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中川輝光の眼

アトリエから見えてくる情景
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桂文楽+林家正蔵+三遊亭圓生+柳家小さんの「落語芸談」

2012-04-20 | 本の紹介

桂文楽+林家正蔵+三遊亭圓生+柳家小さんの「落語芸談」

昭和43年冬に企画され、当時円熟の八代目桂文楽+八代目林家正蔵+六代目三遊亭圓生+五代目柳家小さんの芸談(明治・大正・昭和初期の咄家の日常生活や古典落語について収録)をまとめられたのが、本書「落語芸談」(三省堂昭和51年出版)です。現在では稀少本ですが、この頃のわたしは「落語好き」の学生でして、こういった本や落語のレコードなどをずいぶん買っていました。なにせ咄家の会話(芸談)ですので、日常が手に取るように分かるのです、空気感まで、いわゆる臭うように家のうち外まで見えてくるのです。会話に出てくる人もすごいのです、わたしの好きな人達が次々とね、徳川無声さんも出てくるのですからすごい・・・当時のわたしは頭の中が老けていた(ふやけていたのではない)のです・・・。みなさん「故人」になってしまいましたが・・・わたしは時折、この人たちの「落語」をレコードで聴いております・・・目を閉じてね。

         

 


「マヤコフスキイ・ノート」の紹介

2012-03-02 | 本の紹介

「マヤコフスキイ・ノート」の紹介

このブログでも幾度か書いていますが、暇な時間を使い、レコードや本の整理整頓をしています、それが2年ばかり続いています。「マヤコフスキイ・ノート」、このような本が紛れていることも珍しくない、詩人マヤコフスキイの名を目にすることもなくなった・・・このようなときに、時代感覚が大きく変わってしまったことを「再認識する」のです・・・政治に落胆する「詩人の姿」を想う。1930年4月14日、「ロシア・アバンギャルド(未来派)」の旗手マヤコフスキイのピストル自殺、以降、その生涯は、ロシアの「戦争と革命」の時代に「革命詩人」として象徴的に扱われている。歴史は俯瞰であり、その姿の「本質」は見過ごされる・・・わたしのアトリエに、マヤコフスキイの写真が飾られている、その「誠実な姿」が見て取れる。

          

 


「身体のエステティク」池澤康郎著(ポーラ文化研究所)の紹介

2012-02-02 | 本の紹介

「身体のエステティク」池澤康郎著(ポーラ文化研究所)の紹介

「身体のエステティク」池澤康郎著(ポーラ文化研究所)を、紹介します。ここ数年、わたしの蔵書を整理整頓しているのですが…これがなかなか楽しい…時間がかかる。1980年代に出版された本が多い、この本もそうですが「美意識」の周辺を買っている、表現技法に迷いが見られた時期です。映画を見ていた時期と重なる。30歳前後で、制作時間が思うように取れなく、「銅版画」(美しい線描にこだわっていた)に傾斜していた頃でした。この「身体のエステティク」に、上村松園の葵上(生き霊)を描いている「焔」を取り上げている…「嫉妬の炎~淡く垂れ下がる髪~S字によじる足元に達する」…。上村松園の絵から受けるイメージよりも、池澤康郎の言葉から受ける連想が、わたしの表現技法を少しづつ変えていた。ビュランが銅板を削り切る作業が滑らかになった、エッジの美しさが評価された時代でした。しばらくして、わたしは「油絵」に戻ることになりますが、苦しい思いと共にあるのがこの本です。

        

 


山折哲雄著「鎮守の森は泣いている」の紹介

2011-12-12 | 本の紹介

山折哲雄著「鎮守の森は泣いている」の紹介

宗教哲学者山折哲雄さんの「鎮守の森は泣いている」(2001年刊)に…「共生」から「共死」の発想へ…がある。「共生」の理論の背後に、「生き残り」の理論がある。困難な状況の中で、我々のみ何とかして生き残りたい、そういうエゴイズムがある。「我が国の経済は、我が国の政治は、どのようにしたら生き残れるのか」、経済・政治だけではない、言葉を変えて、全てに当てはまる、「共生」の大合唱である。「人間は共に生きて、共に死ぬ」という考えに立ってみる、すると今まで見えなかったものが見えてくる。多くの人が死ぬ運命に置かれたとき、人は我も共に死のうと思う・・・そのようなことが書かれている。「東北を襲った震災」にわたしたちは大きな「喪失感」を覚えた、日本人独自の「死生観」が作用しているようにも思えた。…「共生」から「共死」の発想へ…は、わたしたちへの「警告」かもしれない。

