はんどろやノート

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終盤探検隊 part81 第十代徳川将軍家治

2016年03月08日 | つめしょうぎ
 第十代徳川将軍家治作『将棋攻格』第四十五番は、このような「曲詰め」である。
 この詰将棋作品は、半村良の伝奇小説『妖星伝』の中で「将軍詰め」または「皇帝詰め」として、その小説の重要なピースとして扱われている。ということで、この四十五番が、徳川家治作の詰将棋では最も有名な作品となっている。
 おもしろいデザインの問題図である。都(5五)の玉を、二重の“菱型”が囲んでいる。

   [地獄祭の女王]
「祭主が決まったぞ」
「祭主はあの天道尼だ」
 百十年に一度の地獄祭が近づいているのだ。
  (中略)
「地獄祭が近付いた。諸国に散って直ちに悪虐非道の者たちをここに呼び集めよ。その者らの罪業は隠顕いずれたるとを問わぬ。地獄祭は我ら鬼道の者と俗人が垣根を取り払って親しく交わる唯一の時だ。地獄祭に加わった俗界の悪人は、さらに暴虐に、さらに卑劣に、さらに陰湿に、そしてさらに強大となって滅びをまぬかれると教えよ。破滅仏を携え、神聖咒禁(じゅごん)経を唱して鬼道をひろめるのだ」
 百十年に一度、鬼道はこのようにして一時に拡大し、悪に加担してきたのである。 
                       (半村良『妖星伝』(五)天道の巻より)

「将軍詰も鍵のひとつだ」
 今度は日天が頷く。
「あれこそ何かの鍵になろうな」
「絵馬と将軍詰めの手順と天道尼。この三つが黄金城の鍵を開けてくれるのではあるまいかと思うのだ」
「天道尼がどうしてもいるわけだな」
「そうだ。ひょっとして天道尼は本当に外道皇帝を滅ぼすために生まれて来たのではないかと思う」
                       (『妖星伝』(五)天道の巻より)



 天道尼というのは、鬼道衆をほろぼす使命をもって生まれてきたと自認する剃髪の美女である。鬼道衆の特殊な超能力はこの美女には通用せず、そして天道尼は「紫電」という光線を発揮して鬼道を倒すことができる。
 その天道尼を祭主として、信州松沼で地獄祭が開かれた。天道尼もそれを自分に定められた役割として受け入れる。
 この「地獄祭」が開かれたのは宝暦年間(1750~1763年)のことになるが、おそらく1759年頃ではないかと推定される。宝暦8年(1758年)の美濃郡上一揆の後、田沼意次が大名に取り立てられた後に、「地獄祭」が開かれているからである。
 徳川家の将軍はまだ第九代の家重(家治の父)の時代であり、将棋界では三代伊藤宗看(七世名人)・看寿の時代であった。しかしそれも数年後には、将軍は徳川家治に、そして宗看・看寿は死んで、将棋界は「名人空位の時代」となるのであった。


「おお……」
 男女の間からどよめきが起こった。賛嘆の声であった。
 天道尼の発した美しい淡紅色の光は、消えることなく広場を満たしはじめた。
                       (『妖星伝』(五)天道の巻より)


「二重の円だ」
 平田屋は呟いた。内部の円は外と殆ど同じ色合いで、ただ輪郭が少し濃いだけであった。
「あ、色が変わる」
 太郎がまた空中で叫んだ。墺羅(おうら)は彼らに二重の円を作って見せながら、徐々に色調を変えていた。
 ――赤くなる――
 亥助が言った。
   (中略)
「6六金、同玉」
「何だと…」
 平田屋は凝然としてた。
「あれは皇帝詰めをやっているんだよ」
                       (『妖星伝』(五)天道の巻より)



将棋攻格45番 問題図
▲6六金
 この詰将棋は基本、盤面の左側で駒が動いていく。右側の「と金」は正解手順を辿ると、ほとんど動かない。(わずかに一度動く)
 なお、玉方の「1五と」は“飾り駒”ではないかと思う。つまり、あってもなくても、この詰将棋の内容には関わらない駒である。
 
 さて、それでは「解答手順」を追っていこう。
 初手は▲6六金である。

 美青年が天道尼に招かれた時、皇帝詰の手順の第一がはじまったのである。それは太郎が言ったように、6六金の王手である。二重の円の中央に在った天道尼がその美青年を啖った。美青年は精を抜かれ死に、消えた。
 すなわち、6六金、同玉。


 天道尼が、この詰将棋の「玉」を演じている。死んでいった美青年というのが初手6六で捨てる「金」である。 
 こうしてみると、この徳川家治作将棋攻格四十五番の問題図面、女性性器にも見えてくる。

1手
△6六同玉 ▲7六飛成
 この6六金には同玉しかないが、そこで7六飛成とする。

 次いで天道尼に伐折羅(バサラ)が挑んだ。天道尼はこれをも倒してしまう。墺羅はその時、十一時から七時の線へ降下を示している。そしても精を抜かれて死んだ。
 すなわち、7六飛成、同玉。


3手
 ここで“変化”がある。「正解手順」は7六同玉だが、5五玉と逃げる“変化”だ。
 5五玉には、5六竜、6四玉、7三角成と攻める。

5手目5五玉変化図1
 7三同竜、同銀不成、6三玉、5三飛…

5手目5五玉変化図2
 7四玉、7六竜、7五歩合、6四銀成…

5手目5五玉変化図3
 以下、6四同玉、7三飛成、5五玉、5六竜、4四玉、3三竜まで詰み。(21手駒余り)


3手(再掲)
△7六同玉 ▲7七金 △8五玉 ▲8六金 △7四玉 ▲7三角成
 ということで、初手6六金から、同玉、7六竜、同玉と進む。

 すると6八に位置にいた金が左上方へあがった。迷企羅(メギラ)の挑戦であった。天道尼は迷企羅と交わったのち、8五の位置に退いた。かわりに処女の百合がこれを防いで交わったが、忽ち失神して再び迷企羅は天道尼をとらえる。
 
 7七金に6五玉と逃げるのは、6七香、5五玉、6六金、6四玉、7五金、5五玉、7七角まで。(途中6七香に7四玉には7五歩)
 よって、8五玉と逃げる。

 天道尼は迷企羅との交合に危うくなるとまたしても退くが、6二の位置にいた角が背後から襲いかかり、ここに天道尼と毘羯羅(ビガラ)の交合がはじまったのである。
 すなわち、7四玉、7三角成。



9手
△7三同龍 ▲7五金 △6三玉 ▲7三銀成 △5二玉

 これを救ったのがおゆいの体当たりだった。おゆいは天道尼との交合で愉悦の頂点に達しかけていた毘羯羅を果せさせるがすぐさま招杜羅(チトラ)につらぬかれ、同時に天道尼はまたしても強敵迷企羅にからみつかれてしまう。
 すなわち、7三竜、7五金。


 しかし迷企羅は疲れてみずから天道尼を放してしまい、天道尼はのがれ得たものの、おゆいは遂に招杜羅に屈して悶絶する。
 すなわち、6三玉、7三銀成。


 招杜羅はおゆいを降ろすや、直ちに天道尼と交わる。が、天道尼は死力を揮って自制し、悦楽の絶頂から辛うじてのがれ去る。
 すなわち、5二玉。



14手
▲5三香
 ここで最初から持駒として持っていた香車を使って、5三香と打ちこむ。

 小説『妖星伝』は、この“5三香”を、この地獄祭に外部から闖入してきた平田屋という男の役割として描いている。平田屋は以前から鬼道衆の探している黄金城の黄金を、なんとか横取りできないかとねらっていた男である。

