働いている時は意識もしなかったけど、保険証がなくて数週間病院に行くことができませんでした。共済の資格喪失書類がやっと届いて、ついに保険証ゲット!はりきって眼科~歯医者~整体と通っています。コンタクトゲット!歯医者も1日で治療&クリーニング完了!ずっと気になっていた顎関節や足や首や・・・いろんなズレをこの機会にしっかり整えてもらおう。整体の受付で、被扶養者のため世帯主である父の名前を書くように言われた。何とも言えない申し訳ないような情けないような気にもならんこともなくて・・・。でも心に決めているのは、お父さんとお母さんに気づかれないように、ひっそりこっそり暮らしていこう。(笑)「あれ?あの子働いてないのに態度デカくない?」と思われないように・・・。お世話になっております。
<4月22日の日記>
Hちゃんちで迎える東京最終日。新築の香りと天窓から差し込む眩しい光でさわやかな目覚め。素敵~。引っ越したばかりのこのお家がこれからどんな風になっていくのかな。
赤ちゃんのいる家。穏やかな時間が流れていました。
↑腹ばいになって絵本をぺろぺろ。
難ないふりして本当はせっせと乗り換えて無事成田空港に到着。父母と合流して展望デッキでお昼ご飯を。出発ゲートも知らずにのんびりしていたもんであわや乗り遅れるところでした。間に合ってよかったよかった。
帰りの飛行機も成田発のためいつもと航路が違って憧れの富士山は見えなかったけど、それはそれでまたおもしろかった。もちろんピーチの2710円!福岡ドーム、福岡タワーが見える側から福岡に入った。福岡ってかっこいい街だなと思いました。
↑「あれ~。おっかしぃな~。あれどこかいな~。」とブツブツ言いながら無邪気に窓辺にはりつく父。お隣さんの迷惑です。(笑)
ただいま福岡!
・・・
さて、と。
Hちゃんちで迎える東京最終日。新築の香りと天窓から差し込む眩しい光でさわやかな目覚め。素敵~。引っ越したばかりのこのお家がこれからどんな風になっていくのかな。
赤ちゃんのいる家。穏やかな時間が流れていました。
↑腹ばいになって絵本をぺろぺろ。
難ないふりして本当はせっせと乗り換えて無事成田空港に到着。父母と合流して展望デッキでお昼ご飯を。出発ゲートも知らずにのんびりしていたもんであわや乗り遅れるところでした。間に合ってよかったよかった。
帰りの飛行機も成田発のためいつもと航路が違って憧れの富士山は見えなかったけど、それはそれでまたおもしろかった。もちろんピーチの2710円!福岡ドーム、福岡タワーが見える側から福岡に入った。福岡ってかっこいい街だなと思いました。
↑「あれ~。おっかしぃな~。あれどこかいな~。」とブツブツ言いながら無邪気に窓辺にはりつく父。お隣さんの迷惑です。(笑)
ただいま福岡!