         

 


「ゲーデル・エッシャー・バッハ」の紹介

2011-11-11 | 本の紹介

「ゲーデル・エッシャー・バッハ」の紹介

「数学-幾何が好きでね」、気どったもの言いをする人がいる。絵かき仲間には、数学好きが多い。さほど意外ではない、わたしもその一人ですから。ダンテの「新曲」(このブログでも紹介しましたが)を原語で読もうと試みたのも、その数学的韻律に惹かれたからにほかならない。この「ゲーデル・エッシャー・バッハ」は、好奇心を擽る「宝箱」のような本です。高等数学はパズル(時間のかかる遊び)のように面白く、解くほどにそれら断片は視覚的にも美しい。今日の政治を含めた「日常社会」を眺めてみても、その「問」に対する「解」が歪んでいて、誠に美しくない。物事の真理は美しいと信じたい、「問」も「解」もほんらい崇高なものであって欲しい。人が真剣に問いを発し、解を求めるのであれば、少なくとも「歪み」はあってはならない。数学は美しい、正解は「崇高」ですらある、比して政治は半ば「計算」はするもののその結果たるや惨憺たるものである、何故か。・・・割り切れないからだ。

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「火消し風俗伊達姿浮世絵版画」(1985年芳賀書店版)の粋

2011-11-09 | 本の紹介

火消し風俗伊達姿 ― 浮世絵版画(1985年芳賀書店版)

「火事と喧嘩は江戸の華」、世界有数の大都市「大江戸」は、成熟した文化と裏腹に火災が頻発した都市でもある。そこで活躍したのが、大名火消し(加賀藩・加賀鳶の喧嘩騒動話は有名)や町火消し「いろは四十八組・深川十六組」であった。火災騒動で印象深いのは、歌舞伎の「伊達娘恋緋鹿子」、八百屋お七が狂乱状態で櫓の半鐘をうち鳴らす場面、炎に包まれた鐘を打つ娘の振袖と散る桜、その艶やかさがいつまでも目に残っている。江戸文化とは不思議な文化でもある、喜怒哀楽の襞に「美意識」が密やかに育っている、粋でいなせな文化もそこで育まれたものに相違ない。この本に収められている多くは「浮世絵版画」、そういった江戸のエスプリ(精神文化)にわたしたちは魅
されるのである。

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「ヴァティカン壁画」(講談社)の紹介

2011-11-08 | 本の紹介

ヴァティカン壁画 講談社版 の紹介

ローマの中心市街に、ヴァティカン市国があります。そのヴァティカン宮殿に入ると、15~17世紀イタリアルネサンスの最も優れた画家・彫刻家の作品を見ることができます。ミケランジェロの「最後の審判」(システィナ礼拝堂)の壁画がとりわけ有名ですが、ラファエロの「聖体の論議」「アテネの学堂」など、数多くの美しい壁画を見ることができます。これらを詳細に撮影し、一冊の美しい本に収めたのが「ヴァティカン壁画」(講談社版1500部限定)です。ミケランジェロの「最後の審判」は、洗浄して(長期にわたり観ることができなかtった)描いた当初の状態に戻りました。わたしは幸いに、洗浄前と洗浄後の両方を見ています。この画集は洗浄前に撮られた写真をもとに編集しています、どちらかというと「くすんだ状態」と言っていい。しかしながら、画集としての価値は損なわれてはいない、むしろ情緒的に見れば豊かな味わいすら感じられる、「古書としての尊厳」が付いたのかもしれない。