「黄金城の扉を開く鍵の一つが徳川家に伝わる皇帝詰めだ。徳川はそれを将軍詰と呼んだが、何を意味するかはわからずにいた。お、俺は外から墺羅を見ていたが、墺羅に二重の環が生じて、その環が崩れる形から、詰め手順がそれをあらわしていると知った。そして今ここへ来て見ると、俺は外部の者、時の流れが内と外で食い違い、ここの者は遅い時の中にいて俺からは動かぬように見えた」
「うん、それで……」
「今、あの尼と交わって判ったが、俺は外界よりの者。それで符号が合うようだ」
「どんな符号か」
「俺は攻め手持駒の香車」
「判らん。何を言っている」
「十五手目にに香打ちがある。持駒は外界のものだ」
「ええい。今そんな将棋のことなど聞く暇はない。どうすれば黄金城の扉が開くのだ。言わぬか」
 また日天が平田屋の首をきつくしめた。
「詰めるのだ。……玉を。雪隠詰め……」
「ばかな」
 日天は怒って更に力を加えた。
「竜が……詰める」
 平田屋は息絶えた。


 「竜が詰める」と平田屋は言った。この“竜”の役割は、外道衆の頭である日天の役割であった。
 「雪隠詰め」というのは、盤の隅で玉を詰め上げることを言う。この場合は「1一」になる。

15手
△5三同金
 15手目、5三香と打った。
 「正解手順」は5三同金。

 ここで“4一玉の変化”はどうなるのだろう?
 4一玉には、5一香成、同玉、6二成銀、同玉、9五角、5二玉、5三銀…

変化16手目4一玉図
 以下、5三同金、5一飛、4三玉、5三飛成、3二玉、3三竜、4一玉、5一金まで。(31手駒余り) 

 なお、6二成銀~9五角のところで、代えて3一飛からの詰め手順もある。


16手
▲5三同桂成
 この図は15手目5三香に同金と応じたところ。
 これは同桂成とする。


17手
△4一玉
 これには、4一玉と逃げるのが玉方として正解手になる。
 しかし5三同玉も、当然詰まさなければならない。その“5三同玉の変化”をここでチェックしておこう。

変化18手目5三同玉図1
 これには2通りの詰みがある。一つは(1)6三飛、あと一つは(2)6四金である。どちらも35手駒余り詰めとなる。
 どちらの詰みも、潜在的に5九角が働いており、この角の存在がなければ詰まない。
 (1)6三飛は、5二玉、6二金、4一玉、5一金、同玉、5二歩、同玉、4三銀という手順になる。
 ここでは(2)6四金以下の詰みを紹介しておく。

変化18手目5三同玉図2
 6四金を(a)同玉は、6三飛、7五玉、8六金、8四玉、8五歩以下詰み。
 よって、(b)5二玉か、(c)4四玉と逃げることになるが――
 (b)5二玉は、5三飛と打ち、4一玉に、3二金、同玉、3三と、4一玉、5一飛成…

変化18手目5三同玉図3
 5一同玉、5二歩、6一玉、6二銀、5二玉、5三金、4一玉、4二金まで、35手駒余り詰め。

変化18手目5三同玉図4
 (2)6四金に(c)4四玉は、3四金(図)と打って――
 同桂に、5四飛。以下、4三玉、5三飛成、3二玉、2三と、4一玉、4三竜…

変化18手目5三同玉図5
 以下詰み。これも35手駒余り詰めとなる。


18手
▲5二金 △同銀 ▲同成桂 △同玉 ▲5三歩 △4三玉
 ということで、18手目はこの図のように4一玉が「正解手順」となるのだが、これには5二金以下、攻めていく。以下、同銀、同桂成、同玉、5三歩。

 その5三歩(23手目)に、玉方が“同玉”の手を選択するのは――

変化24手目5三同玉図1
 6三飛以下詰みとなる。その詰め手順は、6三飛、5二玉、4三銀(6二成銀もある)、4一玉、4二銀成、同玉、3三と、3一玉、2三桂…

変化24手目5三同玉図2
 4一玉、4二歩、5一玉、6二飛成まで(次の図)

変化24手目5三同玉図3
 これは37手詰めになる。
 なので現代詰将棋ルールで言えば「変化長手数」のキズになる。または、こっちが正解手順となるところだが、最後の4二歩のところ歩を使わず4三飛成からでも詰みそれは駒余り(39手)になるので、この23手目5三同玉の変化を“正解”とするのも微妙な問題が残る。


24手
▲4四歩 △3二玉
 5三歩には、この図のように4三玉(24手目)と逃げるのが一般には「正解手順」とされている。

 これには4四歩。
 4四歩を5三玉は6三飛から、5四玉は6四飛から簡単。
 また4四歩を同玉は、3三銀、5三玉、6三飛、5二玉、6二飛成、4三玉、4二竜、5四玉、4四竜まで詰み。(35手駒余り)


26手
▲3三飛

 よって3二玉だが、そこで27手目3三飛が「正解手順」。

 ということになっているのだが、実はここで「別解」がある。つまり「余詰め」である。
 その「余詰め」手順は、3三銀、4一玉、5二歩成、同玉、6二飛、5一玉、4二銀成まで。

余詰め3三銀の変化図
 これは33手なので、「正解手順(35手詰)」より早い。しかし駒余りなので作意でないことは明らかである。


27手
△2一玉 ▲2二銀 △同玉 ▲2三と △2一玉 ▲3二飛成 △1一玉 ▲1二龍
 「正解手順」の3三飛(27手目)以下は、ここに示されている通りである。
 最後は1一玉を、竜で仕留める。

詰め上がり図
まで、35手詰。


「ああ……」
 天道尼の最後の叫びは、たとえようもなく甘く、生きとし生けるもののすべてのよろこびを合わせてもなお足りぬほど、よろこびに満ちていた。
 そして天道尼は紫の光となって、黄や赤や青や橙や緑や、そのほかのさまざまな光の入りまじった中に砕け散ったのである。
                       (『妖星伝』(五)天道の巻より)



 こうして天道尼と鬼道衆は、「地獄祭」とともにこの世から消えていった。

 この時期と、看寿・宗看の死の時期(1760~61年)とが、だいたい重なっているのが面白い一致である。
 以後徳川家治時代になり、将棋家元の世界は「名人位の空位」が続くことになるが、この時期から「将棋戦術の近代化」が進んだことは、これまで見てきた通りである。その主役は一人ではなく、徳川家治、五代伊藤宗印(鳥飼忠七)、伊藤寿三、九代大橋宗桂、大橋宗順、大橋宗英、他民間棋士たちであった。
 三代伊藤宗看・看寿の詰将棋の天才兄弟は、“黄金の詰将棋作品”を残して旅立ち、将棋の“中世”はこの時期に終わったのである。 


「この光は……」
 影のある者が言った。日円である。黄金の塔のそばにたたずんで、そらを見あげているのである。
   (中略)
 黄金の扉をあけて影のある者が現れた。
「おお」
 その者も光に気付いて空を見上げた。
「至ったか」
「何が至ったのだ」
 日円が言うと、ここ奈落迦(ナラカ)の陋、薄伽梵(バガボン)に在って影を持たぬ者の一人、静海が答えた。
「黄金城の扉が開きはじめたのです」
                       (『妖星伝』(五)天道の巻より)
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終盤探検隊 part80 第十代徳川将軍家治