・・・
さて、と。
<4月21日の日記>
南三陸で迎える朝。<ホテル観洋HP>
↑朝からベランダに登場。同じトリさん?昨夜はどこで眠ったんだろう。
昨日はくもっていてよく見えなかったけど、向こうに南三陸の中心部が見えます。町全体がかさ上げ工事中。
朝風呂も入りまして、しっかり朝食を食べました。バタバタと準備をして「語り部バス」に乗り込みました。
ホテル観洋の語り部バスは、南三陸町内の戸倉地区→高野会館→防災庁舎とホテル従業員の方のお話を聞きながらめぐります。
まずは戸倉地区、戸倉小学校跡地へ。戸倉小学校には地震・津波発生当時約200名の児童・職員がいたんだけど、先生たちのナイス判断により、高台にある神社へ避難して全員が無事だったそうです。その避難場所というのが、数日前にある先生が避難場所の変更を提案し、前日に避難訓練を行っていたばかりだったと。例えば屋上なんかに避難してても誰の命も助からなかったはず。見えない力を感じて鳥肌が立ちました。東北の3月=雪の降る寒い日に夜眠ってしまっては危ないので、たき火をたいて身を寄せ合って、みんなで翌日の卒業式で歌うはずだった川島あいさんの歌をくり返し歌い続けて朝を迎えたそうです。予定から2ヶ月後に行われた小学校の卒業式には川島あいさん本人がサプライズで登場したんだと。
次に高台にある戸倉中学校へ。こちらは小学校と違って高台にあるので津波の難を逃れたのかと思いきや・・・
↑止まったままの時計。
↑この体育館の裏から水が流れ込んできたと。すでに高台にあるのに、2階部分まで水が上がってきたとのこと。
↑今は仮設住宅になっていました。
今は戸倉小も戸倉中も志津川小・中に統合されたそうです。少し距離があるので通うのも大変だろうな。
バスの中でかつての南三陸町の写真を見せてもらいました。
↑こんなにいろいろあったのに、
あの日の大津波で、
↑町ごと全部流されたなんて。
南三陸町はかつてのチリ地震津波(5m)を体験しているだけに防災意識の高い町だったそうです。沿岸部には立派な防潮堤もありました。昔から「津波てんでんこ」という言い伝えがあって、津波があったら別々に逃げろ、自分の命は自分で守れ、という意味だそうです。 町の人もまさか最大20mの津波が来るなんて想像できなかったはず。なんと町全体の62%が津波によって流出、死者・行方不明者合わせると約800名。4年たった現在でも町民の3分の1(約5千人)の方々は仮設住宅に住んでいるそうです。
ガイドをしてくれたホテル従業員の方も気仙沼にある自宅は流されていたそうです。でも「家族が助かったからこれ以上のことはない。」と話していました。震災以降、ガソリンは常に満タンにしておくとか、車のトランクに最低限の荷物を積んでおくとか、非常時の備えをこれまで以上に行うようになったそうです。
海沿いに建つホテル観洋ももちろん津波の被害を受けていて、2階部分まで水浸しになったそうです。その後も町の2次避難所として町民やボランティア・工事関係者を受け入れ、避難住民のために様々な取り組みを行いました。一般営業を再開したのは半年後の9月末。従業員は自分の家族の安否も確認できない中、お客様最優先で対応していたんだそう。
語り部バスが終わってチェックアウトした後、話に出てきた戸倉小の児童・職員が避難した高台にある神社に自分たちで行ってみました。
そこにある石碑には、
「未来の人々へ 地震があったら、この地よりも高いところへ逃げること」と刻まれていました。
↑このお堂の中と回りでぎゅうぎゅうになって一夜を明かしたんだとか。
↑こんなに高いところにあるのに、鳥居のすぐ下まで津波は到達したんだそうです。
↑戸倉小があった所。かさ上げ工事中。
↑神社のある高台を裏から見たところ。
九州では3週間以上前に見終わった桜が 東北ではなんと満開でした。
↑桜の花びらをつけていざ東京へ一気に南下します。
見れたのはほんの一部だけど、本当に来てよかった。遅くなってごめんね。
帰りは東北自動車道を一気に南下します!
いい景色~。途中でうれしいサプライズが!
東松島を通過中、航空自衛隊のアクロバット飛行に遭遇。見てるだけでもハラハラします。
いよいよ東京へ突入。ここからの運転はとにかく気が抜けません。
恐怖の首都高に入りまして、
↑スカイツリーを発見。
↑スカイツリーが好き過ぎて運転に集中できない人。
↑迫りくるスカイツリー。
↑うわ~。やっぱりデカイ!