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美しい書籍 ドレ画 ダンテ「神曲」仏語版

2011-11-06 | 本の紹介

 美しい書籍 ドレ画 ダンテ「神曲」仏語版

『神曲』は、地獄篇 (Inferno)煉獄篇 (Purgatorio)天国篇 (Paradiso)の三部から構成されており、各篇はそれぞれ34歌、33歌、33歌の計100歌から成る。また詩行全体にわたって、三行を一連とする「三行韻詩」あるいは「三韻句法」の詩型が用いられている。各行は11音節から成り、3行が一まとまりとなって、三行連句の脚韻が aba bcb cdc と次々に韻を踏んでいって鎖状に連なるという押韻形式である。各歌の末尾のみ3+1行で、 xyx yzy z という韻によって締めくくられる。したがって、各歌は3n+1行から成る。このように、『神曲』は細部から全体の構成まで作品の隅々において、聖なる数「3」が貫かれており、幾何学的構成美を見せている。ダンテはローマカトリックの教義、「三位一体 」についての神学を文学的表現として昇華しようと企図した。すなわち、聖数「3」と完全数「10」を基調として、 1,3,9(32),10(32+1),100(102,33×3+1) の数字を『神曲』全体に行き渡らせることで「三位一体」を作品全体で体現したのである。地獄、煉獄、天国の各篇とも、最終歌の末節は星 (stella) という言葉で結ばれている。

 『神曲』は、以降多くの人に読まれてきました。とりわけ、ダンテの『神曲』は「美しい書籍」として、多くの国でさまざまに解釈(出版)されてきました。わたしも幾冊か所有していますが、ドレの挿絵(小口木版画)が多数入っているフランス版はとりわけ装丁が美しい、美術品といっていいぐらいです。このように美しく韻律のある「物語」は、文学の垣根を越え、舞台芸術や美術・音楽の領域に大きな影響を与えてきたのです。ダンテの力量も優れたものですが、このドレの挿絵も美しく、この両者の才能がこのように響き合う雄弁さは、他の本には見られないものです。

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異端浮世絵師「月岡芳年」の狂気

2011-09-23 | 本の紹介

異端浮世絵師「月岡芳年」の狂気

「月岡芳年」は、江戸から明治期に活躍した浮世絵師です。絵描きは時代を見つめるのが仕事故、その変化にも鋭敏に反応する。とはいえ、この月岡芳年の絵の凄まじさといったら「時代の反映」などという表現では収まらない、これは「狂気(凶器)」である。匂い立つ「血飛沫」とエロチシズムが画面を覆う、躍動感すらあるそのリアルさに、目も心も奪われるのである。江戸川乱歩も三島由紀夫をも虜にするほどの「圧倒的な魅力」がそこにはある、と言っていい。「浮世絵」という表現形式特有の収まりがなければ、とうてい収まり様がないほどにそれらは生き生きとしている。いや、生死の壁を力づくで砕いてしまうエネルギーすら感ずる、「残忍」とすら思えるのである。いや、むしろ「狂気」「怪奇」が闊歩する時代に、月岡芳年はすべてを眼にしたのかもしれない。

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秋岡久太著「亜空間」を読む

2011-08-22 | 本の紹介

秋岡久太著「亜空間」を読む

秋岡久太さんの個展「亜空間」(大阪・心斎橋)を訪れたのは2001年3月ですから、ずいぶん以前になる。その時に、「読んでみてください」と言われ、手渡されたのが著書「亜空間」です。わたしたち絵描きにとって、この本に書かれている「現象」の多くは、身近な経験のなかで承知していることでもあり、殊更の感慨を持ち得なかった。先日京都へ行った折に、友人から秋岡久太さんの話題に触れこともあり、この本のことがふと気になり・・・(時を経て)ここに載せることにしました。わたしには「空想癖(かなり重症)」があり、錯覚(思い違い)や錯視(見間違い)から異質な世界(物語)へ迷い込むこともある。わたしにとって、「創作行為の源泉」かもしれないと・・・実際には「弊害」も多いのですが・・・この本に書かれていることが、その「源泉」への入口を閉ざすことにつながると危惧したのかもしれない。わたしにとって、「好奇心」や「意味不明の快感」「理解できない恐怖」などは、創作のきっかけ(入口)でもあるのです。目に見える世界と目には見えないものの「かもしれない世界」とは、わたしには既に区別がつかない状態にある。口の悪い友人は「それをボケ老人という」などと・・・「確かに目は朦朧とし、意味不明なことをいつも考えている」・・・しかし、まだ「わたしは明晰である」、そう思いたい(これも錯覚かもしれないが)。秋岡久太さん、ありがとう、お元気ですか。