2016年01月21日 | つめしょうぎ
 徳川家治時代(1760~86年)の詰将棋作家の一人、桑原君仲の詰将棋集『将棋玉図』から第九十一番。
 「あぶりだし曲詰め」である。


   [天道尼]
「法力ではありませぬ。それは私は生まれついて持っている摩訶不思議な力なのです。私自身、時にはそれを不思議に思うことがあるのです。私が何かしたり、どこかへ行こうとしたりするのは、すべて私自身にも気づかぬ、或る目的のためなのです。私は外道皇帝を滅ぼすためにこの世に送り込まれた者です。(中略) いずれにせよ、いま私が歩いて行く方向に、必ず黄金城があるのです」
「いったい、どんな力が働いて、天道尼さまをそのように動かすのでしょうか」
「因果の力です」
「因果……」
                           (半村良『妖星伝』(四)黄道の巻より)



 徳川家治時代の代表的詰将棋作家を挙げると、八代大橋宗桂、九代大橋宗桂、徳川家治、そして桑原君仲。
 この四名の中での詰将棋の格は、九代大橋宗桂は別格の最上級レベル、その次が桑原君仲と言ってよいだろう。他の二人、八代大橋宗桂、徳川家治の詰将棋は、今はその作品集の中の半分以上が余詰めや手順前後などの欠陥があると判明している。
 九代大橋宗桂と桑原君仲の詰将棋作品はそのような欠陥品が少ない。現代ではコンピュータソフトの詰将棋解図能力が人間の能力を凌駕したので、ソフトを使えば作った作品のチェックは簡単であるが、それなしにこれほどの完成度、これは相当の情熱と能力が必要である。

 桑原君仲(くわばらくんちゅう、と読むのだろうか)は、おそらく1740年頃の生まれだろうと言われている。1759年にあの伊藤看寿との「飛香落ち」の対局の棋譜が残っているのがその根拠である。(その将棋は詰将棋の後で紹介する)
 しかし桑原君仲の2つの詰将棋集『将棋玉図』、『将棋極妙』は1840年頃の発行である。彼が100年生きたとは考えにくいので、桑原の死後に出されたと考えるのが妥当であろう。

 桑原君仲は「あぶりだし曲詰め」を得意としていた。「曲詰め」の中でも、詰め上がりの図が、何らかの文字や模様、意味のある形になっている――そういう詰将棋を「あぶりだし曲詰め」という。 


将棋極妙 第100番
 『将棋極妙』のおおとりを飾る第百番は、桑原君仲の代表作ともいえる傑作「あぶりだし曲詰め」である。
 詰め手順はここでは省略するが、詰め上がると――

将棋極妙 第100番 詰め上がり図
 こうなる。この「×」の形を、「引き違い」と呼ぶ。


問題図
 では今回の主題、『将棋玉図』第九十一番の解答を鑑賞しよう。
 この詰将棋は説明なしに、正解手順だけを示しておく。

▲1三香 △2一玉 ▲1二香成 △同玉 ▲1三桂成 △同玉 ▲2四銀上 △1四玉
▲1五歩 △2五玉


▲3七桂 △3六玉 ▲4八桂 △4六玉 ▲5七銀 △同玉


▲6六龍 △同玉 ▲5六馬 △7五玉 ▲8六金 △8四玉 ▲9三角


△7三玉 ▲8三馬 △同 玉 ▲8四銀 △7二玉 ▲6二歩成


△6二同金 ▲同香成 △同玉 ▲7三金 △6一玉 ▲7一角成


△7一同 玉 ▲6三桂不成△6一玉 ▲5一香成


△5一同金 ▲同桂成 △同玉 ▲6二金打 まで43手詰。


詰上がり図

 「大菱(おおびし)」が、あぶりだしで現れた。


 棋譜鑑賞1  桑原君仲-伊藤看寿(飛香落ち) 一七五九年

 桑原君仲の将棋の棋譜はいくつか残されているが、そのうち詰将棋の大天才伊藤看寿との将棋を鑑賞しよう。
 桑原君仲は、大橋本家の九代大橋宗桂(印寿)の門人だったそうだ。

 本譜は「飛香落ち」の将棋である。
 上手の伊藤看寿は42歳で当時の最強棋士だった。兄の七世名人三代宗看はすでに54歳だったので次期名人に決まっていた看寿が最強だったと思われる。看寿はこの翌年に死んでしまうのだが。(死因は不明)

 その最強棋士伊藤看寿に、民間強豪棋士桑原君仲がどういう闘い方をしたか、それが見どころである。

 
 「飛香落ち」だが、この将棋、下手の桑原君仲が特に1筋を攻める構想をとっていないため、「飛車落ち」のような感じで進んでいる。が、このまま上手がおとなしくしていると、十分に組み上がった後、1五歩から1八飛とし、1四歩から飛車先の歩を切って、その歩を使って仕掛けられる。このあたりが「飛香落ち」と「飛車落ち」の違いで、だから上手としては“紛れ”を求めて、早めに戦いを起こす。
 それがこの場面である。

 上手の看寿が、7筋で一歩を手にした後、8四銀から9五歩と、先攻してきた。
 9五同歩に、9六歩。以下、6九玉、6二金、6五歩、7三桂、6六銀、4二角、6七金右に、9七歩成から本格的に戦闘状態になった。

 この桑原の6九玉~6五歩~6六銀という指したところは、むつかしいところである。
 この将棋を下手が安全に指すには、2九飛~4八玉とするところと思われる。これなら下手が勝ちやすい。
 ただし、「右玉戦法」はまだ江戸時代にはなく、これが通常の戦法になるのは昭和時代、戦後のことである。だからこの時代には、まだ、“形”として「右玉」は頭の中にないのである。

 上手看寿の9七歩成に、同桂、9五香、8六歩、9七香成、同香、8五桂打で次の図。


 そうして、こうなった。
 8五同歩、同桂に、桑原君仲は7五香(王手)で切り返す。7四歩に、8八角、7五歩、同歩、9七桂成、同角、9六歩、7九角、7五銀。


 そこで桑原は6四桂と、また“犠打”を放つ。
 同銀、同歩、同角、7五歩、8四香、7六桂、4二角、6四歩、同歩、7四歩、7七歩、同金、8九香成、5七角、6一玉、2四歩、同歩、9八飛、9四香、2八飛、9七歩成、2五歩、8八成香、2四歩、2二歩(次の図)


 下手が力を発揮し、好勝負を展開している。
 下手がやや駒得で、優勢。もともと優勢なのだが、それをさらに拡大した。(ソフト「激指13」の評価値は[ +1455 ])
 しかし「飛香落ち」の手合いの実力差を考えると、ここから先が勝負どころなのである。(下手がトッププロ級の力をもっていればすんなり勝てるが、そうではないので…)
 桑原君仲はここで6四桂。好手。
 これを同角なら6五銀から9三角成がある。(「激指」も6四桂を最善手として推している)
 看寿は6三歩。以下、7三歩成、同金、7四歩、同金、7五銀(次の図)


