Colors of Breath

★オリジナルソング・絵・詩・写真・猫・心ブログ('07.11.4開始)★『Breath』音楽活動('11.9.4開始)

COLORSも16年目。

◆私のオリジナルソングを公開しています。(ヘッドホンorイヤホン推奨)◆世界に於ける日本の役割は原発技術を広めることではなく、自然エネルギーの活用技術を広め世界を牽引することじゃないのかと思う。◆イジメとジサツと…イジメがなければその子がジサツしない可能性は?限りなく100%に近いと思う。

デッサン24(人体骨格№2~①骨)

2008-06-21 21:12:15 | 7.hiiroさんのデッサン他

【緋色】ジャッカーhiiro→参上!3点連作(7時間30分)です。

人体骨格№2~①骨デッサンです。(画用紙、鉛筆)

後日この上に、筋肉と皮膚外観をトレーシングペーパーに描いて重ねていきます。

 

 

 

 

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グスタフ・クリムト

2008-06-21 19:50:17 | 17.I meet art.です。

ちょっと見慣れないクリムト作品を集めてみました。(ページ下)


PCの画像データに、いつかまとめようと放り込んだまま、あっという間に数ヶ月がたってしまいました。
一般的には、エロス溢れる絢爛豪華な印象の女性を描いたものが有名なグスタフ・クリムト作品ですが、エロス溢れる印象とは裏腹にポスター的なクールさを感じる画面に、私個人は好きな作家でもありながら、反面何だか煮え切らない消化不良を感じていたりもしました。今回彼の作品が多数収納された作品集を見る機会があり、思いの他面白く、彼の一般的に有名な作品群とは画風の違うものが私の興味を引き、クリムトをお好きな方々もあまりこのような作品を目にした事はないのでは?と思い、採り上げたわけです。どうぞご覧下さい。

(宜しければこちらの過去記事もどうぞ。『クリムトさんって、こんな顔(過去記事)』



グスタフ・クリムト(Gustav Klimt)
1862年7月14日-1918年2月6日、帝政オーストリアの画家

グスタフ・クリムト(1908)       『ユディトI』1901年                              

(左:グスタフ・クリムト(1908)、右:『ユディトI』1901年)



グスタフ・クリムトは1862年にウィーン郊外のバウムガルテンにて、ボヘミア出身の彫版師エルンスト(父)と地元ウィーン出身のアンナ(母)とに間に、7人兄弟の第2子として生まれた。

7区の小学校で学んだ後、1876年に博物館付属工芸学校に入学し、石膏像のデッサンや古典作品の模写を中心とした古典主義的な教育を受けた。(後に弟のエルンストとゲオルグもこの学校に学び、それぞれ彫刻師、彫金師となってクリムトの作品を飾る額の設計をおこなっている。)

1879年にクリムトは弟エルンストおよび友人のフランツ・マッチェと共に共同で美術やデザインの請負を始めて、ウィーンの美術史美術館の装飾の仕事などを行っている。

卒業後に3人は芸術家商会 (Kuntslercompagnie) を設立し、劇場装飾を中心とした仕事を手掛け、1886年から1888年までウィーンのブルク劇場の装飾を引き受けており、この功によって後に金功労十字賞を授与されている。

1888年にウィーン市からの依頼を受け製作した、観劇する当時のウィーン社交界の人々を正確に描いた『旧ブルク劇場の観客席』は、第一回皇帝賞をうけるなど高く評価された。この作品によりクリムトはウィーン美術界における名声を確立した。
           *『旧ブルク劇場の観客席』は一番下の外部リンク先に作品があります。

1891年にウィーン美術家組合に加入し1893年に早くも美術アカデミー教授への推薦をうけたが、任命されることはなかった。(翌1892年には父と弟のエルンストが死去している。)

