吉良吉影は静かに暮らしたい

植物の心のような人生を・・・・、そんな平穏な生活こそ、わたしの目標なのです。

P.カレル『砂漠のキツネ』②(フジ出版社 / 昭和46年4月15日5版発行)

2018-07-18 05:43:09 | 紙の本を読みなよ 槙島聖護

(承前)

【北アフリカ全図】



2.英軍の大攻勢・・・ロンメル敗退す!?

 1941年11月17日から18日にかけて、トブルクからハルファヤ峠にかけての一帯は大雨に見舞われた。
 ハルファヤ峠のドイツ軍陣地は洪水に襲われた。将兵たちが陣地の修復に躍起になっていたその頃、泥濘と化した砂漠を進む千台にも及ぶ戦車の群れがあった。英軍の総攻撃が始まったのだ。


※1941年11月18日のイギリス軍攻勢



※ハニー軽戦車・・・英軍には既にアメリカ製の戦車が提供されていた。


※マチルダ歩兵戦車・・・『戦場の女王』と呼ばれた名戦車。

 ロンメル側はというと弱小のイタリア軍を合わせても戦車は500台に過ぎない。戦力差は明らかだったが、ロンメルは果断に命令を下す。『トブルクを目標に作戦中の敵主力を、ドイツ=イタリア機動部隊を総動員し、集中的にたたき、しかるのち急速に東進してソルーム戦線から敵を一掃する!

 幸運にも英軍第4機甲師団が脱落したことがロンメルに有利に働いた。砂漠の真ん中で突然両軍は至近距離で遭遇し、指揮官クラーマー少佐の機転で英軍の大部分を捕獲することに成功したのだった。これが勝敗を決した。ドイツ軍は英軍主力部隊を包囲し、これを敗退させることに成功する。


※1941年11月23日の戦闘・・・ロンメルは英軍兵力を包囲した。

 英軍を迎え撃つことに成功したロンメルは、戦果を確認する間もなく、すぐさま80台の戦車を率いて東進し、シヂ・オマールへ向かった。追随した通信部隊が脱落する程の神速だったが、英軍も態勢を立て直しつつあり、激しい抵抗に遭う(インドおよびニュージーランドの2師団はほぼ無傷なのだ!)。トブルク要塞からも背面を衝かれ、ついに引き上げざるを得なかった。


※ロンメル悲運の砂漠行

 この後両軍はトブルク要塞を巡って激しく衝突する。

 12月5日から6日にかけてロンメルは再び攻勢に出て戦局の挽回を図るが、この攻撃に参加したのはドイツ軍だけで、アリエテおよびトリエステ両師団からなるイタリア軍は参戦しなかった(ドイツ軍の猛攻に英軍は耐えられなくなってきており、もう少しで英軍を包囲殲滅できるチャンスが巡ってきていたのに!)。イタリア軍の応援があればドイツ軍は再び勝利しえたかもしれない。ロンメルは支援を要請したが、イタリア軍からの回答はそっけないものだった。『わが師団は疲労し戦闘に堪えない』イタリア軍指揮官ガムバラはこの戦闘が終わるまで、とうとう姿を見せなかった。

 イタリア軍は決して臆病だった訳ではないが、装備も体質も旧式に過ぎた。
 兵士たちが戦っている間、指揮官たちは優雅な天幕に腰を据え、高級ワインを傾けて、専属シェフの料理に舌つづみを打ちながら戦況報告を待つのが常なのだ。ロンメルのように兵卒たちと同じ食事を摂り、シュトルヒ連絡機やマンモス指揮車で絶え間なく前線を廻っては兵士たちを叱咤激励するドイツ軍指揮官たちを『まるで宇宙人でも見るような目』で見ていたのだった。

 孤立したハルファヤ峠は英軍の手に落ち、ドイツ軍はアゲダビアまで後退を余儀なくされる。
 (つづく