 この7五銀はもう100手目になる。大熱戦である。下手が優勢をまだキープしている。
 6四金、同銀、同角、9三角成、8七と、6六金左、7八成香、5八玉、4五桂(次の図)


 109手目。ここが“問題”の図である。
 ソフト「激指」の評価値は[ +1514 ]と出ている。はっきり下手優勢である。
 ところが、ここからの指し手の選択が難しいのだ。
 調べてみると、ここから先の先手の指し手の「正解」は一つではなく何通りかある。しかし下手が負ける手順も、同様に何通りもあるのだ。

 桑原君仲は4五同桂、同歩、5五歩と指した。常識的な対応と思える。が、その順で勝つのは難しいと、調べてみてわかった。それでもまだ「下手良し」なのだが、もう下手は勝ちにくくなっているようだ。

 わかりやすい下手の「正解手」は、ここで「6五歩」である。

参考図1
 この「6五歩」に、3七桂成なら、6四歩、2八成桂、6三歩成(参考図2)と指す。

参考図2
 これは下手勝勢。飛車を渡すが、示されてみれば、たしかに下手が勝ちなのである。

 したがって「6五歩」には8六角(または9七角成)が予想されるが、その変化は、4五歩、7七と、5七金、6八銀、4八玉、5七銀成、同玉、3三桂、4八玉、5二玉、4四歩、同銀、7一馬が予想される一例で、次の参考図3。

参考図3
 ここまでくれば、これはなんとか下手の力でも勝てそうだとはっきりする。


 実戦は桑原は4五同桂と取った。これも「正解手」の一つで、悪くない。
 看寿は、同歩。で、この図。

 ここで5五歩として、形勢はもつれた。

 では、どう指すのが良かったのか。
 「正解」はいくつかある。
 たとえば6五金や、7五金がある。(この手は6六玉からの上部脱出の意味も含んでいる)
 また、ここで6五歩もあり、以下、9七角成、4八玉、3五桂、同歩、4六歩(同銀なら3六桂で王手飛車取り)、5七金で先手良し(「激指」評価値は[ +465 ])だが、少し下手にとってきびしいか。

 ここでは「7五桂」を紹介しておこう。
 この手は6三桂成が第一の狙いで、上手は5二玉とそれを防ぐ。そこで6五金とする(参考図4)

参考図4
 ここで上手3七銀なら、6三桂成、同玉、6四金で下手勝ち。
 よって、この図以下は、3一角が想定されるが、以下9四馬。これで上手から(3七銀など)攻めの手段はまだまだあるので手が広く勝負の行方はわからないが、先手優位は維持できていたようだ。(「激指」評価値は[ +1467 ])

 本譜の進行は、5五歩、7七と、5七金、3七銀、2七飛、2五桂、8三馬、5二玉、6九歩(次の図)


 こうなってみると、(厳密な形勢ははっきりとはわからないが)もう下手が勝ちにくい図になっている。「激指」の評価値は[ +215 ]である。実力差を考えればもう“逆転”と言ってよい。

 桑原の6九歩(120手目)の前の手8三馬(118手目)が甘い手だったかもしれない。その手で7五桂ならまだ先手勝てたか。
 7五桂、5二玉、6五金、4一玉、2五飛、6八成香、4九玉、6七と(参考図5)が予想されるが――

参考図5
 ここで6四金と角を取り、その手が、5三桂以下の“詰めろ”になっている。6四同歩と取っても、5三桂、5二玉、6三銀、5三玉、7一馬から“詰み”。
 よってこう進めば下手勝ちだ。


 この図は実戦で、下手の6九歩に、同成香、6七金寄、8六角(124手目)と進んだ図。
 桑原は6七金寄から上部脱出を計る。しかし8六角で上手看寿はそれを許さず、というところ。

 6四歩、同歩、5七玉、4六歩、5六銀、6五桂、同銀、同歩、7四馬、6三銀、6五馬、6四歩、8三馬、7四歩(次の図)


 どうやら、もう下手は勝てないようだ。5六金上、3八銀不成、4六玉、2七銀不成…、飛車を取られた。
 それでも、まだ桑原君仲はあきらめず、4五桂以下、頑張った。上手玉を攻めつつ、“入玉”に望みをつないだ。
 しかし―――

投了図
 161手目、8五飛。あの8三の馬を取られてしまっては、入玉しても捕まってしまう。
 桑原君仲はここで投了した。

 この将棋、桑原君仲の強さもよく表われた好局だった。
 そして同時に、それほどの強豪でも、「トップ棋士にアマ棋士が飛車落ちで勝つことの難しさ」がよくわかる将棋でもあった。下手がどんなに優勢を拡大しても、「勝ちきる」ためには、通常のレベル以上の“何か”が必要なのである。
 “何か”というのは、“粘る相手を突き放つ力”であり、“勝負どころで正確に読み切る力”ということになるだろう。
 前回の「part78」で10代の九代大橋宗桂(印寿)が「飛車落ち」下手であっさり完勝する将棋をいくつか紹介したが、少年時代の九代大橋宗桂がトップ棋士になるために必要なその“何か”をすでにしっかり備えていたことが、本局と比較するとよくわかるだろう。
 「飛車落ち」で下手がトッププロにあっさり勝つというのは、“才能がある”ということの証明なのである。

 以下家治時代の御城将棋(お好み)から、「飛車落ち」の棋譜を2局鑑賞する。
 いずれも上手はこの時代の最強棋士九代大橋宗桂である。


 棋譜鑑賞2  松下隠岐守-九代大橋宗桂(飛車落ち) 一七六七年 御城将棋

 1760年に、徳川家の第十代将軍に、徳川家治が就任した。
 将棋の好きな家治は、御城将棋に、家元同士の対局以外に、家元(将棋御三家)の棋士と、将棋の強い近習との対局を求めた。これを「お好み」と称し、徳川家治の時代にずっと実行された。
 1760年に伊藤看寿が、翌61年に三代伊藤宗看(七世名人)が没して、宗看・看寿の時代が終わった。
 その後、最強者は実質、九代大橋宗桂(印寿)である。(ただし九代宗桂は1760年頃はまだ四段くらいの段位だった)
 そのトップ棋士に対して、アマ棋士がどう戦ったか、ということに注目して、この「飛車落ち」戦を見てみよう。


 上手の「飛車落ち」に対して、下手の作戦は「三間飛車」。 この作戦は江戸時代にはよく見られた作戦で、1760年の御城将棋で17歳の九代大橋宗桂(印寿)が名人三代伊藤宗看に対して採った作戦もこれだった。(「part78」で紹介)
 その下手の「三間飛車」に対して、今度は上手側として九代宗桂はどう対応したのであろうか。
 九代宗桂の作戦は図のような、「銀冠」作戦であった。
 

 そうして、この図になった。まだこの時は一般には振り飛車での「美濃囲い」が有効であるとは知られていなかった。(御城将棋ですでに1765年に五代伊藤宗印が採用していたが→「part67」)
 下手は4八銀を5七銀上と上がったのだが、これは6六歩からの手を狙っているのだろうか。下手の駒組みが窮屈な感じだ。
 この図では、下手は3六歩(3七銀と引く余地をつくる)のような手が考えられたところだが、松下隠岐守は2八玉と指した。失着。


