Colors of Breath

★オリジナルソング・絵・詩・写真・猫・心ブログ('07.11.4開始)★『Breath』音楽活動('11.9.4開始)

COLORSも16年目。

◆私のオリジナルソングを公開しています。(ヘッドホンorイヤホン推奨)◆世界に於ける日本の役割は原発技術を広めることではなく、自然エネルギーの活用技術を広め世界を牽引することじゃないのかと思う。◆イジメとジサツと…イジメがなければその子がジサツしない可能性は?限りなく100%に近いと思う。

美しい静物画

2013-01-19 21:46:57 | 17.I meet art.です。

またまた寒い週末となりましたが、
皆様、風邪をひかずにお過ごしでしょうか。
インフルエンザが随分流行っているようです。
どうぞお気をつけ下さいね。

下の絵とってもすてきでしょう?
今日は個展のご紹介をしたいと思います。



上の写真の左下の文面拡大

 



三浦賢一油絵展

会期 1月17日(木)〜23日(水)
会場 池袋 東武 6F 1番地 美術画廊

ご注意※23日の最終日は午後4:30閉場です。


(※上記画像および文章の無断転載を禁止します。)


こちらは私がたまたまブログのご縁の繋がりで知った、
現在ウィーンに住まわれて活動している画家さんです。

私は始めてこの方の絵を見た時、
その美しさに一目惚れをしました。

今回その画家さんがなんと!東京で個展を開いております。
素晴らしい絵と皆様の出会いを作らないのは、
絵の好きな私としてはとても罪作りなことに思えて、
今回、当ブログでご紹介させて頂くことにしました。

___________________________________

______________________________________

お近くの方や絵のお好きな方は是非足を運んで、
この繊細でありながら凛とした存在感のある、
洗練された美しい油絵をご鑑賞してみてはいかがでしょうか。

ブログはこちら

A STILLIFE PAINTER IN VIENNA  ウィーンの静物画家




こちらもよろしくね。
ただいまBreathの新曲『空色のレター』を
muzieに公開しています。
↓クリック↓

  空色のレター 

アーティストカードは、
青い空と白い雲をバックに、
小さな愛と夢と希望と勇気のシャワーを
カラフルにイメージしました。

Breathアーティストページ

『空色のレター』をあなたのもとへ届けます。

    

以下は私が作詞作曲&歌担当している
音楽ユニットBreathの楽曲です。
(上のアーティストページに公開している楽曲です)
ギタリストchar312さんと一緒に、音楽作ってます。
タイトルをポチッとすると聴くことができます

【Breath楽曲リスト-muzie】

白い聖夜
 The 4th Sunday,September
~あなたに会えない日曜日

誰かのために
BREATHING
摂氏34度の情景
孤独な旅人
DEMONSTRATION(Rock)
ずっとこのまま
Cream Color in Spring
May Line
みっつめの卒業式
3月の私はWETTISH
CAPRICCIO 

曲ごとのイラスト(ichii作)が楽しめるYouTubeも
どうぞご視聴下さい。

★アカウントをお持ちの方は登録してくれたら嬉しいです。

Breath - YouTube

曲は、ヘッドホンorイヤホン推奨です。
ichii、char312、hiiroさん愛用の、
リーズナブルなヘッドホン(3000円台
&イヤホン(1000円以内)情報(過去記事)です。

参考になれば幸いです。
ヘッドホン&イヤホン

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そんな気持ちで四葉のバナーを作ってみました。

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更にお付き合いいただける方は引き続きどうぞご覧下さい。

以下のリンクに、ブログでご縁を頂いた
ステキな書家とピアニストの皆さんの動画があります。
とてもステキなので、是非、ご覧になってね。
↓ ↓
2013年1月1日の空 - COLORS~Colors of Breath


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カニ&エリマキトカゲ、宇宙の旅

2009-03-06 20:00:40 | 17.I meet art.です。


The word“origami”has spread throughout the world
and today it is understood by many people.

 


我らの世界は無限じゃ~!