↑さすがの首都高には「お父さんクラス」でもハンドルを持つ手に力が入っています。
↑アサヒビール。
↑金色の〇〇〇。
無事に到着。運転おつかれさまでしたm(_ _)m
↑レンタカー屋横の中華料理屋さんでハッピーアワーの早目の乾杯。
ここでしばらくバイバイ。わたしはHちゃんの新居にお泊りさせてもらいました。
やっと東北に行けた。まだ考えはまとまらないけど、いろんなことを感じた濃い3日間でした。
南三陸で迎える朝。<ホテル観洋HP>
↑朝からベランダに登場。同じトリさん?昨夜はどこで眠ったんだろう。
昨日はくもっていてよく見えなかったけど、向こうに南三陸の中心部が見えます。町全体がかさ上げ工事中。
朝風呂も入りまして、しっかり朝食を食べました。バタバタと準備をして「語り部バス」に乗り込みました。
ホテル観洋の語り部バスは、南三陸町内の戸倉地区→高野会館→防災庁舎とホテル従業員の方のお話を聞きながらめぐります。
まずは戸倉地区、戸倉小学校跡地へ。戸倉小学校には地震・津波発生当時約200名の児童・職員がいたんだけど、先生たちのナイス判断により、高台にある神社へ避難して全員が無事だったそうです。その避難場所というのが、数日前にある先生が避難場所の変更を提案し、前日に避難訓練を行っていたばかりだったと。例えば屋上なんかに避難してても誰の命も助からなかったはず。見えない力を感じて鳥肌が立ちました。東北の3月=雪の降る寒い日に夜眠ってしまっては危ないので、たき火をたいて身を寄せ合って、みんなで翌日の卒業式で歌うはずだった川島あいさんの歌をくり返し歌い続けて朝を迎えたそうです。予定から2ヶ月後に行われた小学校の卒業式には川島あいさん本人がサプライズで登場したんだと。
次に高台にある戸倉中学校へ。こちらは小学校と違って高台にあるので津波の難を逃れたのかと思いきや・・・
↑止まったままの時計。
↑この体育館の裏から水が流れ込んできたと。すでに高台にあるのに、2階部分まで水が上がってきたとのこと。
↑今は仮設住宅になっていました。
今は戸倉小も戸倉中も志津川小・中に統合されたそうです。少し距離があるので通うのも大変だろうな。
バスの中でかつての南三陸町の写真を見せてもらいました。
↑こんなにいろいろあったのに、
あの日の大津波で、
↑町ごと全部流されたなんて。
南三陸町はかつてのチリ地震津波(5m)を体験しているだけに防災意識の高い町だったそうです。沿岸部には立派な防潮堤もありました。昔から「津波てんでんこ」という言い伝えがあって、津波があったら別々に逃げろ、自分の命は自分で守れ、という意味だそうです。 町の人もまさか最大20mの津波が来るなんて想像できなかったはず。なんと町全体の62%が津波によって流出、死者・行方不明者合わせると約800名。4年たった現在でも町民の3分の1(約5千人)の方々は仮設住宅に住んでいるそうです。
ガイドをしてくれたホテル従業員の方も気仙沼にある自宅は流されていたそうです。でも「家族が助かったからこれ以上のことはない。」と話していました。震災以降、ガソリンは常に満タンにしておくとか、車のトランクに最低限の荷物を積んでおくとか、非常時の備えをこれまで以上に行うようになったそうです。
海沿いに建つホテル観洋ももちろん津波の被害を受けていて、2階部分まで水浸しになったそうです。その後も町の2次避難所として町民やボランティア・工事関係者を受け入れ、避難住民のために様々な取り組みを行いました。一般営業を再開したのは半年後の9月末。従業員は自分の家族の安否も確認できない中、お客様最優先で対応していたんだそう。
語り部バスが終わってチェックアウトした後、話に出てきた戸倉小の児童・職員が避難した高台にある神社に自分たちで行ってみました。
そこにある石碑には、
「未来の人々へ 地震があったら、この地よりも高いところへ逃げること」と刻まれていました。
↑このお堂の中と回りでぎゅうぎゅうになって一夜を明かしたんだとか。
↑こんなに高いところにあるのに、鳥居のすぐ下まで津波は到達したんだそうです。
↑戸倉小があった所。かさ上げ工事中。
↑神社のある高台を裏から見たところ。
九州では3週間以上前に見終わった桜が 東北ではなんと満開でした。
↑桜の花びらをつけていざ東京へ一気に南下します。
見れたのはほんの一部だけど、本当に来てよかった。遅くなってごめんね。
帰りは東北自動車道を一気に南下します!