 すかさず、上手から4五歩と突かれ、3三角成、同桂となって、これで4六銀の行き場がない!
 ただし、2二角と打って、4四角、5五歩、4六歩、1一角成となって、下手は銀をまる損したわけではない。
 「激指」の評価値は、[ -46 ]。 もともと「飛車落ち」なので下手が有利だったが、そのアドバンテージがなくなった。こうなるともう下手は勝てない――というのが普通だが―― 
 1一角成の後、5五角、6六歩、4七歩成、同金、4五桂、5五馬、同歩、6八銀、6九角、5八角(次の図)


 下手陣はバラバラになりそうだが…
 8七角成、7九飛、4六歩、同金、5七銀、同銀、同桂成、3六角、5四銀、3八金(次の図)


 このように、中盤を下手の松下隠岐守が頑張って上手の攻めを耐え、「互角」の形勢を維持するのである。
 受けのために5八に打った角が3六に出て、これが敵玉を間接ににらんでいて、上手の指し手も難しい。
 ここで印寿(九代宗桂)は8六馬。


 下手松下は、6五歩。急所の一手。この下手は強い。
 上手、これを同銀(次の図)
 この6五同銀は相手にチャンスを与えた上手の失着だった。(宗桂は受けきる自信があったのだろう)
 下手は5五金から食いついていく。 5五金、5四歩、6四歩、同金(次の図)


 ここがチャンスだった。 「8八香」なら、下手が優勢になっていた。

参考図6
 「8八香」(図)に、7五馬なら、同飛、同金、4一角、5三金、6四銀のように攻めて、下手が勝てそう。
 「8八香」、5五金、8五香、4八金(参考図7)のような順も予想される順だ。

参考図7
 これは正確に対応すれば下手が勝つが、“実力差”を加味すると、さあどうだろうか。
 「激指」は、4八同金、同成桂、7七桂を、推奨している。

 松下は「8八香」に気づかず、6五金と指した。以下、同金、5四金、6三銀、3二角成と進む。形勢不明。
 さらに4六歩、4八歩、6七歩に、5三歩、同馬、7七桂、5五金(次の図)。


 なんと強い“素人”だろう。最強棋士印寿(九代宗桂)に対し、序盤で失敗したにもかかわらず、それでもまだ「互角」の中盤を展開している。
 ただ、トップレベルの棋士を相手に、ここから「勝ちきる」ことが越え難き峠なのである。

 松下隠岐守はここで6五歩と指した。そしてこの手が“敗者”になった。
 6五歩の意味は、次に6四銀と打つ意味だが、6八歩成~7九とから飛車を取る手のほうが早かった。 6五歩、6八歩成、6四銀、同銀、同歩、7九と、4一馬、6三銀…
 以下、上手が勝った。

 この図では、3三馬、5六金、4四銀というような手なら、まだ“形勢互角”だった。しかしそう指したとしても、下手がそこから勝つのは(実力差を考えると)もう大変かもしれない。やはり“勝ちきる力”が素人には不足しているのである。
 ただ、この松下隠岐守の善戦はおおいに称賛されてよい。
 

 棋譜鑑賞3  加藤玄蕃-九代大橋宗桂(飛車落ち) 一七七七年 御城将棋

 1777年の御城将棋の「お好み」。これも「飛車落ち」で、上手は九代大橋宗桂である。
 
 注目してほしいのは、序盤である。
 「飛車落ち」で、初手より、3四歩、7六歩、4四歩に、そこで4六歩と突き、3二金に、6手目にすぐに4五歩と仕掛ける手がある。
 現代は駒落ち将棋自体が少ないのでこの仕掛けもほとんど見かけないが、これも下手の作戦としては“ある手”なのである。
 この指し方は、「飛車落ち」か「飛香落ち」で、江戸時代には、時に見られた作戦で、これを最初に指した棋譜はおそらく、1724年の御城将棋「八代大橋宗桂-三代大橋宗与(飛香落ち)戦」と思われる。


 4五歩(6手目)と下手が仕掛けて、以下、同歩、2二角成、同金(同銀もある)で、「角交換将棋」になる。
 2二同金に、4三角と打つのが良く見られる手だが、この「加藤-九代宗桂戦」では、下手加藤玄蕃が図のように6五角と指している。
 以下、4二銀、8三角成、3三桂、6五馬、5二金、4四歩と進む(次の図)


 4四歩と打った手が加藤玄蕃の意欲的な手だ。対する上手の手は3五角。
 ただで歩を取らせるのはいやだと、6六馬。
 作戦としては下手、わるくない。下手は「馬」ができて、上手に「生角」を打たせた。
 以下、5四歩、3六歩、4六角、1八飛、5三銀、4八銀、3二金、5八金右(次の図)


 この5八金右では5六歩とする構想のほうがよかったかもしれない。
 というのは、ここで上手宗桂に5五角とされ、好位置の「馬」と「生角」との交換になってしまったからだ。
 5五角、同馬、同歩に、6五角と加藤は着手。
 九代宗桂は4二金右(次の図)


 ここで8三角成としても、7四角で「馬」はまた消されてしまう。といってもそれで下手が悪いわけではない。もともと「飛車落ち」なので、ここはまだ「下手良し」の形勢である。8三角成、7四角、同馬、同歩の後、6六歩としておいて、次に8三角と打てばやはり「馬」はまたつくれる。その作戦もあったところ。
 しかし加藤玄蕃が指した手は、過激だった。3二角成と攻めていったのである!
 この攻めも、実は“ある手”なのだが、相手は最強棋士である。この細い攻めで勝ちきれるかどうか。
 3二同金に、4三金と打ち込む。4二金に、7七桂、5四銀、4二金、同玉、3五歩、同歩と進む(次の図) 
 この手順中、7七桂では、代えてすぐ3五歩と指し、同歩に、3八飛なら、わずかに下手ペースである。つまり7七桂は“緩手”だったようだ。それだけでなく、この7七桂が後で負担になってくるのである。


 本譜は、ほぼ「互角」に近い形勢になっている。ここから正しく指せば、あるいはまだ下手有望かもしれないが、素人にとって“正しく”というのが困難な要求である。下手からの明解な攻めはなく、ここから下手が勝つのは難しい。(「激指」評価値は[ +35 ])
 それと、ながれが持久戦になると、下手は7七桂が、7四歩~7五歩という上手からの攻めがいつでもあるので弱点になっており、そのために駒組がむずかしい。

 加藤は3四金と指した。さあ、この手はどうだろうか。
 九代宗桂は、6一角。以下、3五金、3四歩、3六金、5三金、3七銀、4四金、2六銀、8三角(次の図)


 2九角成を防ぐのが難しい…。4七歩はあるが、「歩切れ」になっては下手楽しみがなくなるとみて、加藤玄蕃は3七桂とした。勝負手。
 当然、上手は2九角成。上手がやや有利になった。
 以下、6八玉、7四歩、3五歩、4三銀、4八飛、7五歩、3四歩、同銀、3五歩、4三銀、4五桂、7六歩、3三桂成、同玉、8八銀、7七歩成、同銀、7六歩、同銀、6四桂、7七歩、5六桂(次の図)


 上手の宗桂の攻めが加速した。もともと九代宗桂は攻めの得意な棋風である。
 5六桂打と打って、以下、飛車を取って――


 上手九代大橋宗桂の勝ち。

 負けはしたが、この将棋も、下手の加藤玄蕃はなかなかの指し手だったと思う。3二角成と攻めていった手などは勇者の一手である。
 ただ、やはり九代宗桂のような名人レベルの指し手を相手に、「勝ちきる」にはむずかしい指し方を選んだとも思える。