折り紙星雲難易度3クライ?星から来たカニ星人エリマキトカゲ星人

 


写真の作品はhiiroさんが作ったものです。(オリジナルではありません。) 

昔から結構折り紙が好きで、家に折り紙の本が5冊ほどあります。
幼児や子供対象の初歩の簡単なものから、
連鶴やクス玉、伝承折り紙など難易度の高いものまで。
でもめっきり近頃触れることはなく、
折り紙作品を目にすることもなかったのですが、
この前hiiroさんが、ひょっこりこんなものを持ってきました。
hiiroさんも折り紙好きでかなり手先が器用で、このレベルは楽勝だったとか。
「もうちょっと難しい方がいいな」と少し物足りなそうでした。

そのあと友人の誕生日プレゼントと一緒にカード代わりの飾りにするんだと、
上記写真のカニをHAPPY BIRTHDAYの文字に添えて紐に連ね、
『連カニ』(相手が蟹と密接らしい)をつくっていました。
貰った人の顔を想像すると楽しいですね。
きっと喜んでくれたことでしょう。
hiiroさん、面白すぎる。 

 

ステキな折り紙サイトがたくさんあったので貼っておきます。
上の2点の作り方はわかりませんが、興味のある方はどうぞ。


おりがみくらぶ(おりがみの折り方をアニメーションでみれる)

ターバン野口の世界(あのお札を使った折り紙)

ある折紙創作家の頁(昆虫、ドラゴン等、神谷哲史の世界)

折り紙 置き場(藤倉 敦夫HP。国内、海外の折り紙作品紹介)

ぷぅぷぅ村のくすだま工房(Mio Tsugawa による創作くすだま作品を紹介)

cochae コチャエ(折り紙グラフィックユニット)

折り紙の折り方.com(鶴や動物・植物、季節のイベントごとの折り紙を紹介)

ATELIER Silver-Hobby(花、ボックス等の折り紙作品の紹介)

折り紙 おりがみ 昆虫 insects(昆虫を中心とした折り紙作品の紹介)

川合工房(切り折り紙の説明。動物、鳥、昆虫等の作品紹介)

折り紙計画(動物を中心とした作品の紹介)

折り紙フラワー(折り紙で作る花の作品集)

Origami-Ya(六角箱、八角箱等の折り紙作品を紹介した写真付きブログ)


 

 

上記サイトの掲載ページはこちら
工芸 > 折り紙 - Yahoo!カテゴリ



多分あまり大っぴらに公開しちゃいけない気がするので、
見たい人だけクリックでどうぞ。
細部が分かるように大きい画像にしてあります。


エリマキトカゲ(クリックで作り方図 №1/№2
写真をクリックして頂くとさらに大きくなります。



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岸田劉生「道路と土手と塀(切り通しの写生)」

2009-02-23 20:10:43 | 17.I meet art.です。

 

 

岸田劉生「道路と土手と塀(切り通しの写生)」

****************************

小学校の頃、給食のない土曜日はよく近道をしました。

自宅までの指定通学路は学校の校門を出て直進1km、
そこから左折して1kmで、さらに左折して200mほど行った処に、
私の住む小さながありその村の奥に自宅がありました。

帰路の近道は校門を出て300m程行った地点から左へ折れ、
獣道から農道に続く秘密の抜け道を辿るというものでした。
その道に入るとすぐに藪を掻き分けなければ通れないような、
人が通っているのかどうかも分からないような道が少し続きますが、
すぐに田畑が開け耕運機なども容易に通れる広さのメイン道路に繋がります。
後はその、地面と空の境界線を押し広げるように緩い上り坂を直進して行くと、
村の私の家まで数十メートルという交差点に辿り着くのです。

通常なら重いランドセルに押し潰されそうになりながら空腹を堪え辿る、
子供の足で40分は掛かる通学路と名の付く2km以上の道ですが、
近道をすると1.5km位に短縮され、10分以上も早く空腹から開放されるのです。
時にトイレを我慢している事もあり、この場合通学路を通れば、
最悪よそ様のトイレをお借りする他ないのですが、
近道の場合は先ず人の目がないので、自然の開放感を味わいながら
済ますなんてこともありました。それは余談ですね。

そんな近道の雑木林を分け入る藪道が農道と繋がり、
その一本道が高台にある私の村へ続き、
穏やかに遠くへうねる田畑の景色に変わる瞬間、
地面と空の境界線を押し広げる様に緩やかな坂を登りきった瞬間、
それが実にこの絵にそっくりなのです。

