
徳富蘇峰の「支那語録」
支那における諸般の問題は、ただ利の一事を以って解釈するを得べし。人間万事利のために動き、利によりて動き、利に向かって動く。もし支那人をして、一生懸命ならしむるものあらば、それは君父のためにもあらず、国家のためにもあらず、宗教のためにもあらず、ただ自己の利のためなり。
利のためならば、臆病なる彼らも、勇者と相成り候。利のためならば、怠惰なる彼らも勉強家と相成り候。利のためならば、命をも捨て候。
支那人と日本人とは、決して同じものではない。根本的に違うというこの見地からして、すべての外交政策なり、或いはすべてのことを創出させなければならないと思う。
朝鮮も俺が属国だとこう言っている。さうして責任を問われる時には、朝鮮は独立国だと言っている。人がやかましい問題にすると、俺の物ではないと言っている。人が立派に整理して物が出来上がった時には、これは俺の物だから戻してくれと言っている。実に余りに虫が良すぎるのであります。
支那人は黙っていれば、如何なるものでも巻き上げようとしている。支那人に言わせれば、九州もこれは上海に近いから俺の領地だと言うかも知れない。明の永楽帝は吾が阿蘇山に台安鎮国山という名前をつけております。この調子だと富士山にでも、或いは支那人が何とか言う名称をつけるかも知れません。実にこれは虫のいい国としては世界第一であります。この虫のいい支那人と競争し得るのは、ただ隣国のひとつの米合衆国だけであります。それで両国はなかなか仲が良い。