 以上見てきたように、トップ棋士に対して、「優勢な将棋を勝ちきる」ということの難しさが、「飛車落ち」「飛香落ち」のこうした棋譜からよくわかったと思う。


 【研究 対飛車落ち(飛香落ち)下手6手目4五歩作戦】  


 初手から、3四歩、7六歩、4四歩、4六歩、3二金、4五歩と6手目に仕掛けてこの図。
 今、「加藤-九代宗桂戦」で見てきた指し方だが、これを始めたのは九代大橋宗桂(印寿)の父親の八代大橋宗桂である。(八代大橋宗桂の幼名は伊藤宗寿で伊藤看寿の4歳上の兄でもある)
 江戸時代に見られるこの指し方の将棋の棋譜を集めてみると、4つあった。

  〔棋譜A〕 1724年御城将棋 「八代大橋宗桂-三代大橋宗与(飛香落ち)戦」 八代宗桂勝ち
  〔棋譜B〕 1727年御城将棋 「八代大橋宗桂-四代大橋宗与(飛車落ち)戦」 四代宗与勝ち
  〔棋譜C〕 1777年御城将棋 「加藤玄蕃-九代大橋宗桂(飛車落ち)戦」   九代宗桂勝ち
  〔棋譜D〕 1823年     「堂島栄造-大橋柳雪(飛車落ち)戦」     堂島勝ち

 八代大橋宗桂がこれを最初に指したのは1724年で、相手は六世名人の三代大橋宗与で77歳。八代宗桂はこれが御城将棋初出勤だったが、11歳である。この年齢差は記録的である。
 
 そしてこの戦法をソフトを使って調べてみると、相当に有力な作戦であるとわかった。その研究を以下に示しておく。

 4五歩(図)の仕掛けに、上手は同歩と応じる。上手が5手目に3二金としたのは、この仕掛けを警戒した意味があったのだが、「それでも仕掛ける」というのがこの作戦だ。
 4五同歩に、2二角成。
 これを上手は、「同金」と、「同銀」とがある。 


 2二角成に、「同金」として、そこでこの図のように4三角と打つのが、主流の(といっても元々少ない指し方だが)指し方になる。
 2二角成に、「同銀」の場合は、下手は6五角と打って、以下、3一銀、8三角成と進む。これは〔棋譜B〕および〔棋譜D〕の進行で、興味のある方はそれを調べてみてほしい。
 2二角成に、「同金」に、6五角と打ったのが、上で棋譜鑑賞した「加藤-九代宗桂戦」で、これが〔棋譜C〕。

 ここでは4三角(図)を紹介するが、こう進んだのは〔棋譜A〕の「八代宗桂-三代宗与戦」。

 三代宗与は、そこで“4六歩”。

 以下、その将棋は、4八飛、5五角、6六歩、6四歩、3四角成、7二銀、5六馬と進み、以下、下手が快勝している。11歳の子供が(といっても大橋家を背負う八代目当主なのだが)、時の名人に「飛香落とされ」で、しかもだれもかつて指したことのない指し方で快勝したのだから、これは順調な、大橋家としても誇らしい八代宗桂の船出であった。

東大将棋流3三角
 ソフト「東大将棋6」に対してこの戦法で戦うと、4三角(前の図)に、4六歩、4八飛、“3三角”(この図)としてくる。(〔棋譜A〕で三代宗与が指した5五角とだいたい同じ意味の手である)
 この戦法を使うなら、この“3三角”に対する応手も知っておく必要がある。
 「6六歩」(次の図)が、この図での正解手である。(八代宗桂もそう指した)


 この手を知っていれば、問題ない。
 6六同角なら、6八飛、9九角成、6一角成、同玉、6三飛成となって、一気に下手が勝ちになる。なので上手は6六同角とできないのだ。
 それなら、3三角を打たせた分だけ、下手は作戦が立てやすくなっている。
 下手が優位を拡大している。6六歩の図での「激指13」の評価値は[ +1077 ]と出ている。

定跡手4七角
 4三角に、4六歩、4八飛、そこで“4七角”(図)という手もある。
 これは江戸時代の定跡書『将棋独稽古』(福島順喜著)に載っている手である。
 これは以下、3八銀、2五角成、4六飛と進む。
 そこから先は手が広いが、一例を示すと、5二金(『将棋独稽古』は4二歩とし、以下6五角成、7二銀、7五歩の進行を示している)、6五角成、3五馬、4七飛、4六歩、4八飛、4五馬、6八玉(次の図)


 「激指」の評価値は、[ +1114 ]。
 「飛車落ち」の初形の評価値が[ +682 ]なので、これも下手有望な変化であると「激指」も認めるところといえる。
 この「対飛車落ち6手目4五歩」が有力な作戦であることがわかってきたことと思う。

激指流3五歩
 「激指13」は、駒落ちの上手での戦いが相当に強いが、その「激指13」は、“4六歩”とは指さない。
 下手10手目4三角には、「激指13」は“3五歩”(図)と指してくる。
 これはつまり、下手の次の3四角成(歩を取る)がいやだということだろう。
 この図での評価値は[ +746 ]である。

 我々(終盤探検隊)は、ここからどう指すのが良いかを調べた。
 「3四角成」が良いのではないかと思う。上手(激指)は3四の歩を取られる手を嫌って3五歩と指したのだが、それでもあくまで歩(3五または4五の歩)を取りに行くのだ。
 以下、想定される進行は――
 3四角成、3三桂、3五馬、6二玉、6八玉(この手で先に4八銀だと5五角と打たれて下手困る)、3二金、4八銀、4二銀、5八金右(次の図)


 馬をつくった時、その馬をどの位置で使うか、そこが下手迷うところだが、我々の研究はこの「3五」の位置に馬を置いておく方針である。ここが好位置と判断した。
 以下、進めて、次の図のようになるのが一例である。


 こうなれば下手が作戦成功と思う。 「激指」評価値は[ +1058 ]。 
 次に2五歩~2四歩や、3六歩~3七桂とすれば、下手の優位は着実に拡大する。
 これは下手が勝ちやすい形だ。

 だから、このように下手が十分になる前に、上手からどこかで戦いを挑んでくることが想定される。下手はその時に負けないような備えができているかどうかである。
 上手から考えられる手段は、4三銀と置いた状態で、4四角と打ってくる手である。
 下手が3六馬と角交換を避け、そこで上手は6五歩と攻めてくる。それをどう受けるかを考えておく必要がある。
 また、4四角に、同馬と交換するのもあるだろう。

 
 研究発表はここまでとする。

 以上のように、八代大橋宗桂が最初に指した、「飛車落ち(飛香落ち)」でのこの「6手目4五歩」からの角交換戦法は、かなり優秀な戦法と思われる。
 優秀なのに、これが主流戦法にならなかったのは何故だろうか。
 おそらく、変化が多いから、下手が誤魔化されて結局勝ちにくいと思われているからだろう。
 角や歩を手駒にしていることもあって、上手にも、下手にも、手の選択肢が多い。“下手に選択肢が多い”というのは、下手が間違える可能性が大きくなるということでもあるのだ。いくらソフトの評価値が大きくなっても、いくつも間違えていたのではなんにもならない。
 (その点、たしかに「右四間定跡」なら、御手本(実戦例や定跡書)があるし、相手の序盤の指し手を限定しやすいところがある)
 しかし、幸い、現代はソフトというトレーニングパートナーがある。これを相手に、この戦法の「経験値」を増やすことができる。下手の「経験値」が上がれば、この「6手目4五歩」戦法は、相当有力な戦法になると思うのである。