岸田劉生「道路と土手と塀(切り通しの写生)」

確か、初めてこの絵を目にしたのは、テレビでした。
テレビ画面に映しだされた絵の赤土の色、右の土手の影、空の色、
それは正しくあの頃の、私の記憶の中に鮮明に焼きついている、
耕作される前の田畑が眼前に開ける瞬間のときめきとリンクする景色でした。

左手の塀を取り払った(この絵には重要な塀ですが)景色は、
私の脳にこびり付いている景色と瓜二つだったのでした。
それ以来私は、岸田劉生の絵というよりこの絵に、
非情に深い思いを抱いています。

派手な絵ではないけれど、私にとってとても心を穏やかにしてくれる、
素朴で素直な懐かしい匂いを感じさせてくれる大好きな一枚になりました。

故郷と繋がる、どこでもドアーを開けた瞬間みたいな…。
この絵を観ると故郷の土や空気の匂いがしてくるのです。

__________________________________________

岸田 劉生(きしだ りゅうせい男性、1891年6月23日 - 1929年12月20日
大正昭和初期の洋画家。父親はジャーナリストの岸田吟香

  

明治24年(1891)、明治の先覚者、岸田吟香の子として東京銀座に生まれる。東京高師附属中学中退後の明治41年(1908)、東京の赤坂溜池にあった白馬会葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に師事した。明治43年(1910文展に2点の作品が入選している。

明治45年(1912)、高村光太郎萬鉄五郎(よろずてつごろう)らとともにヒュウザン会を結成、第1回ヒュウザン会展には14点を出品した。これが画壇への本格的なデビューといえる
劉生の初期の作品はポスト印象派、特にセザンヌの影響が強いが、この頃からヨーロッパのルネサンスやバロックの巨匠、特にデューラーの影響が顕著な写実的作風に移っていく。
大正4年1915)、現代の美術社主催第1回美術展(第2回展以降の名称は「草土社展」)に出品する。草土社のメンバーは木村荘八清宮彬中川一政らであった。草土社は大正11年1922)までに9回の展覧会を開き、劉生はそのすべてに出品している。大正4年に描かれ、翌年の第2回草土社展に出品された『切通しの写生(道路と土手と塀)』は劉生の風景画の代表作の一つである。

大正6年1917)、結核を疑われ、友人武者小路実篤の住んでいた神奈川県藤沢町鵠沼の貸別荘に転地療養の目的で居住(結核は誤診だといわれる。)。
大正7年1918)頃から娘の麗子(大正3年生まれ)の肖像を描くようになる。
大正12年1923)、関東大震災で自宅が倒壊し、京都に転居し、後に鎌倉に移る。この鵠沼時代がいわば岸田劉生の最盛期であった。
昭和4年1929)、南満州鉄道(満鉄)の招きで生涯ただ一度の海外旅行に出かけ、大連奉天ハルビンなどに滞在する。帰国直後、滞在先の山口県徳山(現・周南市)で尿毒症のため死去する。38歳であった。墓所は多磨霊園

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
岸田劉生
詳細を知りたい方は上記クリックでどうぞ。



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グスタフ・クリムト

2008-06-21 19:50:17 | 17.I meet art.です。

ちょっと見慣れないクリムト作品を集めてみました。(ページ下)


PCの画像データに、いつかまとめようと放り込んだまま、あっという間に数ヶ月がたってしまいました。
一般的には、エロス溢れる絢爛豪華な印象の女性を描いたものが有名なグスタフ・クリムト作品ですが、エロス溢れる印象とは裏腹にポスター的なクールさを感じる画面に、私個人は好きな作家でもありながら、反面何だか煮え切らない消化不良を感じていたりもしました。今回彼の作品が多数収納された作品集を見る機会があり、思いの他面白く、彼の一般的に有名な作品群とは画風の違うものが私の興味を引き、クリムトをお好きな方々もあまりこのような作品を目にした事はないのでは?と思い、採り上げたわけです。どうぞご覧下さい。

(宜しければこちらの過去記事もどうぞ。『クリムトさんって、こんな顔(過去記事)』



グスタフ・クリムト(Gustav Klimt)
1862年7月14日-1918年2月6日、帝政オーストリアの画家

グスタフ・クリムト(1908)       『ユディトI』1901年                              

(左:グスタフ・クリムト(1908)、右:『ユディトI』1901年)



