先日のブログで 妙高山に登ってきました。と報告していましたが
正式には 「御剣祭 南方山(妙高山代参登山)」に参加してきました。
(南方位山、または 南方位登山)
通称「なんぽいさん」「なんぽうさん」「なんぼいさん」などとも呼ばれている。
この「御剣祭 南方山(妙高山代参登山)」とはどういったものなのか?
元亀元年(1570年)に上杉謙信公は領内の人々の家内安全・商売繁盛・五穀豊穣・子孫繁栄を
南方の妙高山に祈願することを思い立った。
そこで林泉寺の和尚に「倶利伽羅梵天尊像」の竜旗を下賜して代参を依頼した。
謙信公は道中を守る役目を春日山城の大手を鎮める春日神社(現在は本町1)の氏子を決め
領内各村から一名の代表者が竜の小旗を持って従うように命じた。
その総数1359本という。
つまり当初は少なくても1359人が一緒に妙高登山を行ったわけで
凄い規模だった。
現在の富士山登山のように登山道はさぞかし渋滞となっていただろう。
以来、謙信公の代参登山として江戸時代末までは各村に伝統として残っていたらしいが、
だんだんと減り、近年は本町1丁目の春日神社の氏子が中心となって行っているのみだ。
つまり、上杉謙信公時代から続く超伝統的な行事なのである。
来年の2014年は高田城開府400年を迎えるが
本町1丁目の春日神社はその1年前に分霊し移ってきた。
つまり1年早く400年を迎えているわけで
南方山が春日神社の氏子に伝わって
今年は400回という記念の年でもあるのだ。
行事は毎年7月22日~23日にかけて行われる。
以下は密着レポートとしてお届けする。
7月22日 朝9時 春日神社にて出立祭(いでたちさい)
その後、荒町(大和3丁目)の歓喜堂まで歩く。
参加者は、白行衣、「南方登山」と書かれた鉢巻、すげがさ、腰に鈴を付けたスタイル。
10:30 水谷家 歓喜堂にてお参り。
「妙高山参上唱歌」を唄う。
水谷家 歓喜堂に寄る理由はこうである。
「江戸時代に代参一行が関山村の人と争って殺してしまい大騒ぎとなってしまった。
その騒ぎを水谷家のとりなしで解決したという。
それ以来、水谷家に寄って無事代参することを誓い、帰路には報告することになった」
歓喜堂からマイクロバスで移動。
途中関山神社に寄り参拝。
お昼ごろには 燕温泉に到着。
お昼を食べて 午後からは深夜の登山に備えて基本的には仮眠をする。
ただ仮眠の前に自分は 燕温泉の露天風呂をはしごした。
↑「河原の湯」と ↓「黄金の湯」 乳白色が素晴らしい。
今の時代はマイクロバスで燕温泉まで移動できるが
バスが無い頃は 関山駅まで汽車で移動し燕温泉まで歩いてきたという。
さらにそれ以前はすべての行程を歩いていったとの事。
昔はよく歩いたんだなぁ。
夕食前に「妙高山参上唱歌」の練習。
午後6時夕食。
この日、初対面の方も多いので自己紹介なども。
午後8時就寝。
だが、全く眠れない。
深夜の登山に備えて眠らなくてはとは思うのだが
さっぱり眠れない。
午後11時起床。
やっと眠りかけた頃にセットしていた携帯の目覚ましが鳴る(涙)
しばらく放心状態。
動けない(笑)
さぁ、深夜0時に向け急いで身支度。
いよいよ登山開始である。
(2日目へ続く)
正式には 「御剣祭 南方山(妙高山代参登山)」に参加してきました。
(南方位山、または 南方位登山)
通称「なんぽいさん」「なんぽうさん」「なんぼいさん」などとも呼ばれている。
この「御剣祭 南方山(妙高山代参登山)」とはどういったものなのか?
元亀元年(1570年)に上杉謙信公は領内の人々の家内安全・商売繁盛・五穀豊穣・子孫繁栄を
南方の妙高山に祈願することを思い立った。
そこで林泉寺の和尚に「倶利伽羅梵天尊像」の竜旗を下賜して代参を依頼した。
謙信公は道中を守る役目を春日山城の大手を鎮める春日神社(現在は本町1)の氏子を決め
領内各村から一名の代表者が竜の小旗を持って従うように命じた。
その総数1359本という。
つまり当初は少なくても1359人が一緒に妙高登山を行ったわけで
凄い規模だった。
現在の富士山登山のように登山道はさぞかし渋滞となっていただろう。
以来、謙信公の代参登山として江戸時代末までは各村に伝統として残っていたらしいが、
だんだんと減り、近年は本町1丁目の春日神社の氏子が中心となって行っているのみだ。
つまり、上杉謙信公時代から続く超伝統的な行事なのである。
来年の2014年は高田城開府400年を迎えるが
本町1丁目の春日神社はその1年前に分霊し移ってきた。
つまり1年早く400年を迎えているわけで
南方山が春日神社の氏子に伝わって
今年は400回という記念の年でもあるのだ。
行事は毎年7月22日~23日にかけて行われる。
以下は密着レポートとしてお届けする。
7月22日 朝9時 春日神社にて出立祭(いでたちさい)
その後、荒町(大和3丁目)の歓喜堂まで歩く。
参加者は、白行衣、「南方登山」と書かれた鉢巻、すげがさ、腰に鈴を付けたスタイル。
10:30 水谷家 歓喜堂にてお参り。
「妙高山参上唱歌」を唄う。
水谷家 歓喜堂に寄る理由はこうである。
「江戸時代に代参一行が関山村の人と争って殺してしまい大騒ぎとなってしまった。
その騒ぎを水谷家のとりなしで解決したという。
それ以来、水谷家に寄って無事代参することを誓い、帰路には報告することになった」
歓喜堂からマイクロバスで移動。
途中関山神社に寄り参拝。
お昼ごろには 燕温泉に到着。
お昼を食べて 午後からは深夜の登山に備えて基本的には仮眠をする。
ただ仮眠の前に自分は 燕温泉の露天風呂をはしごした。
↑「河原の湯」と ↓「黄金の湯」 乳白色が素晴らしい。
今の時代はマイクロバスで燕温泉まで移動できるが
バスが無い頃は 関山駅まで汽車で移動し燕温泉まで歩いてきたという。
さらにそれ以前はすべての行程を歩いていったとの事。
昔はよく歩いたんだなぁ。
夕食前に「妙高山参上唱歌」の練習。
午後6時夕食。
この日、初対面の方も多いので自己紹介なども。
午後8時就寝。
だが、全く眠れない。
深夜の登山に備えて眠らなくてはとは思うのだが
さっぱり眠れない。
午後11時起床。
やっと眠りかけた頃にセットしていた携帯の目覚ましが鳴る(涙)
しばらく放心状態。
動けない(笑)
さぁ、深夜0時に向け急いで身支度。
いよいよ登山開始である。
(2日目へ続く)