お店に近づくと、戸は閉まっていて、白地の紙に黒いマジックで文字が書いてあるのが見えました。そうか、いよいよ、ついにマスターも、マスターはひと回り以上歳上だから、と駆け寄って、閉まっているお店の引き戸に手をかけると、するっと戸が滑り、中は真っ暗。一歩二歩、中に入るとカウンターから顔が出てきて「うらめしや」。ほんとうにお化けがいるなら会いたいと思っている私でも、少しだけドキドキ。電気を点けてみると、いつものマスターがお昼寝しているだけでした。「臨時休業って張り紙してあるでしょ。昼寝の邪魔をしないでよ」。表に出て張り紙を改めて見ると“しばらくの間、臨時休業いたします”と書いてあり、ご丁寧に黒枠で二重に囲ってありました。よく読まなかった私が悪いのですが、このデザインではちょっとなと思いました。
臨時休業の理由は先月からお店が急に混んできて、帳簿をつけてみると前年の数倍の売り上げになったそうです。それはそれで嬉しいことなのですが、例のオーバーシュートが怖くなってしまいお店を閉めてしまったそうです。
いつもの春はというとマスターは苦労してお客様集めをしています。さくらまつり・特別メニューのビラを作り、観光案内のボックスなど町中に置いて回ります。その特別メニューは、普通にスーパーで売っているボックスのバニラアイスクリームを大スプーンで二掬いしてお皿の上に。桜の花びらの塩漬けを一輪乗せて全体に塩を一振り500円。最初は詐欺かと思いましたが、これを、テラス席で桜を見ながら食べると意外とおいしいく癖になります。おかわりをするお客も珍しくありません。今年はその特別メニューを頂けないのが残念なくらいです。
「せっかく来たんだから座っていけば」と座禅のお寺でもないのに、テラス席に座っていくことに。ひとりで満開の桜の中、時折こぼれ花きらきら。川の流れる音に今年初めて聞くカジカの鳴き声。しばらくすると、コーヒーをマスターが持ってきてくれました。「臨時休業中だから金はいらん」。何か面白いことを言い返そうと思いましたが、今はそういう気にもならず、ただ「ありがとう」と言いました。それは、当たり前の、普通の春に言ったのかもしれません。