グスタフ・クリムトは1862年にウィーン郊外のバウムガルテンにて、ボヘミア出身の彫版師エルンスト(父)と地元ウィーン出身のアンナ(母)とに間に、7人兄弟の第2子として生まれた。

7区の小学校で学んだ後、1876年に博物館付属工芸学校に入学し、石膏像のデッサンや古典作品の模写を中心とした古典主義的な教育を受けた。(後に弟のエルンストとゲオルグもこの学校に学び、それぞれ彫刻師、彫金師となってクリムトの作品を飾る額の設計をおこなっている。)

1879年にクリムトは弟エルンストおよび友人のフランツ・マッチェと共に共同で美術やデザインの請負を始めて、ウィーンの美術史美術館の装飾の仕事などを行っている。

卒業後に3人は芸術家商会 (Kuntslercompagnie) を設立し、劇場装飾を中心とした仕事を手掛け、1886年から1888年までウィーンのブルク劇場の装飾を引き受けており、この功によって後に金功労十字賞を授与されている。

1888年にウィーン市からの依頼を受け製作した、観劇する当時のウィーン社交界の人々を正確に描いた『旧ブルク劇場の観客席』は、第一回皇帝賞をうけるなど高く評価された。この作品によりクリムトはウィーン美術界における名声を確立した。
           *『旧ブルク劇場の観客席』は一番下の外部リンク先に作品があります。

1891年にウィーン美術家組合に加入し1893年に早くも美術アカデミー教授への推薦をうけたが、任命されることはなかった。(翌1892年には父と弟のエルンストが死去している。)

1894年、すでに装飾家として名声を得ていたクリムトはウィーン大学大講堂の天井画の制作を依頼される。『哲学』、『医学』、『法学』の3部からなる『学部の絵』と名づけられたこの天井画は、人間の知性の勝利を高らかに歌いあげるという依頼者が意図したテーマに反し、理性の優越性を否定する寓意に満ちたものであり、その是非をめぐり大論争を引き起こした。1896年に提出された構成下絵を見た大学関係者により行われた抗議は一旦は沈静化したものの、1900年と1901年に『哲学』および『医学』がそれぞれ公開されたことで論争が再燃し、帝国議会において依頼主の文部大臣が攻撃される事態にまで発展した。あまりの論争の大きさにクリムトは契約の破棄を求め、事前に受け取った報酬を返却した。
      *『医学』はこちらのリンク先に作品があります。→こちらをクリック

美術館および個人に売却された3枚の絵は後にナチスによって没収され、1945年にインメンドルフ城において焼失している。

1897年、この事件をきっかけとして、保守的なウィーン美術家組合を嫌った、古典的、伝統的な美術からの分離を標榜する若手芸術家達によってウィーン分離派が結成された。クリムトが初代会長を務めている。

1902年にクリムトとは、分離派により開催されたベートーヴェン展に大作『ベートーヴェン・フリーズ』を出品した。この作品は長年行方不明となっていたが、1970年にオーストリア政府により買い上げられて修復を受け、現在では分離派会館に展示されている。
       *『ベートーヴェン・フリーズ』は一番下の外部リンク先に作品があります。

翌1903年の第18回ウィーン分離派展ではクリムトの回顧展示が行われた。この展覧会ではじめて出品されたのが、当時のクリムトが置かれた状況を映し出す「人生は戦いなり(黄金の騎士)」(1903、愛知県美術館蔵)である。
        *『人生は戦いなり(黄金の騎士)』は下に作品があります。

1903年にヨーゼフ・ホフマンらによって設立されたウィーン工房にクリムトは強い関心を示していたが、この団体に対しては美術の商業化であるとの批判が分離派内部からもなされていた。
1905年、写実派と様式派による対立、国からの補助金停止などが重なり、クリムトとその同士は分離派を脱退し、翌年オーストリア芸術家連盟を結成した。

1910年代には作品も少なくなり、1918年ウィーンで死去した。

                                   (ウィキペディアより抜粋)



以下クリムトの作品ですが、敢えて、あまり見慣れないものを選びました。
有名な作品群とは画風が随分と違い、とても新鮮です。

うっかりタイトルを控えておくのを忘れてしまい、作品名の分からないものが沢山あります。
ご了承ください。






 








