廃校を巡る

風雪に耐えた美しい木造校舎。小さな空き地にポツンと二宮尊徳。
錆びたブランコに、朽ちかけた百葉箱。廃校ノスタルジア…。

福島県 会津若松市 原小学校

2015年06月16日 13時04分46秒 | 福島の廃校
茨城から会津若松へ向かう茨城街道沿いの廃校を何校か見てきました。
茨城街道は今でも宿場町の雰囲気がある集落が多い。
宿場の始まりと終わりには今でも常夜灯が有り、
石仏や道祖神なども良く残っていて街道歩きが好きな方も楽しめそうです。

訪れた原小学校は何回か増築されたらしい木造校舎に講堂が残っていました。
ごく最近校庭は除草されたらしく定期的に管理されているようですが、
校舎はかなり痛みが進んでいます。
屋根や壁の一部はかなり痛んでいて一部崩落しています。

何回もの増築を繰り返した、タイプの違う校舎が並びます。



記念碑に刻された遠距離通学児童のために寄宿舎として利用された東校舎か?
だとすると昭和16年、戦前の建物になります。
破れた下見張りの下はワラを練り込んだ土壁。





立派な記念碑には校歌に沿革が刻されています。
平成6年まで冬季季節分校があったようです。
分校跡も確認したいですね。



明け放たれたドアから中を覗くとかなり荒れた感じです。
床も一部崩落。







教室はまだきれいに保たれています。跳び箱が郷愁を誘います。





奥の建物が東校舎。





講堂にバックネット。遊具類も残っています。







いい感じの講堂のドア







原小学校沿革 記念碑より抜粋

明治6年6月  湊全村を学区として東海山観音寺に原小学校開校
明治20年3月 学制改革により共和尋常小学校の分教場となる
明治26年5月 原尋常小学校として分離独立
明治35年1月 田代・高坂に季節分教場を置く
明治41年11月 校舎をこの敷地跡に新築移転
昭和16年4月  国民学校令により湊村立原国民学校となる
昭和16年11月 遠距離通学児童の寄宿舎として東校舎を増築
昭和23年3月 田代・高坂分校が常設分校となる
昭和30年1月 市町村合併により会津若松市立原小学校となる
昭和46年3月 田代・高坂分校が冬季分校となる
平成6年3月 田代・高坂分校が廃校となる
平成11年3月 湊地区小学校の統合により閉校となる 開校以来の同窓生1639名を数える

福島県 古殿町 大久田小学校高房分校

2015年06月05日 14時37分12秒 | 福島の廃校
古殿町 大久田小学校高房分校。
訪れた時、近所の飼い犬がノーリードで放し飼い状態。
激しく吼え立てられちょっと恐怖を感じるほど。

かなりの山の中なので番犬の意味もあって飼っているのでしょうが、
ノーリードはやめてもらいたいですね。

廃校記念碑等は確認できず、沿革もわかりませんでしたが、
石の門柱の建立が昭和49年、創立20周年記念と有るので、
創立は昭和29年前後と思われます。
木造の歴史を感じさせる校舎なので戦前からあるものかと思いましたが
意外に戦後の創立のようです。
本校に統合されたのが1995年。

校舎には「高房青少年自然の家」と看板がかかっているので活用されているようです。
ここも校舎横に職員住宅が併設されています。
住まいと職場が渡り廊下でつながっているのでギリギリまで寝ていられそうです。
でも学校の隣りではちょっと落ち着かなさそう、
こっそりAVなんか見られる状況ではありませんね。

校庭のすみに、平成2年NHK全校音楽コンクール課題曲の碑が建っていました。
合唱で入賞したのかもしれません。
合唱コンクールに参加できるぐらいの児童がいたのでしょうね。


市街地からはかなり離れた場所ですが学校横には酒屋さんがありました。
放し飼いの犬はたぶん酒屋の犬。
廃校巡りをしていると山の奥まで探索に行きますが、
最後まである公共施設は郵便局。そして最後の店は100%酒屋です。



