雲と空  

日々のこと、相撲のこと。

満員御礼

2006-04-27 21:49:32 | ひとりごと
近所にディスカウント野菜のスーパーが開店しました。

開店セールということで激安なのではりきって行って来ました。

もやし   5円
キャベツ 58円
ピーマン 38円
たまご  48円
えのき2袋 58円 ・・・等々


あまりの安さに メニューは無計画に
とにかくとりあえず買ってしまいました。 

おかげで 冷蔵庫の野菜室は久しぶりの満員御礼状態。

ふ~っ。これでしばらくは買い物に行かなくていいかも?



ん?????


あ!!!!!


週末からGWだった・・・


きっと帰省するはず・・・・。  (まだチケットはとってないけど)



ど、どうするこの野菜・・・



つれあいは 今週は毎日夕飯いらないって言うし・・・

娘と二人でこれだけをやっつけるのか!?

          



が、頑張ります。  



じいちゃん

2006-04-27 17:55:21 | 愛すべき家族・隣人たち
サチ☆さんのところを読んでいたら うちのじいちゃんのことを思い出したので 思い出話を少し書くことにします。


うちのじいちゃんはずっと白ふんどしでした。
買っていたのか ばあちゃんのお手製なのか今となってはなぞです。
最後はオムツになりましたが それまではずっとふんどしを通しました。
たぶんパンツははいたことないと思います。明治生まれの頑固者です。

タンスの中には新品のふんどしが2枚くらいありました。
そのとき使っているのがかなりくたびれていたので 
新しいのを使うようすすめたのですが
「これは何かの時に使う!」と 頑なにとっていました。
「何かのとき」って何のときだろう???
勝負下着らしいです。


晩年は ひげをのばしていました。
口の周りに真っ白なひげがふさふさとあってサンタクロース風でしたが
本人は憧れの(たぶん)
「乃木大将のようにしているのだ」と言ってました。



じいちゃんは心配性でした。
私が妹と二人で暮らしていたときは 何かで連絡がつかないことが
2、3度続いただけで 
「まったく連絡がつかないがどうしてゐるのだ。これを見たら すぐに電話しなさい」
と はがきが届いたものです。
アメリカに行っているときは
「わけのわからぬ国なので十分に気をつけて 時がくればすぐに帰ってくるように。」
と手紙が届きました。
”わけのわからぬ国”って・・・・ 




よくしょーもない用事で呼び出されました。 
まぁ寂しいのだろうなと思い 車で30~40分かけていつも出かけてました。
すだれを付けてほしい、とか あまり得意でない用事のときは
そんなことは適任者(父:息子)が隣に住んでいるので
そっちに頼んでくれんかねーと ちょっと困りましたが。

ある日は 「時計をやる」と呼び出されました。
「たくさん持っとるけど わしはこんなにいらん。 少しおまえにやる。」
と 3つの腕時計を出してきました。
うち まともに動いているの1つだけ。
あとの2つは電池切れ、そのうえ表面にひびアリ・・・
まさか たった1つの動いているのをもらうわけにもいかないので
マシなほうのひびアリを1つもらいました。
「1つでいいんか? もう1ついいぞ」って言ってましたけど遠慮しました。
でも そのとき 一緒にばぁちゃんの形見の小さい小さいダイヤ入り指輪もくれました。
「ここに置いといたらそのうちどうなるやもしれん。(確かに 叔母はそういう人なので・・・) 
 今のうちにおまえにやっとく。」と。


呼び出されなくても たまには おかずをちょっとだけ持って
一緒に晩御飯を食べるために訪ねました。
当時じいちゃんのところには毎日ヘルパーさんが来ておかずを作ってくれていました。
ヘルパーさんの手料理はとても美味しかったです。
それなのに じいちゃんはいつも私が持っていったさして美味しくもないおかずから
手をつけてくれていました。
そのとき初めて この人意外と気を遣う人なんだ、と知りました。

たいしておしゃべりもせず 二人で相撲を見ながら
食べていたことが多かったような気がします。

そして いつも「わしはこんなに食いきれん。おまえみんな食え。」と
私にたくさん食べさせてくれました。私はいつもろくなもの食べてないと
思っていたようです。 (一応主婦なのに・・・
そして いつも遠慮なく食べていた私ですが ヘルパーさんは
まさか自分の手料理をこんな歳のいった孫が完食していたとは
知ったらびっくりしたことでしょう。




晩年は多少は穏やかになったじいちゃんも 私が子供の頃は
頑固でひどかったです・・・。

島根の隠岐の島から こちらに出てきて とある店に丁稚(かな?)として入り
修行後 自分でその商売を始めました。
商売上 車はどうしても必要なのですが
教習所の教官と喧嘩してすぐにやめてきたそうです。
あぁ どんなひどい喧嘩をしてきたか 想像できそうです。

