Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

ペリリュー島の戦い

2017-01-10 21:51:49 | Weblog

 正月休みの間、本を読むことに充てた。最近あまり読むことがなかったので時間をかけて読んでみようと思った。そのきっかけは日本の近代史について余りに知らなさすぎることが多いことを感じたからだ。明治維新後、西欧列強を手本に、富国強兵の国を目指して動き出した日本が何故日清、日露戦争を経て中国を侵略し、太平洋戦争に突入していった過程を知りたかったからである。昔習った日本史は明治時代以降の歴史はやらなかったのか、それとも忘れてしまったのか史実の継続性は今一分からなかった。そんなことから日本の近代史を読んだ。

 3冊ほど読んだが、その中で太平洋戦争の悲惨さに愕然とさせられた。世界の情勢を分析するなら絶対に行ってはいけない戦争であったがそれも出来ず、その上今までに築き上げてきた統制された軍律はどこえ行ったのか、軍部は国民をだまし続け、その上、一枚岩でなければならない陸軍、海軍の思惑の違いも露呈し、また司令部と戦場との意思の確認されないまま、突き進み多くの兵士の屍の山を築いていった。無駄死となった英霊に対し申し訳ない気持ちでいっぱいになる。特に4年以上続いた戦争も開戦から6か月後のミッドウエー海戦で大打撃を受け、その後はガダルカタル、硫黄島、沖縄戦と続き、終戦(1945年8月)までの全ての戦いで大打撃を受け続けた。日本は開戦から100日間の栄光でしかなかった。

 この戦いの中であまり知られていない激戦地があった。それは1944年9月から70日間以上も続いたペリリュー島の戦いであった。この島はパラオ諸島の一つで珊瑚礁で出来た島であった。この島を取り囲んだアメリカ軍の司令官は長くて4日で殲滅すると云ったが、2ヶ月半の激戦を繰り広げ約11000名の日本軍は弾薬もつき玉砕していった。対するアメリカ兵は約50000名と、膨大な兵器、それに制空権、制海権を制した中で戦いであった。アメリカ軍の被害は戦死者2400名、戦傷者8500名、精神に異常を来した者数千人であった。この日本の戦術は地下にトンネルを掘りゲリラ戦のようなものであった。

 この戦いは、その後の硫黄島の戦い、沖縄戦に生かされたが、既に如何に戦っても勝ち目のない戦であることは明白であった。「日本男子軽んずべからず」との思いだ。この島に伝承されていることがある。島には現地住民が数千人いた。戦況が日本に不利となった時、現地住民から「一緒に戦わせてほしい」と日本の兵隊長に進言した。しかし「帝国軍人が貴様らと戦るか!」と激昂され、見せ掛けの友情だったのかと失意の中、島を離れ船に乗り込んだが、船が離れる瞬間、その隊長を含め日本兵が手を振って浜を走り出した。その若者はその時、隊長が激昂したのは自分達を救うためだったと悟った。島民の死者、負傷者は0名であった。パラオの国旗は、日本の白地に赤をまね、青地に黄となっている。これは青い海と月を表している。これは日本隊と親密であったことの証である。今上天皇及び皇后美智子は2015年4月8日から9日にかけパラオを訪問し島の南端に建設した「西太平洋戦没者の碑」に参拝した。

 


法多山へ初詣

2017-01-04 22:51:47 | Weblog

 正月三が日帰省していた2人の子供達は帰って行った。別に疲れたわけではないが今日はゆっくり過ごそうと思ったが、朝食時、妻が遠州の法多山へ初詣に行こうと云った。最近初詣は市内柚木の護国神社に行くのが定番になっていたが今回は法多山にした。以前は初詣と云えば法多山に家族でいくことは常であったし、それも何故か1月15日の成人の日が多かった。そこには成人式帰りの晴れ着姿の若い人が参拝に来ている姿を思い出した。確か10年ぶりぐらいとなるが妻に急がされ午前11時頃自動車で出かけた。

 東名高速道路は、大きな渋滞もなくスムースに流れ掛川のインターには12時を少し回ってころに出た。そこから5分も走ると法多山へ行く自動車の渋滞が始まっていた。距離にして3kmほどであったがのろのろと動き着いたのは13時を回っていた。いつもの光景であるが参道は人が溢れ、行き来する人の列は本堂まで続いた。その参道も以前きたころに比べ全てが整った感じに見えた。この袋井の片田舎にある法多山にどうしてこのように人が多いのかと思った。法多山は高野山真言宗の別格本山で神亀2年(725年)聖武天皇の勅命を受け行基上人が、この地に自ら刻んだ本尊正観音菩薩を安置したのが始りとのことであった。その後の天皇の勅願あつく、中世以降は豊臣、徳川等の武将の信仰を得て栄えた。特に徳川家康公より5万石の格式をもって遇せら、それが今日まで続いているとのことであった。多くの寺が盛衰の中で今日に至っている由縁であった。