③カルロスの衣装をまとった俳優ジョセフ・ルインスキー(1895年) 





④ソーニア・クニップスの肖像(1898年)






⑤フリッツァ・リードラーの肖像(Bildnis Fritze Riedler)1906年


 







⑦ 



 

 

⑧(左)
⑨(右)エウジェニアー・ブリマヴェージの肖像(1913~14年)


 

 

⑩人生は戦いなり(黄金の騎士)(1903年)



 


⑪ひまわりの園(1905~06年)
この作品はじーっと見ていると色んな花が見えてきます。
最初は絵の具の線や筆跡(マチエール)がくっきり見えてたのに、
見慣れてくると花がとても写実的に見えてくるのが不思議。好きな絵です。

 

 


⑫白樺の森(同じタイトルの作品がいくつかあります。)


 

⑬ ブナの森(同じタイトルの作品がいくつかあります。)
この作品を知ってから、こういう景色がとても素適に見えるようになりました。
地味ですが好きな作品です。





 






この絵もほのぼのしていて好きです。



 


 



 

 

 

 



 


 



 

下のリンクに、丁度私が選んだ作品群とは対照的な、
有名な作品ばかりを集めて興味深い解説が添えられたサイトがありました。
とても美しく、解説も詳しいです。
どうぞ覗いてみて下さい。

グスタフ・クリムト



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ノーマン・ロックウェル

2008-02-27 18:51:33 | 17.I meet art.です。


以前、版下の仕事をさせて貰ったことがあった。
(版下の説明はとても難しいのですが、昔、家庭年賀状印刷機なる『プリントごっこ』というものがありましたが(今もある?)、それの原理が近いかな。)
そういう分野の経歴も技術もなかった若輩者の私にとって、望んでやらせて貰えるような、まして素人に出来るような仕事ではないだけに、身に余るほど光栄な仕事だったが、回りを見渡せば40代~50代というベテラン揃いである。皆、繊細で熟練の筆さばきで、水墨画のような格式ある絵柄や、有名デザイナーのデザインした図柄などを手掛けていた。

そんな中で最初は簡単なベタ色の版下描きが私の仕事だったが、絵柄丸々1点を任せられた時、独断で増やした輪郭線の版下を認められた。今迄は輪郭線を入れるという概念がなく、全体をくっきりさせるには何度か他の版を重ね刷りしていたようである。それからは、絵柄の色版の読み出し(例えば、一つの絵柄を刷り上げる時に、何色の版が必要か読み出す)と、その絵柄を効果的に見せる為、或いは、より一層オリジナルに近づけるための輪郭線の版を任せられるようになった。

その時にシリーズで任せられ、手掛けたのがノーマン・ロックウェルの絵だった。
ノーマン・ロックウェルの絵の何点かは何となく知っていたけれど、まだそれほど好きなわけではなかった。しかし、こうして手掛けた事で、毎回、絵や線の細部を睨み、色の重なりや色調を睨んでいるうち、彼の絵の技術の高さや魅力にはまり、何よりも彼の、日常生活に密着した絵のテーマとその中の人物の生き生きした微笑ましい表情に好感を抱き、それを描写表現できる凄さに惹きつけられていった。
今は特に老人と子どもが描かれている絵が好きだ。おそらく私自身の、幼少女時代の大半を祖父と過ごした懐古の情感が重なっているのだと思う。
彼の描く子どももとても好きだ。写真でも難しいのでは?と思えるほど、天真爛漫な一瞬の表情が、彼の絵の中には見事に描き込まれている。

日毎時毎、彼の作品を目にする毎にノーマン・ロックウェルは私の好きな画家の一人となっていった。






転写紙(表面に転写用の糊が付いている紙)印刷なので 、赤や青や緑など濃い色が線を潰しているように見えます。陶器などに焼き付けられた時、輪郭なども綺麗に現れます。

全体がピンクっぽいのが3点ありますが、これは転写用のビニールが図柄の上からコーティングされた状態です。他9点はまだコーティングビニールが印刷されていない状態です。        




以下にノーマン・ロックウェルの簡単な紹介と、参考資料から私の好きな4点をUPしました。

ノーマン・ロックウェル
Norman Rockwell (1894・2・3~1978・11・4)

