科学が確実な答えを提供できないとき、民主主義は事実に無知な人々が理解できないことについて勝手な判断を下すのに2番目に適した舞台、政治に頼る傾向がある(政治家はこういうときに1番適した舞台である市場を信頼することをいつも嫌っている)。エネルギー政策はあまりにも重要で、テクノクラートには任せておけないというわけだ。日本ではこうした論争の前例がなく、現在まとめられている国会事故調の報告は非常に興味深い。これまでの構図は、経済産業省の官僚たちが作り上げたエネルギー政策を国会が安易に承認するというものだった。低料金や安全性よりも電力の安定供給とエネルギーの輸入依存からの脱却が優先されてきたのである。しかし、あの大事故を経験した今、国会事故調の結論がどのようなものであれ、その報告書が物議を醸し続けることはほぼ確実である。国内の原発54基中の2基を再稼働させるという政府の決断も同様に物議を醸すことになるだろう。昨年の事故後、国民の激しい反発もあり、国内の原発は定期検査のために次々と稼働を停止し、再稼働できない状態が続いていた。遅きに失した感もあるが、原子力が日本のエネルギーミックスに占める割合が、ついに政治的な問題になったのである。福島の原発事故がきっかけとなり、他のさまざまな観点においても、日本で初めて有意義なエネルギー論争が起きている。東京電力の運命も大論争の1つとなっている。苦境に立たされた東電の株主たちは、6月末に開かれた株主総会で、1兆円の公的資金注入と引き換えに政府に50%超の議決権を与えるという計画に同意した。かつては東電の幹部と名目上の監督役である官僚のあいだに静かな共謀があったが、それが今や騒々しい政治的な問題になってしまった。(WSJ・記事からの抜粋)
数日、わたしはいつものポジションを外してみた。自由気ままな時間と多少の「特別な仕事」に身を置いてみた、視界が不思議に開ける、僅かですが可能性も見えてきた。これは、個人的なことですが・・・いつものポジションに戻ってみると・・・すべてが元のように見えるわけでもない。
ここに引用したのは、ウオール・ストリート・ジャーナルの記事ですが、このような切り口はあまり見られない。全てを転記するには長すぎるので一部になりますが、なかなか的確で「先の見通せる(示唆ある)内容」であり、読ませるものです。廃炉にするにしても、「核のゴミ」の「最終処分場」すら決まっていない現状では、「再稼働」と言っても「戸惑うばかり」です。日本政府は、世界に明確な発信をすべきです。「知性」を感じられる「発言」こそが、論争の起点になるのですから。