いい景色~。途中でうれしいサプライズが!
東松島を通過中、航空自衛隊のアクロバット飛行に遭遇。見てるだけでもハラハラします。
いよいよ東京へ突入。ここからの運転はとにかく気が抜けません。
恐怖の首都高に入りまして、
↑スカイツリーを発見。
↑スカイツリーが好き過ぎて運転に集中できない人。
↑迫りくるスカイツリー。
↑うわ~。やっぱりデカイ!
↑さすがの首都高には「お父さんクラス」でもハンドルを持つ手に力が入っています。
↑アサヒビール。
↑金色の〇〇〇。
無事に到着。運転おつかれさまでしたm(_ _)m
↑レンタカー屋横の中華料理屋さんでハッピーアワーの早目の乾杯。
ここでしばらくバイバイ。わたしはHちゃんの新居にお泊りさせてもらいました。
やっと東北に行けた。まだ考えはまとまらないけど、いろんなことを感じた濃い3日間でした。
<4月20日の日記>
ホテル自慢の「健康朝食」というしっかり朝ごはんを食べて出発。日本三景の一つ松島へ直行。
遊覧船でのんびりと。奇岩奇勝が続きますが、こういう場所だけにお天気がちょっと残念。
宮城は種牡蠣の産地。世界でもMiyagiというブランド牡蠣として有名。ここの種牡蠣が広島や北海道へも送られているそう。広島には種牡蠣が育つ環境がないなんてビックリ。産地による大きさの違いは単純に取る時期の違いなんだって。味とか身のしまりの違いは潮流や育て方によるとも言ってた。ワカメや昆布の漁も盛んに行われていました。春5cmの赤ちゃん昆布は秋には5mにもなるんだって!
↑牡蠣はぶら下げられて育てられる。震災後は大変やったろうなー。
観光案内所には震災時の写真が展示してあった。え?って思うような場所に車があったり、今じゃとても想像できない。着実に復興が進んでいて、お客さんもずいぶん戻ってきている。さすが観光地、強さを感じます。
続きまして女川町へ。
女川町は1万人の人口が7千人に減ってしまったんだって。そのほとんどが仮設住宅で暮らしているそう。津波の被害があまりに大きく、瓦礫の撤去がやっと進んで、復興計画がやっとまとまって、まずは地盤沈下した土地を上げる工事(山から土を運んで8~10m高くする)が行われていました。少しずつ災害公営住宅も建ってきているけど、まだまだ。ちなみに中村雅俊さんは女川の出身らしい。
↑女川町のみなさんが暮らす仮設住宅。高台の至る所に。
写真を見てわかる通り、町の中心部から谷沿いにかなり奥の方まで流されています。
↑この建物は震災遺構として保存されるらしい。
先ほどの「WE♡女川」の看板もそうだけど、女川町はポップに復興していました。ポスターコンクールとか、お店の感じとか観光パンフレットとか、オシャレ!