ニューヨーク生まれの人気画家、イラストレーター。子どもの頃から絵を描くのが大好きだったロックウェルは12歳の頃には画家になることを決心していた。様々なアートスクールで絵を学び、17歳で本格的に職業画家としてスターとしてその才能を発揮する。19歳でボーイ・スカウトの雑誌『ボーイズ・ライフ』のアートディレクターに、そして弱冠22歳で週刊誌『サタデー・イブニング・ポスト』の表紙を担当する。この仕事はロックウェルにとってライフワークとなり1963年の休刊までの47年間、300点を超える表紙絵を描き続けた。人々の日常生活をユーモアとペーソスに富んだ視点であたたかく描き出した作品の数々は、まるでノスタルジックな映画の名場面のように見る人に語りかけてくる。




  

 


 












【参考資料】
ハートウォーミングストーリーwithノーマンロックウェル(いのちのことば社フォレストブックス発行)

 

下のサイトにも彼の作品が多数集められています。
彼の人となりや経歴、画風や描き方など興味深い内容が綴られています。
興味を持たれた方は、ご覧下さい。


ノーマン・ロックウェルWEB美術館 

『エッセイの卵』ノーマン・ロックウェル


             
 
著作権等の都合上、敢えてクォリティーの低いままで画像をUP しています。
ご了承下さい。

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サー・トーマス・ローレンス

2008-02-21 02:09:32 | 17.I meet art.です。

初めて描いた油絵は『ランプトンの肖像』の模写だった。
知る人ぞ知る大御所漫画家萩尾望都の名作、『ポーの一族』の主人公エドガー少年の肖像画の元となっている絵である。
それがサー・トーマス・ローレンス描いた『ランプトンの肖像』である。
模写した元絵を探したけれど見つからず、唯一下のサイト(色文字をクリック)で見つけ出しました。ご覧下さい。
私は、彼の作品の中ではやっぱりこれが一番のお気に入りです。
今回まとめるに当たって知った作品の中で、この記事の最後の作品(The Calmady Children)も素敵です。


サー・トーマス・ローレンス『ランプトンの肖像


↓この絵は『ランプトンの肖像』の全体です。
   模写した元の絵はこの絵の一部分が使われています。



勿論、『ランプトンの肖像』という絵の存在を知ったのは萩尾望都の漫画が発端ではあるが、実際の所、衣服やポーズは同じでもエドガー少年の肖像とランプトンの肖像は全く別物だった。
所詮エドガー少年は漫画の中の平面な1キャラクターであり、その肖像画には特に何の感情も抱きはしなかったが、サー・トーマス・ローレンスの描いた元の絵は違った。見た瞬間、今まで自分が知っている人物画は何処かへ吹っ飛んでしまった。
あどけない顔ながら、美しく整った品の良い顔立ち、油絵ならではの柔らかくも勢いのある筆のタッチで描かれたハリのあるジョーゼットのような白いフリルとビロード(別珍?)の風合いの上着と華やかながらも落ち着いた色調。私は一目でこの絵の虜になった。その頃には既に、ルーベンスもレンブラントもボッティチェりもダヴィンチも知っていたけど、私にとってランプトンの表情はモナリザ以上の衝撃だった。

昔、小学4~5年生頃だったろうか。
その頃私は、水彩絵の具で絵を描くと、初めは水で溶いているのだが、明らかに水彩絵の具としての使い方を間違っているとしか思えないくらいにコテコテに(グチャグチャではない)なるのを見て、担任の先生が「ichiiさんに油絵を描かしてみたいねえ」と言われたことがあった。あの頃の(というより、今も?)田舎の小、中学校には専属の美術教師もいなければ、美術部もないし、洒落た絵画教室なんてものもない。結局、「油絵」というキーワードは「描かせてみたいねえ」の夢と幻の言葉のまま、私が高校に入るまで現れることはなかった。そして実際に油絵を体験する時がやってきたわけだが、当然私がこの絵を模写の対象としたのは言うまでもない。もしもこの絵に出会ってなければ、(無謀なことに)モナリザを選んでいたと思う。(でも、全くタッチが違う…。)

