Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

清見寺を訪ねて

2018-03-18 21:50:56 | Weblog

 興津の清見寺は東海道の急峻な薩垂峠の約1km西側、斜面に面したところに建つ寺である。寺の付近の地勢は、山、海に迫り、自然の要塞をなしている。寺伝では奈良時代の創建と云われ、当時東北の蝦夷に備えて、この地に関所が設け清美関と呼ばれた。その傍らに仏堂が建立して関所の鎮護したのが当寺の始まりであったとある。鎌倉時代の中期、関聖上人がこの寺を再興し、弘長2年(1262年)京の東福寺開山の聖一国師を招いて、諸堂の落成式を挙げています。当時は、清見関寺と称し、足利尊氏は深く崇敬し日本十刹に列し、山上に利生塔を建立し、戦没者の霊を慰め、経巻を納めた。

 また徳川家康は今川氏の人質として駿府に住み、当寺の住職太原雪斎に師事しここで勉強している。徳川時代の250余年の間2百余石の余朱印地を有し徳川一門の帰依を受けている。この時代、修交のため来朝した朝鮮通信使及び琉球̪使の接待がここで行われていた。明治維新後の神仏分離の宗教政策でも頽廃を免れ、明治2年と同11年には明治天皇の鳳輦を迎え、大正天皇が東宮の時代、しばしば御成りして滞泊している。これは眼下に広がる風光明媚な清美潟を見ながら海水浴したと云う。現在に至るも山門、仏殿、大方丈、大玄関、書院、鐘楼を有する大伽藍が高台に聳えている。

 清見寺を訪ねたのは3月18日でした。20年ほど前に仕事の帰りに寄にったことがあったが、庭にある五百羅漢像を見て、苔むす庭に佇む苦悩の表情をした石仏に足をすくませるような思いをしたのを覚えている。しかし、今回改めて拝見するとそれは現世を生きる人間のさまざまな表情に見えた。ここには多くの人が訪ねていて、徳川家康はもとより、豊臣秀吉、兼好法師、西行法師、足利義教、武田信玄、雪舟、芭蕉、北原白秋、与謝野晶子などの名士の痕跡があった。初めて伽藍を見学したが、仏殿には鎌倉時代、梶原景時一族が鎌倉から西国に逃げようと清見関において戦乱となりその血の痕跡が残っていた。書院には明治天皇が御成りになった玉座も整っていたをし、清水港で幕府軍の咸臨丸が政府軍のと闘い全員が玉砕したが、義に殉じた乗組員のため榎本武揚は「食人之食者死人之事」と書いた碑も残っていた。

 帰りに清見寺から眼下の海を眺めたが、以前は美しかった清見潟は今は埋め立てられ、東海道や東名高速道などで遮り見る影もない。しかし遠く見わたすと海を隔て、三保の青松と相対し右に清水港を眺め、左に遠く伊豆の連山を望むことが出来る。今でも素晴らしいが100年ほど前はもっと絶景であったろうと思った。それ故、この地区には明治時代の元老 井上馨、西園寺公望、伊藤博邦、松方正義などが別邸を建ち並び、当時この地区は心穏やかに余生を過ごすには格好の所であったものと思った。


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