「なんじゃこりゃ!」と大興奮の女川丼@おかせい。これはたまらんかったー。鼻息荒くうなり声を上げながら一気に食べました。ここで生まれて初めて「ホヤ」を見ました。(←今回は勇気がなくて見るだけ)
いざ南三陸町へ。
↑ここでも海岸沿いはずっと土地を高くする工事が行われていました。
↑こいのぼり。なんだかちょっとほっとした。
↑セブンイレブンも仮設。
↑南三陸の仮設住宅。
何度もテレビで見たあの防災庁舎へ。
ここで最後まで町民に避難指示の放送を続けた人、迫りくる津波から逃げられず屋上へ避難して亡くなった人がいるという事実。まさかこの建物の屋上2mまで津波が来るなんて誰が予想できただろうか。町が津波に飲み込まれる中、屋上のポールにしがみつく人々の写真を見た。屋上に避難した約30名のうち生存者は11名。どんな気持ちでそこにいればいいのかわからなかったけど、ただただ冥福を祈った。保存するかしないかの議論もまだまとまってはいない。今後20年は県が管理することにして、その後は町で決めるように、その間にしっかり話し合っていこうということになったとか。遺族もたまらない気持ちでいるだろうと思うけど、少しでも早く日常が送れるように、少しでも笑える日が来るように、ただただ祈っています。
その後、「南三陸さんさん商店街」へ。
町の商店機能が一ヶ所に集められた感じ。てっきり観光客向けのお土産物街かと思ったら、住民の日常を支える魚屋肉やなどの食料品店、文房具屋、ブティックなどの商店街でした。時間が遅かったので閉まっているお店もあったけど、食後に食べようとケーキを買いました。長期保存用のパンを買ったお土産屋さんのお店のおばちゃんが当時のことを積極的に語ってくれてありがたかった。商店街の前にはきれいなBRTの駅があって、BRT待ちの学生さんがお店に寄ったりしてた。この辺りのJRは線路はもうないけれど、その代わりのBRT(バス高速輸送システム)が整備されてかっこよく走っていた。南三陸も着実に復興を進めていた。やっと方向性が決まって動き出して、「これから」って感じがした。
↑南三陸はチリと仲良し。チリから贈られた珍しい目入りのモアイ像。
さて、本日のお宿は南三陸ホテル観洋。いわゆる温泉リゾートホテルなんだけど、ホテル自体津波の被害に遭いながらも、町民の避難所ともなっていたホテルです。荷物を運んでくれた方も当時の話をしてくれました。明日の朝は「語り部バス」に参加します。詳しくはまた明日。
↑こんなに間近に海鳥が・・・
↑アワビ・カニ・刺身・・・豪華すぎて食べきれませんでした。朝の健康朝食、昼の女川丼、この日は贅沢すぎました。
このポスターの前で唸った。素晴らしい!その通り。一人でも多くのみんなに行ってほしい。
今日は仙台から南三陸まで移動して、津波の被害の大きさ、復興はまだまだこれからであるということを思い知った。震災から4年、これまでの日々は心身ともに本当に大変だったと思うけれど、それぞれの町に「希望の光」というか未来に向かっている明るさも感じることができた。それを昨日見た福島では感じることができなかった。
ホテル自慢の「健康朝食」というしっかり朝ごはんを食べて出発。日本三景の一つ松島へ直行。
遊覧船でのんびりと。奇岩奇勝が続きますが、こういう場所だけにお天気がちょっと残念。
宮城は種牡蠣の産地。世界でもMiyagiというブランド牡蠣として有名。ここの種牡蠣が広島や北海道へも送られているそう。広島には種牡蠣が育つ環境がないなんてビックリ。産地による大きさの違いは単純に取る時期の違いなんだって。味とか身のしまりの違いは潮流や育て方によるとも言ってた。ワカメや昆布の漁も盛んに行われていました。春5cmの赤ちゃん昆布は秋には5mにもなるんだって!
↑牡蠣はぶら下げられて育てられる。震災後は大変やったろうなー。
観光案内所には震災時の写真が展示してあった。え?って思うような場所に車があったり、今じゃとても想像できない。着実に復興が進んでいて、お客さんもずいぶん戻ってきている。さすが観光地、強さを感じます。
続きまして女川町へ。
女川町は1万人の人口が7千人に減ってしまったんだって。そのほとんどが仮設住宅で暮らしているそう。津波の被害があまりに大きく、瓦礫の撤去がやっと進んで、復興計画がやっとまとまって、まずは地盤沈下した土地を上げる工事(山から土を運んで8~10m高くする)が行われていました。少しずつ災害公営住宅も建ってきているけど、まだまだ。ちなみに中村雅俊さんは女川の出身らしい。
↑女川町のみなさんが暮らす仮設住宅。高台の至る所に。
写真を見てわかる通り、町の中心部から谷沿いにかなり奥の方まで流されています。
↑この建物は震災遺構として保存されるらしい。
先ほどの「WE♡女川」の看板もそうだけど、女川町はポップに復興していました。ポスターコンクールとか、お店の感じとか観光パンフレットとか、オシャレ!