と、いうわけでその模写はというと、何となく流れで、中学の時の隣りのクラスの担任の先生のもとへ行ってしまいました。それを知って私の担任が残念がっていたのを憶えています。(あの時は描いたという満足だけで、作品に対する執着や愛着もなくて、欲しい人は好きに持って行っていいよという感じだった。
今思うに、あの場合やっぱり担任に渡すべきっだたのかなぁ、と…今さらですが。)





トーマス・ローレンス
(Sir Thomas Lawrence, 1769年4月13日―1830年1月7日)イギリスの画家


ブリストルで生まれ、6歳の時には父の経営していた宿屋で、客の好きな物を描いたり、ジョン・ミルトンの晩年の演説をするなど、子供ながらその片鱗を見せていた。
彼のデビューはオックスフォードでのクレヨン肖像画家としてで、その時には後援者がついており、1782年に一家はバースへ移り住むが、若い芸術家トーマスは、お洒落な人々の好むクレヨンで絵を描いて収入を得ていた。
1784年トーマスは賞をもらい、クレヨン芸術協会の銀製パレットを手に入れた。彼はラファエロ・サンティの『変容』を描いた後、油絵で描き始めた。

絵で身を立てる決意をしたトーマスは、1787年にロンドンへ出てきて、、その頃当代一の画家であったジョシュア・レイノルズに迎えられてロイヤルアカデミーの生徒となった。
1791年にはアカデミー会員となり、1792年にはディレッタンティ教会の画家に任命され、亡くなったレノルズの代わりに国王ジョージ3世のお抱え画家となった。
1794年、彼は当代の社交界や王侯の肖像画を描くようになった。
1885年、彼はナイトに授爵された。
1818年、トーマスは依頼を受けてアーヘンへ行き、王侯や第三共和制の外交官たちの肖像を描いた。ウィーンとローマへも足を伸ばした。どこでも王侯から際だって実物よりよく見せるやり方が気に入られ、芸術家として自身の利益になるように心得た宮廷儀礼も同様であった。
18ヶ月後に帰国し、彼が到着した日には、数日前に亡くなっていたベンジャミン・ウエストの部屋で、ロイヤル・アカデミーの会長職に選ばれ、1820年から会長職に就き、死の年まで務めた。彼は生涯結婚しなかった。



以下詳しい生涯についてはこちらをご覧下さい。
       
                         →『サー・トーマス・ローレンス』



The Fluyder Children (フライダー家の子供たち)





Elisabeth Farren, Later Countess of Derby

Elisabeth Farren, Later Countess of Derby by Sir Thomas Lawrence 



Miss Caroline Fry

Miss Caroline Fry by Sir Thomas Lawrence




Mrs Henry Baring and her Children

Mrs Henry Baring and her Children by Sir Thomas Lawrence



Portrait of Mrs Wolff 

Portrait of Mrs Wolff by Sir Thomas Lawrence




The Daughters of Colonel Thomas Carteret Hardy

The Daughters of Colonel Thomas Carteret Hardy by Sir Thomas Lawrence



The Calmady Children

The Calmady Children by Sir Thomas Lawrence




ウィキメデイアコモンズにも作品がありましたので、どうぞご覧下さい。

                      こちらです。→ Thomas Lawrence





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ニコラエ・グリゴレスク

2008-01-28 08:44:56 | 17.I meet art.です。


学生の頃見に行ったルーマニア国立美術館展。
そこで出会ったのがニコラエ・グリゴレスクの絵でした。
ファン多き著名な画家はたくさんいますが、やっぱり私は彼の描く絵(特に人物)が好きです。

以下はルーマニア国立美術館展に於ける5作品です。
(作品集に掲載されている作品をデジカメで撮影したものなので、色調がオリジナルと異なり、やや白っぽいですがご了承下さい。)