 新しくなった本堂内に上がり、読経と護摩が焚かれる中で家族4人の安全祈願をしお札を貰ってくることにした。丁度良い時間であったのか、お札を貰うまで1時間以内であった。護摩供養のとき奉納者の名前と年齢が読み上がられるが私の名前は20番目ぐらいであった。そこまで聞いたが私より年齢が高い人はいなかった。確かに長い参道を歩き、そこから100段近い階段を登っての参拝は老人にはきつかったが、見渡すと働き盛りの若い人が多いことを感じた。それを済ませ名物厄除け団子を食べたが、これも以前と変わらない光景であった。そこで3個団子のみやげを買って駐車場まで歩いた。往復約2.5kmほどの行程であったが大変であったとの印象はなかった。

 帰りの参道の屋台でたこ焼きを買い、15時を回っていたが遅い昼食代わりに食べた。妻は夕食は丁子屋のとろろを食べたいと云ったので、そのまま自動車を走らせ静岡まで帰ってきた。家に着く前に菩提寺の帝釈寺で墓参りを済ませ、そのまま瀬名の妹のところに厄除けの団子を届けた。そのまま鞠子の丁子屋行く予定であったが、夕方になり道路は混んできたことから、静岡駅コンコースにある府中庵待月楼に変え食事をすることにした。とろろも美味しかった。


今年の干支を考える

2017-01-03 23:03:27 | Weblog

 毎年のことで年の初めに、この年の干支を考えるのが常になっている。これはY著書の「干支の哲学」を読んでからで、この確率は高いように感じている。干支は暦の学問で、中国殷の時代にさかのぼり、その支配者、指導者達が年頭の正月一日に過去の実績を照らして、一年の生産活動と、それに伴ういろいろの注意を予告することから易学が生まれたとある。世の中の出来事、変化、推移を干支六十の範疇に分けて、経験的に結論を出したことが始まりと云われている。

 干支は、甲、乙、丙、・・・壬、癸の10干と、子、丑、寅、・・・戌、亥の12支を組合せ60年を一サイクルで巡り回ってくると云う考え方で、干は幹に通じ、支は枝に通ずることから、10干が重要で、12支は枝葉と考えられている。私達は今年の干支は「酉」ということが多いが、これは少し間違いで幹のない枝のことを云っているようなもので、重要なのは、幹に当たる「丁」がどうであるかを考えることが重要です。正確に言うなら今年の干支は「丁酉」(みずのえとり)であり、これを正しく把握することが干支を知る基になると思う。そこで今年の干支(丁酉)を歴史的、経験的に考えることにする。

 まず干は「丁」(みずのえ)を分析する。この字の横の一は、昨年から引き続いているエネルギーを表していて、縦のJは、今年芽生えた新しいエネルギーのことです。このことから今年を占うと、昨年から続くエネルギーと今年から新しく芽を出したエネルギーとのせめぎ合いが続く年と予想します。これは昨年とは違った新しいエネルギーが台頭してくる年で、このエネルギーが世の中が良くなるように導くのが、為政者、指導者が、心して取り組む重要なこと考えます。また支の「酉」(とり)は酒甕を表し、甕の中にたまっている麹が醗酵する様を表す象形文字で、中に醸された新しい勢力が爆発、蒸発し、新しい勢力を造ることを表しています。以上のことから今年の干支は不安定な年と云えますが冷静且つ慎重な対処によって道を開いてほしいと思います。

 因みに同じ干支(丁酉)である120年前の1897年(明治30年)と60年前の1957年(昭和32年)の出来事から考えると、明治30年は、明治27年日清戦争に勝利し、日本の強さが証明されたとは言え、奪った領土も、三国干渉によって一部領地を返還させられ、世論は不満が高まっていった時代です。ここに軍国主義の拡張の流れが出来、明治37年日露戦争に進んでいったと判断されます。また昭和32年は、岸内閣が成立し、アイゼンハワーとの首脳会談が行われ、日米新時代に進んでいった年です。また東海村原子力研究所で初めて原子炉に点火したのもこの年ます。以上のことから時代の分岐点となるのが「丁酉」の年であり目先のことにとらわれず先見の明をもって対処することが必要と考えます。