正月休みの間、本を読むことに充てた。最近あまり読むことがなかったので時間をかけて読んでみようと思った。そのきっかけは日本の近代史について余りに知らなさすぎることが多いことを感じたからだ。明治維新後、西欧列強を手本に、富国強兵の国を目指して動き出した日本が何故日清、日露戦争を経て中国を侵略し、太平洋戦争に突入していった過程を知りたかったからである。昔習った日本史は明治時代以降の歴史はやらなかったのか、それとも忘れてしまったのか史実の継続性は今一分からなかった。そんなことから日本の近代史を読んだ。
3冊ほど読んだが、その中で太平洋戦争の悲惨さに愕然とさせられた。世界の情勢を分析するなら絶対に行ってはいけない戦争であったがそれも出来ず、その上今までに築き上げてきた統制された軍律はどこえ行ったのか、軍部は国民をだまし続け、その上、一枚岩でなければならない陸軍、海軍の思惑の違いも露呈し、また司令部と戦場との意思の確認されないまま、突き進み多くの兵士の屍の山を築いていった。無駄死となった英霊に対し申し訳ない気持ちでいっぱいになる。特に4年以上続いた戦争も開戦から6か月後のミッドウエー海戦で大打撃を受け、その後はガダルカタル、硫黄島、沖縄戦と続き、終戦(1945年8月)までの全ての戦いで大打撃を受け続けた。日本は開戦から100日間の栄光でしかなかった。
この戦いの中であまり知られていない激戦地があった。それは1944年9月から70日間以上も続いたペリリュー島の戦いであった。この島はパラオ諸島の一つで珊瑚礁で出来た島であった。この島を取り囲んだアメリカ軍の司令官は長くて4日で殲滅すると云ったが、2ヶ月半の激戦を繰り広げ約11000名の日本軍は弾薬もつき玉砕していった。対するアメリカ兵は約50000名と、膨大な兵器、それに制空権、制海権を制した中で戦いであった。アメリカ軍の被害は戦死者2400名、戦傷者8500名、精神に異常を来した者数千人であった。この日本の戦術は地下にトンネルを掘りゲリラ戦のようなものであった。
この戦いは、その後の硫黄島の戦い、沖縄戦に生かされたが、既に如何に戦っても勝ち目のない戦であることは明白であった。「日本男子軽んずべからず」との思いだ。この島に伝承されていることがある。島には現地住民が数千人いた。戦況が日本に不利となった時、現地住民から「一緒に戦わせてほしい」と日本の兵隊長に進言した。しかし「帝国軍人が貴様らと戦るか!」と激昂され、見せ掛けの友情だったのかと失意の中、島を離れ船に乗り込んだが、船が離れる瞬間、その隊長を含め日本兵が手を振って浜を走り出した。その若者はその時、隊長が激昂したのは自分達を救うためだったと悟った。島民の死者、負傷者は0名であった。パラオの国旗は、日本の白地に赤をまね、青地に黄となっている。これは青い海と月を表している。これは日本隊と親密であったことの証である。今上天皇及び皇后美智子は2015年4月8日から9日にかけパラオを訪問し島の南端に建設した「西太平洋戦没者の碑」に参拝した。