【女の肖像】






【街道の宿】







【マラマをかぶった農婦】





【マリア・ナクの肖像】







【若いジプシー女】





ニコラエ・グリゴレスク
Nicolae Grigorescu

1838年ドンボピッツァ県ピタルに生まれ、1907年プラホヴァ県クンピナに歿する。
グリゴレスクは10歳の時、ブカレストのイコン画家、おそらくアントン・クラデックの工房に入った。15歳の時から初め兄やその他の地元の職人の協力をえて教会での制作に従事した。
1862年、奨学金を得てパリに行き、セバスチャン・コルニュのアトリエに入った。その後バルビゾン村に落ち着き、1869年に帰国するまでここにいた。オーストリア、イタリアなどの他、ギリシア、トルコにもしばしば旅し、またパリにも再三戻り、1890年までここにアトリエをもっていた。1868年のサロンに出品したが(この時ナポレオン3世が彼の作品を1点買い上げた)、その他(N.Dioの別名で)1869年、1877年、それに1880年、1882年のサロンにも出品し、また1867年と1889年のパリ万国博にも出品した。グリゴレスクはルーマニアの画家として初めてアカデミックなアトリエ制作の伝統をすて、“外光”の美学を導入した。彼はまたルーマニアで初めて印象主義様式を試みた。ルーマニアの農民生活の種々相を見事に描いた。また祖国の自然をうたった詩人でもあった。グリゴレスクは、20世紀のルーマニアの民族絵画の発展に決定的な影響を及ぼした。1899年にはルーマニア・アカデミーの会員に選ばれた。歿地のクンピナ市に1954年、彼を記念してのグリゴレスク美術館が建てられた。

             (毎日新聞社発行 ルーマニア国立美術館展作品集より抜粋)






ダ・ヴィンチやミケランジェロやルーベンス等ルネッサンスやバロックの絵画には、つい惹かれます。多分、本能の部分で共鳴するところがあって、体質的に好きなんだと思います。写真のように写実的過ぎるくらい写実的で緻密な描写、ルーペで至近距離から見ても一筆の乱れもない息が止まりそうな神経質な描写に、私は本能的に惹きつけられるんだと思います。
ただ、それを跳ね除けようとする自分がいて、美術館へ行ったり、何々展へ足を運ぶと無意識(と思いながら案外意識的)に、『自分が好きになれる絵』『私はこの絵が好きと言える絵』を探しています。その基準は鑑賞ではなくて、技術の拙い自分がもし自分の意のまま思い通りに表現できる技術を得たとしたら、この画家のこの絵のように描きたいと言える、言わば『師』を探しているのです。はっきりと目に見える手本がほしいのです。
それが叶うことが私の人生や生活に必要な訳ではないし、今乗っているレールをへし曲げられるほど自分勝手にはなれない、犠牲は出せない、無謀はできない。ただ、せめてそれが見つかるだけでも、この先、生き方のスタンスが変わるのかな、ずーっとぽっかり空いている風穴を塞ぐことができるのかなと、しがみ付く何かをいつも手探りしている。私の中の風見鶏が年がら年中四六時中つむじ風にくるくると翻弄されている感じなのです。いい加減、一方向を向きたい!という感じなのです。
鑑賞ではなく、そういう意味で好きなのがニコラエ・グリゴレスク。ただし、100パーセントではなく、部分的なものですが。
実際の美術展(著名画家、素人、プロ、アマ問わず)だけでなく、他ブログのおかげで初めて目にする有名画家の貴重な絵画に出会い、感動を頂き、じきに風穴が塞がりそうな予感がしています。
このブログを見てくださる皆さんが「一般的に著名ではないけどこんな素適な絵がある」とか、「私が好きなこんな画家や絵があります」とかお薦めがあったら、ブログに伺いますので、コメント(TB)などお待ちしております。



PC、インターネット、ブログ繋がり…凄いなーと、これだけでも未来を見るおもしろさに気付いた気がします。生きてるってすごいや、って思います。
(って、すっごく人生長生きしてる人みたいじゃん私。
                       まだまだこれからだってばさ!(笑))


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北国便り

2008-01-20 23:13:08 | 17.I meet art.です。


美味しい林檎と、北国の素適な栞。


美味しい林檎が詰まった箱に、こんな可愛らしい絵が印刷されていました。
箱の中に、同じものが描かれた栞が入っていました。
北国の素朴な言葉と素適な絵。
林檎がより一層美味しくなる心温まる魔法の栞です。



(箱に描かれている絵)




(林檎に添えられていた栞。標準語訳が載っています。)




(こちらも、箱に描かれている絵)




(林檎に添えられていた栞。標準語訳が載っています。)




粋な心遣いと思いやりと愛情が伝わってきます。


web検索したら、山内和人さんの絵ということが分かりました。
『ねぷたや』というホームページをお持ちでしたので、リンクを貼っておきます。
興味を持たれた方は、どうぞご覧下さい。

          『ねぷたや


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