 本レポートの後半で我々が示しかったことをまとめると、
  (1)「飛車落ち」の下手の戦い方は、「右四間」だけではないこと。どの戦法を採用しても、それなりに下手が有望な将棋になる。
  (2)「飛車落ち」で、下手が強い上手に勝つためには、「中盤・終盤を勝ちきる力」が必要だということ。
 この2点である。

 「中盤・終盤を勝ちきる力」が必要というのはわかりきったことではあるが、これこそが「将棋の強さ」の核心なのである。ここが最も重要な点。
 それがあれば、どの作戦を採っても、下手が勝てる。
 しかしそうした“力”が足らない場合、それでも、その不足分を“序盤研究”で補えば、下手にもチャンスはできる。研究し、自分の得意型をつくり、その型の経験値を上げれば、“力”の不足をカバーして勝つことができるだろう。
 「飛車落ち」「飛香落ち」は、そういう手合いである。

 強者を相手にした「飛車落ち」(または「飛香落ち」)は、下手の才能努力とが、このように結果に素直に反映されるおもしろい手合いといえる。

 現代に「飛車落ち」の“真剣勝負”があれば、それも面白いと思うのだが、現代ではその舞台設定は難しいであろう。仮にその舞台設定を誰かが用意したとしても、世間は“指導将棋”にしか見てくれないからである。真剣な「駒落ち将棋」の楽しみ方を、世間が忘れてしまったようである。


 予定外に長く続いた「第十代徳川将軍家治」のシリーズも、次が〆となる。
 徳川家治作の「将軍詰め」を鑑賞しよう。 
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終盤探検隊 part79 第十代徳川将軍家治

2016年01月14日 | しょうぎ
 この図は、1797年御城将棋「六代伊藤宗看-九代大橋宗桂(右香落ち)戦」の31手目の局面。上手の九代宗桂の8六歩の仕掛けがかっこよい。
 徳川家治時代の将棋最強者は九代大橋宗桂である。
 今回は、九代大橋宗桂の将棋の棋譜を鑑賞する。

 
   [黄金無尽蔵]
「道はついたぞ。とうとう黄金城に辿りついたのだ」
「で、どのようであった」
「何もかも黄金ずくめだ。十二の門に囲まれ、中央に高い塔がそびえ立っていた。門から塔へは黄金の道、塔も門も、塔と塔をつなぐ垣もすべて黄金でできている。これで鬼道は天下を握ったも同じだ」
「行こう。黄金城へ」
 鬼道衆は勇み立った。
「待て」
 信三郎がはやる仲間をおしとどめた。
「行くには行けるが、黄金城はこの世にはない。渡るべき橋をまず守らねば、行ったきりになりそうだ」
そういうと立ちあがった。
「黄金城はこの世の外にある。そこにかけられた橋は、あの妖怪長者の心だった。妖怪長者がいまのままの狂気でいる限り、橋を使ってどんどん黄金を運び出すことができよう。とにかく妖怪長者を、こちらでおさえておくことが肝要だ。(以下略)」
                           (半村良『妖星伝』(四)黄道の巻より)



棋譜鑑賞1  九代大橋宗桂-三代伊藤宗看(飛車落ち) 一七六〇年 御城将棋

 「飛車落ち」というと、将棋の地方イベントなどで、プロの棋士とアマ強豪などで組まれたりする、そういう手合いで、プロ棋士に「飛車落ち」で勝てる人は“強い!”と称賛してよい。ただし、プロの卵なら当然勝たなければいけない、そういう手合いである。
 七世名人である三代伊藤宗看に対して、数え17歳の印寿(九代大橋宗桂)が挑んだ御城将棋での「飛車落ち」の対局。すでに印寿は伊藤看寿、四代大橋宗与に対して「飛車落ち」で過去の御城将棋で勝利しており、名人宗看に勝てば「飛車落ち」は卒業である。
 なお、宗看と看寿は、九代宗桂にとって、血筋的には叔父にあたる。ただしこの1760年という年の8月に、看寿はこの世を去ってしまっていた。この宗看(55歳)も翌年に亡くなる運命にある。


 「飛車落ち」というと、いまは下手は「右四間飛車戦法」での定跡しかなじみがないが、振り飛車が主戦法である江戸時代では、「下手三間飛車」が本来は正攻法であったはず。ただし、「定跡」と呼ぶような定型はなさそうだ。上手の対応がいろいろあって、変化多様なのだ。
 この図は、今上手の名人三代宗看が4五歩と突いたところ。大胆な一着だ。


 上手に飛車がないのでこれは「相振り飛車」ではないのだが、それを連想させるような駒組みになっている。
 「飛車落ち」という手合いの将棋は、どのように組んでも、常識的に組めば、仕掛けたところではだいたい下手優勢である。そこから、上手が「いかにして下手を間違わせるか」という勝負になる。
 だから9五歩と下手印寿(九代宗桂)が仕掛けたこの図は当然下手が優勢。
 しかももうこの5年前に御城将棋デビューし、八段伊藤看寿を相手に「飛香落ち」で堂々とした勝ち方を見せている九代宗桂である。(その時印寿は数え12、現代でいえば小学5年生)
 さらに研鑽を重ねて17歳になった印寿と、たとえ相手が名人三代宗看とはいえ、「飛車落ち」では、すでに“手合い違い”であって、おそらくは「香落ち」くらいの手合いが妥当なところ。その力関係からすれば、こう仕掛けたこの図では、もう下手九代宗桂必勝と言ってよい。
 ただ、その九代宗桂の“勝ち方”を見てほしい。
 ここから、9五同歩、9三歩、同桂、9二歩、同香、9五香、4六歩、同歩、5五銀と進む(次の図)


 おとなしく受けているだけでは上手に勝つ可能性はない。5五銀(図)と名人は指し、次に4五歩や6六銀などを見せて下手をおどす。
 ここから、九代宗桂は8四歩と攻める。以下、同歩、同銀、8三歩、7三歩、同金、同銀成、同銀。
 さらに、9四歩、4七歩、同金直、4五歩(次の図)


 ここから9三歩成、8四歩と進んだ。
 そこで、4五歩、3五角、6五歩のような指し方がふつうかもしれない。

 しかしここからの九代宗桂の勝ちの“決め方”に宗桂の輝き(個性と才能)が見られるのである。

 九代宗桂は、そこで5六桂と打ち、3五角に、3六金(次の図)


 3六金(図)と出て、4六歩に、4八歩と宗桂は受けた。
 宗看は5六銀。対して宗桂は3五金と角を取る。
 これを同歩では5六歩で攻めの手がかりがなくなるので、上手宗看は4七銀打と打ちこむ。同歩、同歩成、同金、同銀成、同玉、5五桂、5八玉、6七金、4九玉、4七桂成(次の図)


 上手の駒が迫ってきた。しかし次の手が、宗桂が用意していた手だった。


 3六角。王手で4七の成桂をはずすことができる。
 おそらく5六桂~3六金とした時から、この下手はこの手を決め手にしようと考えていたのである。
 いや、もっと先まで読み切っていたのだろう。

