ったでしょうね。















南会津 下郷町 楢原小学校中山分校

2014年08月07日 12時20分39秒 | 福島の廃校
南会津下郷町の楢原小学校はかつて7つの分校を持っていました。
今回の廃校巡りで栄富分校と中山分校が確認できたので
残りは1961年に閉校になった宮山分校のみ。
どうやら、今までもっとも奥の分校と思っていた戸赤分校のさらに先に有ったようで、
再調査が必要です。

で、今回訪れた中山分校は中山峠を越えて大内宿に向う旧下野街道(日光街道)沿いにあります。
1993年に休校となり、2005年に閉校になっています。
木造の校舎には「なかやま古民具館」の看板が掲げられていますが、
使われている様子はありませんでした。

小学校につきもののブランコや鉄棒などの遊具もありませんでした。
桜の木も切り倒してしまったのか切り株しかなく、
何となくサッパリとかたずけた感があります。
わずかに小さな椅子の残骸が小学校であったことを教えてくれます。

学校横には旧街道の名残の一里塚がありました。


楢原小学校宮山分校(1961年12月閉校)
楢原小学校栄富分校(1966年閉校)
楢原小学校三ツ井分校(1970年閉校)
楢原小学校豊成分校(1979年閉校)
楢原小学校弥五島分校(1979年閉校)
楢原小学校中山分校(1993年休校 2005年閉校)
楢原小学校戸赤分校(1999年休校 2005年閉校)












南会津 田島町 栗生沢小学校

2014年08月06日 10時47分51秒 | 福島の廃校
かつての会津中街道の宿場町 南会津栗生沢(くりゅうざわ)
この地区の歴史を調べてみると平家の落人伝説や、
隠れキリシタンの伝説など興味深い話がいろいろと出てきます。

栗生の由来もクリスチャンのクリスの日本語表記である栗栖・栗須・栗巣などから派生したようだ。
また、隠れキリシタンとして生きるためあえてキリストの裏切り者のユダを名乗ったらしく、
ここ栗生沢でも湯田姓が多い。
また、集落にはお寺がなく、お彼岸の供養をする風習もないようです。

会津の旧田島町にある南山鴫山城にはキリシタン大名の蒲生氏郷の姉が嫁いでいるようで、
会津におけるキリシタンの歴史を探るのも面白そうですよ。

そんな会津栗生沢にある栗生沢小学校。
数年前の航空写真を見ると木造らしき校舎はそのまま残っているようです。
期待を胸についた場所は、スコーンと空き地が広がるばかり…。

うーん残念、最近になって取り壊されてしまったようですが、
校庭の真ん中にはまるで現代アートのオブジェのように机と椅子が並べられています。
山の緑と夏空、何ともシュールな風景です。

机や椅子以外には朝礼台にブルーの平均台、それに体育用具入れらしき小屋が残っています。
校舎が有ったらしき場所には真新しい観測機器。どうやら放射線のモニターのようです…。
廃校記念碑などは確認できませんでした。

石の階段の隙間からはナラや松の木が芽を出し始めています。
後何十年もするともとの林に戻るのかもしれません。

昭和40年4月 田島小学校の栗生沢分校から田島町立栗生沢小学校として独立
平成6年3月 田島小学校統合のため閉校


校舎は取り壊されても学校名が入った門柱は無事でした。



かつての校舎の玄関に続く階段とシンボルツリー。



ベルナール・フォコンの写真の様なオブジェ






モニタリングポスト。やはりここは福島だと再認識させられます。












南会津 下郷町 旭田小学校大松川分校

2014年08月05日 09時37分53秒 | 福島の廃校
猛暑の中の会津廃校巡りは続きます。
体力を消費した後の昼ご飯は会津名物ソースかつ丼と決めてます。

頭に浮かぶソースかつ丼(大盛り)を振り払いつつ、
目的の下郷町立旭田小学校大松川分校に到着です。

道路から高くなった場所に緑の屋根が見えていますので探すのは楽でした。

下郷町立旭田小学校大松川分校は平屋建ての木造校舎なので、
一見すると閉校から数十年経っているように思えますが、閉校したのは2004年春。
まだ10年しか建っていません。

しかし、盛夏の校庭には雑草が生い茂り遊具類をを飲み込み始めています。
国旗掲揚塔、ウンテイ、ブランコなど一通り残っていますが二宮像は確認できませんでした。
会津の学校跡にはあまり二宮像が残っていないのは何か理由があるのでしょうか。

二宮訓より会津の什のおきての方が強く人々の心に残っているのかもしれませんね。
「ならぬものはならぬのです」

では、ソースかつ丼屋にGO。

























南会津 下郷町 楢原小学校栄富分校

2014年08月04日 14時25分34秒 | 福島の廃校
誰ですか、今年はエルニーニョの影響で日本では冷夏になりますとか言ってたのは。
標高800Mを超える南会津でも34度ですよ。
クラクラする猛暑の中見つけたのは楢原小学校栄富分校。

旧宿場町倉谷宿にある廃業した造り酒屋産の前の路地を入ると
思いがけず美しい木造校舎が出迎えてくれました。

閉校したのが昭和41年(1966年)ですからかれこれ半世紀が過ぎようとしています。
地元の集会所として利用されているようですが、
一部サッシに替えられていますが、木枠の窓も残っています。

赤いトタン屋根が山の緑と青空に映えます。
50年近い歳月が経ってこの保存の良さは素晴らしいですね。
校庭にはタイヤ飛びが残っています。
このタイヤを飛んでいた子供もすでに還暦になっていると思うと感慨深いですねぇ。

閉校記念碑が残り裏側には沿革が刻されていますが、
統合先の楢原小学校のHPの沿革と弱冠違いがあります。
明治から昭和にかけてかなりの統廃合が繰り返されていますので
正確には判りかねますが。ここ倉谷村に明治6年7月、松庵寺に開校された当校が一番歴史が古そうです。
最終的に楢原小学校の分校として本校に統合されますが、
歴史的にこの地域で最古の学校のようです。

真夏の午後に出逢った蜃気楼の様な学校でした。

ちなみに1時間近く学校跡や集落をウロウロしていましたが、
誰にも会うことはありませんでした。

















南会津 下郷町 江川小学校高陦分校

2014年05月07日 19時29分10秒 | 福島の廃校
会津の廃校巡りの最後は、下郷町 江川小学校高陦分校。
はっきり言って読めませんでした。
「たかしま」って読むんですね。
国道118号線沿いの高陦集落のほぼ中央に校舎もしっかり残っていました。
さほど大きな集落ではないので、閉校時の児童数はかなり少なかったと思われます。

廃校記念碑などはありませんでした。
詳しい沿革なども判りませんが、
2005年に江川小学校に統合されたようです。
その江川小学校もHPを見ると児童数55名です。