「なんじゃこりゃ!」と大興奮の女川丼@おかせい。これはたまらんかったー。鼻息荒くうなり声を上げながら一気に食べました。ここで生まれて初めて「ホヤ」を見ました。(←今回は勇気がなくて見るだけ)
いざ南三陸町へ。
↑ここでも海岸沿いはずっと土地を高くする工事が行われていました。
↑こいのぼり。なんだかちょっとほっとした。
↑セブンイレブンも仮設。
↑南三陸の仮設住宅。
何度もテレビで見たあの防災庁舎へ。
ここで最後まで町民に避難指示の放送を続けた人、迫りくる津波から逃げられず屋上へ避難して亡くなった人がいるという事実。まさかこの建物の屋上2mまで津波が来るなんて誰が予想できただろうか。町が津波に飲み込まれる中、屋上のポールにしがみつく人々の写真を見た。屋上に避難した約30名のうち生存者は11名。どんな気持ちでそこにいればいいのかわからなかったけど、ただただ冥福を祈った。保存するかしないかの議論もまだまとまってはいない。今後20年は県が管理することにして、その後は町で決めるように、その間にしっかり話し合っていこうということになったとか。遺族もたまらない気持ちでいるだろうと思うけど、少しでも早く日常が送れるように、少しでも笑える日が来るように、ただただ祈っています。
その後、「南三陸さんさん商店街」へ。
町の商店機能が一ヶ所に集められた感じ。てっきり観光客向けのお土産物街かと思ったら、住民の日常を支える魚屋肉やなどの食料品店、文房具屋、ブティックなどの商店街でした。時間が遅かったので閉まっているお店もあったけど、食後に食べようとケーキを買いました。長期保存用のパンを買ったお土産屋さんのお店のおばちゃんが当時のことを積極的に語ってくれてありがたかった。商店街の前にはきれいなBRTの駅があって、BRT待ちの学生さんがお店に寄ったりしてた。この辺りのJRは線路はもうないけれど、その代わりのBRT(バス高速輸送システム)が整備されてかっこよく走っていた。南三陸も着実に復興を進めていた。やっと方向性が決まって動き出して、「これから」って感じがした。
↑南三陸はチリと仲良し。チリから贈られた珍しい目入りのモアイ像。
さて、本日のお宿は南三陸ホテル観洋。いわゆる温泉リゾートホテルなんだけど、ホテル自体津波の被害に遭いながらも、町民の避難所ともなっていたホテルです。荷物を運んでくれた方も当時の話をしてくれました。明日の朝は「語り部バス」に参加します。詳しくはまた明日。
↑こんなに間近に海鳥が・・・
↑アワビ・カニ・刺身・・・豪華すぎて食べきれませんでした。朝の健康朝食、昼の女川丼、この日は贅沢すぎました。
このポスターの前で唸った。素晴らしい!その通り。一人でも多くのみんなに行ってほしい。
今日は仙台から南三陸まで移動して、津波の被害の大きさ、復興はまだまだこれからであるということを思い知った。震災から4年、これまでの日々は心身ともに本当に大変だったと思うけれど、それぞれの町に「希望の光」というか未来に向かっている明るさも感じることができた。それを昨日見た福島では感じることができなかった。
<4月19日の日記>
お兄ちゃんち最寄りのレンタカー屋さんで車を借りて、首都高乗って一路東北へ。最初のドライバーは高速の合流が苦手なお母さん。かわいそうに3人中2人が二日酔いでごめん。
東京、埼玉、栃木、茨城、次々と県境を越えて、常磐自動車道福島方面に入るとこんなサインが↓
放射線量のお知らせ。その数値がどんなもんなのかもよくわからないけど、なんだか物々しくて恐怖心をあおられる感じ。福島が近付いているんだなと思った。
未だ帰還困難区域ではあるけれど、3月に通行再開されたばかりの福島県浜通り(国道6号)を通ってみることにした。常磐富岡ICを下りる前に目にしたものは・・・↓