唯一沿革を知る手がかりになった門柱建立の記念プレート。



平成2年度の音楽コンクールの記念碑。



堂々とした佇まい



教員住宅完備。新婚の先生とかもここに住むのでしょうか。



学校と教員住宅をつなぐ渡り廊下











福島県 鮫川村 富田小学校

2015年06月02日 12時03分43秒 | 福島の廃校
福島県鮫川村を訪れるのは初めて。
目的の古殿町へ向かう途中で見つけた廃校。
鮫川村立冨田小学校。

鉄筋2階建てのコンクリートの校舎ですが、
とても6クラスあったとは思えないので、
元々が複式学級を想定して作られたのでしょう。

震災後、福島県の廃校跡にはお決まりのモニタリングポストがここにも有りました。
建物自体は荒れた感じはしないので地元で利用されているようです。

閉校記念碑に朝礼台が有りますが
遊具の類は見当たりませんでした。

校庭を挟んで木造の講堂が有ります。
窓もサッシではなく木枠の窓です。

鮫川村立冨田小学校沿革 閉校記念碑より

明治11年8月 西野小学校富田出張所として東光院を校舎として開設
昭和25年   鮫川村立冨田小学校として独立
昭和53年   鉄筋2階建校舎新築
昭和54年   創立100周年式典挙行
昭和60年   体育館竣工
平成15年3月 閉校

道路脇にあった朽ちかけの門柱を見逃しませんでした。



石の校名版も現存。閉校記念碑は別に有るので現役時代から有る物でしょう。



コンパクトな校舎



学校跡のモニタリングポストも見慣れましたが…



草に飲み込まれつつある閉校記念碑
何とか裏に刻された沿革を確認



朝礼台も残っています



美しい木造の講堂








福島県 矢祭町 東舘小学校 追分分校

2015年06月01日 14時41分55秒 | 福島の廃校
しばらく校舎が残る廃校跡をアップしていなかったので、
福島県の何校かを見てきました。
梅雨前の最後の快晴の日曜日になるかもしれないので、
急遽出かける事にした次第。

まず訪れたのは矢祭町東舘小学校追分分校。
通り沿いに現役校なみにきれいな門柱が残っていました。
しかし、学校跡までの道は舗装されておらず登山道のおもむき…。
道沿いにはちょっと旬を過ぎた山独活やワラビが生えています。
もう少し早ければ山菜狩りができそうです。

しばらく歩いて道が開けると小さな分校が待っていました。
教員住宅が併設された校舎の他、
サッカーゴール、鉄棒、手作りらしいバスケットゴール、
朽ちていましたが百葉箱も有ります。

校庭だった場所にはアヤメが進出し花を咲かせていました。
中を見ると10年3月の行事予定の黒板がそのまま残され、
卒業式や終業式の予定が書かれていました。
閉校式の予定が無いのはしばらくは休校扱いだったからです。
平成10年から休校し平成17年に廃校になっています。
最終の平成9年度の児童数は3名。

この門柱が無ければまず見つからなかったでしょう。



門柱の先はすぐにこんな山道。うぐいすがやたら近くで鳴いています。



不安になりそうになる頃、急に道が開けて校舎が現れました。
手前は教員住宅、三部屋ほど有りました。平成9年の休校時まで使われていたのでしょうか。





百葉箱は朽ちていました。



サッカーボールかバレーボールか?



手作りらしいバスケット。



昭和55年の終了記念の作品。8名の子供達が描かれていました。



行事予定を書く黒板はそのままでした。



3月31日の日付のまま止まっています



校庭はアヤメが咲き誇っていました。









福島県 いわき市 田人第二小学校 南大平分校

2014年11月26日 18時23分52秒 | 福島の廃校
田人、ちょっと変わった印象深い名前に惹かれて訪れたのは8月の下旬。
古い地図を見ると「旅人」という地名も出てきます。
なにやらロマン溢れる地名です。

目指したのは、田人第二小学校南大平分校。
閉校になってわずか半年ですが、なかなか美しい木造校舎と講堂が残っているとの情報。
夏の終わりにいい感じで写真が撮れるかと思って出かけたのですが、
訪れると何やらイベントが開催されています。

駐車場整理のおにいちゃんに誘導されるままに学校跡に入ってみると、
「ART MEETING 2014」なるアート系のイベントが開催されていました。
美大生の作品やパフォーマンス、手芸作家の手づくり雑貨なんかが売られてます。
最近よくあるマルシェぽい感じですかね。

