吉良吉影は静かに暮らしたい

植物の心のような人生を・・・・、そんな平穏な生活こそ、わたしの目標なのです。

ベネディクト・カンバーバッチ主演『ドクターストレンジ』(2017年アメリカ)

2017-01-30 12:58:54 | 映画・ドラマを観て考えよう
 あのベネディクト・カンバーバッチ主演というので、観に行ってきました。


 どうも悪い予感が当ったようで・・・これはビミョウ・・・だな。

 ストーリーは、天才外科医のストレンジ博士は自動車運転中の事故で『神の腕』とまで呼ばれた両腕の神経がズタズタに寸断され、再起不能になってしまう。事故の原因は運転中に転送された次回の手術のデータを見ていたからです。自動車運転中にスマホ弄ったりするのがいかに危険か、ポケモンGo!で身に染みているかと思ったら、人間ってのは喉元過ぎれば熱さを忘れる動物なのですね。この辺は必要なのかちょっと疑問ではありますが、アメコミヒーローというものは一度『どん底』を体験しないとイケないようで、故郷の星が爆発したり、コウモリの洞窟に落ちたり、果ては地獄で悪魔と取引したりしてしまうのだった。

 現代医学では指の神経を元に戻すのは不可能と悟ったストレンジ博士は一縷の希望を抱いてチベットに渡り、名前を聞いただけの『カマタージ』という場所を捜しあて、導師のもとで修行するのだが、実はこの修行の場は暗黒宇宙からこの世界を護る秘密組織の拠点なのであった。東洋版ハリポタの魔法学校みたいな場所で修行するストレンジ博士は、指の神経を直すという当初の目的はどこへやら、身に付けた魔法力で暗黒宇宙の手先と闘うハメになってしまう。

 この魔法の闘いがこの映画のイチバンの観せドコロです。CGを駆使してビルや街路が折り畳まれて敵を押し潰す歯車に変わったり、地面に穴が空いてブラックホールのように敵を呑み込んだり、果ては敵味方の魔法が駆使された結果、エッシャーの『だまし絵』のような空間が出現したり、と今までに無いジェットコースター体験が出来ます。特に3Dを意識した造りになってます。

 しかしながらいったん『魔法』というものに手を出してしまうと、結果は『何でもアリ』みたいなコトになって、物語そのものがツッコミ所満載になってブチ壊れてしまいます。この辺がワタシが『剣と魔法のファンタジー』を観ない・読まない一因になっているのですが(唯一例外は白子の皇子『エルリック』のシリーズくらいです)今回も時間を遡ったり(マネキン・チャレンジ的な映像は面白かったが・・・)、敵を時間のループに閉じ込めたり、と禁じ手満載で、物語はデウス・エクス・マキナ的に解決し、世界は何事も無かったように元に戻ります。

 ミスター・サタンのような風貌で主演するカンバーバッチ様目当てで行くと今回は結構ハズレです(吹き替えなしでカンバーバッチ様のナマの声を聞こうと字幕版を選択すると2Dしかありませんでしたから尚更です)。
 しかし次回作もすでに準備されているようで、オマケの次回予告では、これもアメコミの『マイティー・ソー』とカラむようです。

 次回も行ったものかどうか、ちょっと悩んでます。

古代ギリシャ展(神戸市立博物館/2016年12月23日~2017年4月2日)

2017-01-17 07:53:52 | 日々美しいものに触れようよ

 古代ギリシャ展(神戸市立博物館/2016年12月23日~2017年4月2日)なるものに行ってみたのだった。


※牛頭形リュトン

 今回の展示は日本初公開の品がめっさ多いのが特徴・・・で、これらが時代順にちゃんと分類されているので私のようなシロートにも分かりやすい展示になっています。

 初期のエーゲ文明(特にキュクラデス文明)の時代の彫像は『ホントにギリシャの彫像?』と思うくらい単純化された形で、日本の土偶にも似たイメージです。民族は異なっても畏れ敬う対象には何か人類全体に共通するものがあるのだろうか?などと思いながら時代を降っていくと、これらが私達のよく知る大理石の彫像に移行していきます。

 『おお、テルマエ・ロマエの世界や!』などとケシカランことを考えつつ、神々や理想化された肉体を表す彫像の間を抜けて行きますと、ひとつ気付いたことがあります。それはオリンピア競技での優勝者を讃える石像なんかも当然多いのですが、若くして亡くなった人物の人柄や才能を惜しんでそれを象った彫像が結構多いのです。



 そのような像がアテナやアルテミスまたアポロといった神々と一緒に並んでいるさまは、魂が天界に召されているまさにその様子のように見えてきます。古代においては戦争や疫病また不慮の事故などによって亡くなる若者は少なくなかったと思われます。この人たちのことを『意味無く死んだ』と考えることは大変辛いことです。もし神々という高次の存在が居て、我々人間の理解を超えたところで運命を決めているのだとすれば、早すぎる死にも何らかの意味があると考えることが可能です。そうして早逝した若者たちを『神々に愛されすぎた』と表現する言葉は、残された人たちへの何よりの慰めになるのかもしれない、などと思いながら会場を後にしたのでした。