黒い袋の正体は除染された土。畑いっぱいどこもかしこもものすごい量。知ってたはずなのに圧倒されてしまった。この作業きりがなくない?目に見えない敵と戦っている感じ。これは大変なことになっとるばい。
富岡町、大熊町、双葉町、浪江町、南相馬市と海沿いを北上しました。
とにかく誰もいない。自動車の通行はできるようになったけど、二輪車や歩行者は通行できません。路地や各家に入れないようにバリケードがしてあります。
通行のためのチェックなんかはないけれど、治安を守るための警察が要所に構えていて、なんとも異様な雰囲気。とにかく人がいない。人の住んでた気配は生々しいほどするのに。
双葉町に入っても福島第一原発の位置を示すようなサインは全く見えず、どの辺にあるのかいまいちよくわからなかった。元々そうなのかな。
人や車を見かけても除染作業関係ばかり。そこに日常生活は全くありませんでした。
走っても走ってもそこに人がいた気配はあるのにとにかく人がいなくて、いつか見た映画かドラマみたいだった。
富岡から南相馬に入るまで約1時間半、とにかく人がいなかった。乗り捨てられたバイク、車、商品が残ったままのホームセンター。人がいるとすれば除染作業員。このような帰還困難区域は内陸部にも広範囲に広がっています。南相馬で営業しているセブンイレブンを見つけた時のあのなんとも言えない安堵感。
津波の後、そのままの場所はまだまだいっぱい。
南相馬市の観光案内で当時のお話を少し聞いて、南相馬の「かしまの奇跡の一本松」へ。
かつてはここに3kmにも及ぶ松並木があったんだとか。1本だけになっちゃった。この1本も実はもう枯れているんだそう。
上の写真は津波が襲ってきたときのもの。津波が防波堤に当たってものすごい高さにしぶきが上がっています。偶然この一本松のところで「かしまの一本松を守る会」の会長さんに会うことができました。そこから900m離れた所に住んでいた会長さんもこの高波を見てさらに内陸へと避難し、助かったんだとか。この集落には70世帯あったけれど、50名の方が亡くなったんだそうです。
4年経ってやっとやっと動き出した復興計画。ここは防潮堤・防災林を再建しようとしていました。
さらに北上して相馬市へ。相馬市千客万来館(相馬観光復興ご案内処)で情報をもらって伝承鎮魂祈念館へ。
鎮魂祈念館に刻まれた相馬市で亡くなった484名の名前を見ながら、とてもとても身近なことに思えて胸がつまった。亡くなった方々も私と同じように普通の毎日を送っていたんだろうなと思って。
相馬市に入って、やっと、きれいに整えられた災害公営住宅を見かけたり、防災備蓄倉庫を見かけたり、祈念館を見かけたり、前に進んでるなという印象を受けた。
それでもまだまだ地震・津波の爪跡は至る所で残されていました。
仙台空港の様子も気になったので見に行きました。
東京からの大移動。ちょうど日が暮れるころ仙台に到着。今日の宿は仙台市内のスーパービジネスホテル(じゃらんのクチコミNo.1)。アメニティプレゼントなど女性向けサービスも大充実でした。ダブルベッド+ロフトに3人でぎゅうぎゅうになりながら泊まりました。
行かなければ本当のことは分からないと聞いていたし思っていたけど、ここまでとは。福島の現状に大きなショックを受けています。どうなっていくんだろう。未来が見えんぞ。
今日はここまで。
<オマケ>
せっかく仙台に来たので牛タンを食べた。食べ物をめぐって罵り睨み合う両親。お願いだから仲良くしてほしい。
お兄ちゃんち最寄りのレンタカー屋さんで車を借りて、首都高乗って一路東北へ。最初のドライバーは高速の合流が苦手なお母さん。かわいそうに3人中2人が二日酔いでごめん。
東京、埼玉、栃木、茨城、次々と県境を越えて、常磐自動車道福島方面に入るとこんなサインが↓