ART系の立体作品やビデオ作品はFUKUSHIMAということも有ってか、
反原発のメッセージの作品が多かったです。
やはり福島はいまだに原発事故は進行形です。

そんなわけで、イベント開催のおかげで校内の見学ができたのは良かったのですが、
ちょっと騒がしく、落ち着いて見ることは叶いませんでした。

いわき市の田人地区では今年の3月に
石住小学校
田人第一小学校
田人第一小学校荷路夫分校
田人第二小学校
田人第二小学校南大平分校
貝泊小学校
以上の4校の小学校とその分校2校が統合され、新たに田人小学校になりました。



なにやら癒し系のヒーリング音楽に、自然志向のナチュラル大好き女子のマルシェ。
どちらかと言えば苦手なイベント。









いかにも美大生的な作品や反原発を意識した作品が目につきます。




昭和37年の卒業記念の鏡に昭和63年度の卒業記念の制作物。
昭和63年度で卒業生が2名だったのでしょうか。
ある意味、よく今年の春まで続いたものです。




閉校から間もないからか、備品関係はそのままのようです。







やがて校歌も忘れ去られる…。





南会津 只見町 明和小学校 布沢分校

2014年11月21日 18時52分02秒 | 福島の廃校
奥会津の只見町は調べただけでも12校の廃校があり、
いずれまとめて廻ろうとしていましたがなかなか場所の特定もできずにいます。
しかも、これからの季節豪雪地帯の只見町、来年の春まで行けそうにありません。
そんなわけで、あまり記憶が薄れないうちにレポートしておきます。
と言っても1年以上前ですが…。

去年の7月に訪れた只見町立明和小学校布沢分校。
現在は「森林の分校ふざわ」として、山村くらしの宿泊体験ができる施設になっています。
訪れた時は登山客らしい方が宿泊していました。

管理している年配の方は地元の方らしく、
当時の話を聞くことができました。
分校は多くても20人ほどの児童数だったようで、
冬の雪は今ほど除雪がすすんでいなく、子供にとっても大変だったようです。
いきなり訪れたにもかかわらず、お茶を入れてくれた上詳しい話まで伺えて感謝感激です。

明和小学校沿革
明治6年7月  梁取村に寺院を借りて創立
明治7年7月  小林村に移転 小林小学校となる
明治19年12月 小林簡易小学校となる 二軒在家分教室 熊倉分教室設置
       布沢に布沢簡易小学校設置
明治23年3月 小林尋常小学校と改称 布沢簡易小学校は布沢分教室に、熊倉分教室は分離し朝日尋常小学校になる
明治30年4月 小林尋常高等小学校に改称
昭和18年4月 小林国民学校に改称
昭和28年10月 吉尾分校設置
昭和30年7月 明和村と只見村合併により只見村立明和小学校に改称
昭和34年8月 只見町立明和小学校になる
昭和38年4月 二軒在家分校統合
昭和44年4月 吉尾分校を布沢分校に統合
昭和48年3月 塩ノ岐冬季分校廃止
昭和57年3月 布沢分校閉校 本校に統合

ざっと沿革を見ただけでも
二軒在家分校 熊倉分校 吉尾分校 塩ノ岐冬季分校と他に4つの分校が有ったことが判ります。
古い地形図と照らし合わせる楽しみが増えますねー。






ピンぼけの上光りがハネてますがご容赦。
当時の子供達の写真を見せてもらいました。
和服の子供達もいますので昭和初期の頃でしょうか。





奥会津 昭和村 大芦小学校

2014年10月24日 17時06分34秒 | 福島の廃校
奥会津 昭和村の廃校巡り。
校舎が残っていないのは判っていましたがとりあえず行ってみましょう。

喰丸小学校と同じく1980年に統合により閉校しています。
大芦集落の中程に開けた空き地が廃校跡のようです。
学校建築の記念碑が残っていました。
昭和4年3月起工、昭和5年9月竣功と刻されています。
閉校になるまで地域の中心として人々が集っていたのでしょうね。

ブランコがありましたが、これは後から設置されたもののようです。
シンボルツリーに桜の木が残っています。
8月の夏空の下、何となくカラッとした乾いた感じの学校跡でした。