その後 息子である私の父が18歳になり免許をとるまでは
ずっと 二人で自転車を使って配達をしていたそうで
それはもう大変だったと思います。

店では よく近所の人と将棋をさしていました。
勝負が佳境に入ると お客さんが来ても
「あんた、ちょっと待っとき」と長時間待たせてたようです。
電話の応対もひどく かかってきた電話に
自分の名前は名乗らず まずは「あんた 誰ね?」  
商売人とは思えないこの応対・・・

それでも まぁまぁ どうにか食べていけていたのですから
そういう時代だったんでしょうね。
あとは まわりの親切な人々にずいぶんと助けてもらったんだと思います。


じいちゃんは ビビリ屋でほんのちょっとしたことでも不安になるので
病院にはよく行っていました。
頭がかゆい とか 膝がかゆい とか・・・。 医者泣かせ?
そのおかげか もともと強靭な肉体を持っていたのか
毎日結構タバコを喫うわりには たいした病気もせず長生きしました。

亡くなる前年 なんとなく体調が悪いということで病院に行ったら
癌だと言われました。 でも 歳が歳で治療のしようもないし
進行もおそいし 何よりビビリ屋なので告知はしませんでした。

幸いたいして痛むこともなく・・・

この頃は認知症が出始めていたので もしかしたら痛みに関してもにぶくなっていたのかもしれませんね・・・

最後は コタツに入っていつものようにテレビを見ながらうたた寝してる・・・と
思ったら あれ? じいちゃん動かん!?
という最後だったそうです。
それまで「眠るように死ぬ」のをドラマで見るたびに「ありえん!!」と思っていましたが あるようです。
3年前の春 じいいちゃんが 92か93のときのことです。
歳は本人もあやふやでしたので。(笑)
生年月日はわかっているので計算すればわかるのですが 面倒なので
まわりも皆いつも幅を持って ○歳か△歳ということにしてました。

特に前兆なんてなかったのですが
父から電話がかかってきたとき もしかしてそうかな、と思いました。
だって 父から電話がある用事なんて他にないし・・・。

急いでかけつけたら じいちゃんは普通の顔して寝てるようでした。
ばあちゃんが死んで以来 寂しそうだったし
その他じいちゃんをとりまくいろんなことを考えると 
変な話ですが ちょっとホッとしました。
もちろん死んだことはとても悲しかったけれど でも なんだか
じいちゃんお疲れさん、これで良かったかもね、安心してゆっくりしな、と思いました。
今頃 天国でばあちゃんや 息子(私の叔父)と仲良く・・いや 喧嘩しながら
暮らしていることでしょう。
 

心残りは最後の数ヶ月 私はつわりで苦しくって外出はほとんどできず
ぜんぜん会いに行けなかったこと。
認知症が出だしてから 電話での話は心もとなかったので
実際に会って妊娠を報告しようと思っていたのに 結局言えずじまいでした。
ごめんね、じいちゃん。
ばあちゃんには タッチの差で結婚も言えんかったしね、
なんだかいつもワンテンポ遅い私です。


妹と二人 4年ほど じいちゃんちで暮らしました。
その頃は 私も子供だったし じいちゃんもまだたいそう頑固で
よくしかられたし 言い争いもしました。
お金を貯めて1日も早くうちを出よう、といつも妹と話していました。
でも あとで振り返ってみると やっぱりよいことばかり思い出しますね。
それに 当時は嫌だったことも過ぎてみれば なんだか笑って語れるように
なるしね。


ばあちゃんが死んで じいちゃんが死んで
私には帰ることのできる場所(実家)というものが無くなったような気がします。
そういえば 妹もおんなじこと言ってたな・・・。
あぁ つまり今の家族を大切にしなければ! 
ってことですよね。へへへ。

そういえば じいちゃんが死んだとき つれあいが私を心配して2日ほど会社を
休んでそばにいてくれました。
その日は出張の予定だったのですが 取りやめて
朝から方々に電話をかけて急遽休むことを謝っていました。
「え?奥さんのお父さんじゃなくて おじいさん!?!?!? で 休むの?」
などとまわりから言われていたようですが・・・。
このことを思うと本当にありがたくてありがたくて 感謝の気持ちでいっぱいです。
そして私も彼のためにもっともっといろいろ・・・と一瞬は思うのですが・・・なかなか。 

なんか センチな思い出話になってしまいました。
近いうちにお墓参りに行こう。
おしまい。