放射線量のお知らせ。その数値がどんなもんなのかもよくわからないけど、なんだか物々しくて恐怖心をあおられる感じ。福島が近付いているんだなと思った。
未だ帰還困難区域ではあるけれど、3月に通行再開されたばかりの福島県浜通り(国道6号)を通ってみることにした。常磐富岡ICを下りる前に目にしたものは・・・↓
黒い袋の正体は除染された土。畑いっぱいどこもかしこもものすごい量。知ってたはずなのに圧倒されてしまった。この作業きりがなくない?目に見えない敵と戦っている感じ。これは大変なことになっとるばい。
富岡町、大熊町、双葉町、浪江町、南相馬市と海沿いを北上しました。
とにかく誰もいない。自動車の通行はできるようになったけど、二輪車や歩行者は通行できません。路地や各家に入れないようにバリケードがしてあります。
通行のためのチェックなんかはないけれど、治安を守るための警察が要所に構えていて、なんとも異様な雰囲気。とにかく人がいない。人の住んでた気配は生々しいほどするのに。
双葉町に入っても福島第一原発の位置を示すようなサインは全く見えず、どの辺にあるのかいまいちよくわからなかった。元々そうなのかな。
人や車を見かけても除染作業関係ばかり。そこに日常生活は全くありませんでした。
走っても走ってもそこに人がいた気配はあるのにとにかく人がいなくて、いつか見た映画かドラマみたいだった。
富岡から南相馬に入るまで約1時間半、とにかく人がいなかった。乗り捨てられたバイク、車、商品が残ったままのホームセンター。人がいるとすれば除染作業員。このような帰還困難区域は内陸部にも広範囲に広がっています。南相馬で営業しているセブンイレブンを見つけた時のあのなんとも言えない安堵感。
津波の後、そのままの場所はまだまだいっぱい。
南相馬市の観光案内で当時のお話を少し聞いて、南相馬の「かしまの奇跡の一本松」へ。
かつてはここに3kmにも及ぶ松並木があったんだとか。1本だけになっちゃった。この1本も実はもう枯れているんだそう。
上の写真は津波が襲ってきたときのもの。津波が防波堤に当たってものすごい高さにしぶきが上がっています。偶然この一本松のところで「かしまの一本松を守る会」の会長さんに会うことができました。そこから900m離れた所に住んでいた会長さんもこの高波を見てさらに内陸へと避難し、助かったんだとか。この集落には70世帯あったけれど、50名の方が亡くなったんだそうです。
4年経ってやっとやっと動き出した復興計画。ここは防潮堤・防災林を再建しようとしていました。
さらに北上して相馬市へ。相馬市千客万来館(相馬観光復興ご案内処)で情報をもらって伝承鎮魂祈念館へ。
鎮魂祈念館に刻まれた相馬市で亡くなった484名の名前を見ながら、とてもとても身近なことに思えて胸がつまった。亡くなった方々も私と同じように普通の毎日を送っていたんだろうなと思って。
相馬市に入って、やっと、きれいに整えられた災害公営住宅を見かけたり、防災備蓄倉庫を見かけたり、祈念館を見かけたり、前に進んでるなという印象を受けた。
それでもまだまだ地震・津波の爪跡は至る所で残されていました。
仙台空港の様子も気になったので見に行きました。
東京からの大移動。ちょうど日が暮れるころ仙台に到着。今日の宿は仙台市内のスーパービジネスホテル(じゃらんのクチコミNo.1)。アメニティプレゼントなど女性向けサービスも大充実でした。ダブルベッド+ロフトに3人でぎゅうぎゅうになりながら泊まりました。
行かなければ本当のことは分からないと聞いていたし思っていたけど、ここまでとは。福島の現状に大きなショックを受けています。どうなっていくんだろう。未来が見えんぞ。
今日はここまで。
<オマケ>
せっかく仙台に来たので牛タンを食べた。食べ物をめぐって罵り睨み合う両親。お願いだから仲良くしてほしい。