1894年、すでに装飾家として名声を得ていたクリムトはウィーン大学大講堂の天井画の制作を依頼される。『哲学』、『医学』、『法学』の3部からなる『学部の絵』と名づけられたこの天井画は、人間の知性の勝利を高らかに歌いあげるという依頼者が意図したテーマに反し、理性の優越性を否定する寓意に満ちたものであり、その是非をめぐり大論争を引き起こした。1896年に提出された構成下絵を見た大学関係者により行われた抗議は一旦は沈静化したものの、1900年と1901年に『哲学』および『医学』がそれぞれ公開されたことで論争が再燃し、帝国議会において依頼主の文部大臣が攻撃される事態にまで発展した。あまりの論争の大きさにクリムトは契約の破棄を求め、事前に受け取った報酬を返却した。
      *『医学』はこちらのリンク先に作品があります。→こちらをクリック

美術館および個人に売却された3枚の絵は後にナチスによって没収され、1945年にインメンドルフ城において焼失している。

1897年、この事件をきっかけとして、保守的なウィーン美術家組合を嫌った、古典的、伝統的な美術からの分離を標榜する若手芸術家達によってウィーン分離派が結成された。クリムトが初代会長を務めている。

1902年にクリムトとは、分離派により開催されたベートーヴェン展に大作『ベートーヴェン・フリーズ』を出品した。この作品は長年行方不明となっていたが、1970年にオーストリア政府により買い上げられて修復を受け、現在では分離派会館に展示されている。
       *『ベートーヴェン・フリーズ』は一番下の外部リンク先に作品があります。

翌1903年の第18回ウィーン分離派展ではクリムトの回顧展示が行われた。この展覧会ではじめて出品されたのが、当時のクリムトが置かれた状況を映し出す「人生は戦いなり(黄金の騎士)」(1903、愛知県美術館蔵)である。
        *『人生は戦いなり(黄金の騎士)』は下に作品があります。

1903年にヨーゼフ・ホフマンらによって設立されたウィーン工房にクリムトは強い関心を示していたが、この団体に対しては美術の商業化であるとの批判が分離派内部からもなされていた。
1905年、写実派と様式派による対立、国からの補助金停止などが重なり、クリムトとその同士は分離派を脱退し、翌年オーストリア芸術家連盟を結成した。

1910年代には作品も少なくなり、1918年ウィーンで死去した。

                                   (ウィキペディアより抜粋)



以下クリムトの作品ですが、敢えて、あまり見慣れないものを選びました。
有名な作品群とは画風が随分と違い、とても新鮮です。

うっかりタイトルを控えておくのを忘れてしまい、作品名の分からないものが沢山あります。
ご了承ください。






 








③カルロスの衣装をまとった俳優ジョセフ・ルインスキー(1895年) 





④ソーニア・クニップスの肖像(1898年)






⑤フリッツァ・リードラーの肖像(Bildnis Fritze Riedler)1906年


 







⑦ 



 

 

⑧(左)
⑨(右)エウジェニアー・ブリマヴェージの肖像(1913~14年)


 

 

⑩人生は戦いなり(黄金の騎士)(1903年)



 


⑪ひまわりの園(1905~06年)
この作品はじーっと見ていると色んな花が見えてきます。
最初は絵の具の線や筆跡(マチエール)がくっきり見えてたのに、
見慣れてくると花がとても写実的に見えてくるのが不思議。好きな絵です。

 

 


⑫白樺の森(同じタイトルの作品がいくつかあります。)


 

⑬ ブナの森(同じタイトルの作品がいくつかあります。)
この作品を知ってから、こういう景色がとても素適に見えるようになりました。
地味ですが好きな作品です。





 






この絵もほのぼのしていて好きです。



 


 



 

 

 

 



 


 



 

下のリンクに、丁度私が選んだ作品群とは対照的な、
有名な作品ばかりを集めて興味深い解説が添えられたサイトがありました。
とても美しく、解説も詳しいです。
どうぞ覗いてみて下さい。

グスタフ・クリムト



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