南会津 田島町 永田小学校

2014年10月20日 18時54分14秒 | 福島の廃校
バタバタと仕事に追われ廃校巡りもままならず。
8月の会津廃校巡りの蔵出し物件です。

いつの時代も学校にまつわる怪談話は事欠かない。
トイレの花子さんに始まり、音楽室のバッハの肖像画の目が動く話や、
夜中に人体模型がさまよう話など学校の怪談話は多い。

まぁ、どれも「うわさ話」の域をでないのだけど、
ワタシは実際、昭和46年の小学3年生の時、
おぞましい「血染めのオルガン」を目撃しているのです。

ある日学校に行くとクラスはパニック状態に…。
なんと、教室にあるオルガンの鍵盤が真っ赤な血で染まっているのです。
白い鍵盤に赤い血。
かなりのオカルトチックな光景に泣き出す女子もいます。
先生を呼びに行くも、先生もパニック状態…。
教頭先生まで出てくる有様。

しかし、原因はあっさり解明。
前日の放課後にオルガンを弾いていた女子がいきなりの鼻血ブー。
慌てて鍵盤に落ちた血を拭おうとするも増々鼻血は酷くなり、
やむなくそのまま保健室に…。
どうやらそのまま帰宅。
残されたのはおぞましき「血染めのオルガン」。

その後女の子は当然「鼻血」と呼ばれるはめに…。


前置きが長くなりましたが今回は「ウォーキング ニノ」。
夜な夜な校庭を歩き回る二宮像がいる廃校跡です。

ここ南会津町(旧田島町)の永田小学校は
1974年に田島小学校に統合され閉校しています。
跡地には「永田林業研修センター」が建っています。
閉校記念碑など当時を知る手がかりもありませんが、
昭和27年に建立された二宮像が残っています。

しかしこの二宮像学校の敷地の外、
道路沿いに建っています。
わざわざ道路沿いに建てたのか、あるいは閉校後何らかの理由で移動したのか。
それとも夜な夜な、無くした論語の本を探し彷徨っているのか…。


これがウォーキングニノだ。







やはり南会津は林業の町。廃校跡が林業関係の施設になっていることが多いですね。


遊具はあれど最近の物のようです。



このローラーだけは当時の遺物の様にも思えます。




奥会津 昭和村 喰丸小学校 再訪

2014年09月14日 17時13分31秒 | 福島の廃校
奥会津 昭和村の廃校を巡っていて、ここに立ち寄らないわけにはいきません。

何度となく取り壊しの話が出ては消えてゆきますが、
いつ解体されてもおかしくはない喰丸小学校。

最近人気の西島秀俊や倍賞千恵子が出演した映画「ハーメルン」のロケで使われたのも
解体が先延ばしになった一因でしょう。
映画は見てないので機会があれば是非見てみたいものです。

訪れるたびに少しずつですが痛みは酷くなっていますが、
まだまだ美しさは残っています。
校舎の裏側の屋根にはブルーシートがかけられています。
豪雪地帯ですので冬の雪はかなり校舎にダメージを与えているようです。

一度は冬に訪れてみたいものです。
















奥会津 昭和村 下中津川小学校

2014年09月12日 19時43分14秒 | 福島の廃校
奥会津 昭和村にとって1980年(昭和50年)は
6つの小学校と分校が閉校になった年。
全て統合されて昭和小学校となりました。

取り壊しの話が出ては消えて、どうにか解体を免れている喰丸小学校をはじめ、
何校かは校舎や講堂が残っています。

会津を学校跡を歩いていると、
校舎は取り壊されても講堂だけは残っていることが多いのですが、
ここ下中津川小学校も講堂だけは残っていました。
学校跡地は村唯一の保育園、昭和村保育園が建っています。
その敷地の脇にひっそりと当時の姿をとどめた講堂が有ります。
保育園の体育館として使われているのかもしれません。


1980年昭和村立昭和小学校に統合したのは以下の6校のようです。
喰丸小学校見沼冬季分校と大芦小学校畑小屋分校はまだ場所の確認もできていません。

喰丸小学校
喰丸小学校見沼冬季分校
野尻小学校
下中津川小学校
大芦小学校
大芦小学校畑小屋分校