 図以下、6一玉、7二銀、5一玉、4七角、3五歩、7九角(次の図)


 遊んでいた角をここで受けに使う。
 上手は4五桂で攻めをつなぐ。
 そこで4四桂。この4四桂があるので、あの上手玉は捕まえられる。
 ここで七世名人宗看は5七金としたが、5七桂成だと、同角、同金、5二桂成、同玉、2五角、4三歩に、4四桂で詰まされてしまう。そこで名人は、桂馬を渡さないように5七金としたが――
 5七金、同角、同桂成、4一金(次の図)


 この場合は4一金から上手玉に“詰み”があるのだ。以下、6二玉に、6三銀打、同金、6一銀成、同角、2五角(次の図)


 もう一度、この角を使う。
 7一玉、7二歩、同玉、8三金、8一玉、9二と、7一玉、7二歩まで、118手で、名人三代宗看が投了した。

 同じ“勝つ”にしても、才能を見せつける勝ち方である。
 この下手大橋印寿は将来「八世名人九代大橋宗桂」となるのだが、才能のきらめきはもう名人にふさわしいものを示していた。


棋譜鑑賞2  九代大橋宗桂-四代大橋宗与(飛車落ち) 一七五八年 御城将棋

 これは上の対局の2年前の、やはり御城将棋の「飛車落ち」戦。印寿(九代宗桂)は数え15歳(現代でいえば中学生)
 四代大橋宗与は大橋分家の四代目で、八段(=最高段)。


 下手が「三間飛車」に作戦を決めた時、上手はどう対応するのがよいのか。どうやっても飛車のない上手が優勢になる作戦などないのだが、“上手が勝ちやすいかたち”というのはあるかもしれない。
 この将棋は、下手の九代宗桂がいったんは7六飛と浮き飛車に構えたのだが、図のように二枚の銀と角とを使って7筋にちからを集め、下手の飛車先を圧迫してきた。
 ということで、下手宗桂は7八飛と飛車を引いた、という状況。こうなると上の将棋と別の将棋になる。
 九代大橋宗桂はどういう将棋にしたか。


 右に玉を囲った後、宗桂は5六銀として、7七桂(図)と跳ねた。
 以下、5五歩、6七銀、5二金、5八飛と進む(次の図)


 中飛車へ。これが九代宗桂の構想だった。次に5六歩、同歩、同銀となると下手も伸び伸びした陣形になる。
 
 上手の四代大橋宗与は5四金としたが、ここは4一玉、5六歩、同歩、同銀、5四歩(参考図)のように指すところだったかもしれない。
参考図
 これは、次は上手は3二玉として、あとは下手からの攻めを待つような展開になる。下手は5六銀型で好形だが、すぐに下手からの攻めがあるわけでもない。

 本譜、四代宗与は、攻めの主導権をとって闘う方針だったか。
 宗与は5四金としたので、5六歩、同歩、同飛、4五金、2六飛と進んだ(次の図)


 まさか八段の宗与がこの2六飛をうっかりしたなんてことはないだろう。
 しかし2三飛成が実現しては、下手が勝勢になる。
 だから上手は、2五桂、同飛、2四歩、2六飛、3五金、5六飛、5五歩、5八飛、4五歩と指した。
 次に4六歩、同歩、4五歩のような4筋の攻めがねらいだ。


 しかし8六桂(図)があった。“桂得”になった下手は、銀を取ればさらに駒得が拡大する。
 8五銀、6五歩、8六銀、同歩、5三銀、7五歩と進む。“銀得”となった下手が勝勢である。


 7五歩! この落ち着きっぷり! まるで“上手”のようである。
 次に7四歩を見せて、上手に“攻めてこい”という態度である。飛車のいる5筋から攻めるのではなく、7五歩というのが、“何か”を感じさせる。
 上手の宗与は、4六歩、同歩、5四桂(次の図)


 放っておくと4六桂が王手飛車取りになる。
 2八玉、2五歩、7四歩。
 序盤に7筋を上手に支配されたのだが、それを逆手にとるような7五歩~7四歩である。
 2六歩、同歩、4六桂、7八飛、4四銀、7三歩成、2七歩、同玉、7五角、5七歩、2五歩、同歩、8六角、4七歩(次の図)


 上手は攻めが足らない。2六歩、2八玉、4五銀、4六歩、同金、4七歩、5七金、同金、7五角、4八銀、5六金、同金、同歩、8五桂(次の図)


 8五桂(図)で飛車角の利きがいっぺんに通り、下手の勝ちがはっきりした。
 7七歩、同角、5七歩成に、3三角成、4二金打、4三桂、同金右、6二金、4一銀、5二銀、同金、3二銀と、詰むまで指して、上手四代大橋宗与は投了した。
 
 この将棋は序盤の九代宗桂の7七桂から5八飛という構想がうまかった。


 八段、名人クラスが相手でも、この下手にとって、「飛車落ち」では敵ではない、そう感じられる内容の棋譜をこのように若き日の九代宗桂は御城将棋に残している。どれも、むしろ“下手が上手を圧倒する”ような内容である。

  1755年 ○九代大橋宗桂-伊藤看寿(飛香落ち)        
  1756年 ○九代大橋宗桂-伊藤看寿(飛車落ち)
  1757年 ○九代大橋宗桂-伊藤看寿(飛車落ち)
  1758年 ○九代大橋宗桂-四代大橋宗与(飛車落ち)  
  1759年 ○九代大橋宗桂-伊藤看寿(飛車落ち)
  1760年 ○九代大橋宗桂-名人三代伊藤宗看(飛車落ち)

 これが九代大橋宗桂(印寿)の12歳でデビューして以来の1760年までの御城将棋での対局であるが、全勝である。いま見てきたように内容も素晴らしいものである。
 気になるのは、この印寿(九代大橋宗桂)の“昇進の遅さ”である。これほどの実力を持ちながら、まだ「飛車落ち」というのが不思議でならない。
 なお、1757年「九代大橋宗桂-伊藤看寿(飛車落ち)戦」は、本シリーズ「part62」ですでにその終盤を紹介している。14歳印寿(九代宗桂)の、有吉道夫も絶賛の見事な寄せで勝った将棋である。この時の下手の作戦は、現代を生きる我々にもなじみのある「右四間飛車」である。
 他に、看寿とは1756年、1759年にも「飛車落ち」戦を戦いこれもしっかり勝っている。


 「飛車落ち」を卒業すれば次は「角落ち」である。もはやこの九代宗桂の実力はトップクラスに肉薄するほどであったと思われる。
 ところが1760年に伊藤看寿(次期名人予定者)が死に、翌年には名人の三代宗看が死んでしまった。(九代宗桂と、三代宗看、看寿との「平手」または「香落ち」の将棋が見られなかったのはまことに残念なことである)


棋譜鑑賞3  九代大橋宗桂-四代大橋宗与(角落ち) 一七六一年 御城将棋

 1761年、トップ棋士として残ったのは、四代大橋宗与(八段)と八代大橋宗桂(七段、九代宗桂の父)の二人。その四代宗与は献上の図式(詰将棋)が作れず、名人にはなれない。宗与は53歳。
 異例の「名人位の空位」の時代に突入した。
 この時、あるいは実力NO.1は、すでに18歳の印寿(九代大橋宗桂)だった可能性もある。


 九代大橋宗桂と四代大橋宗与との「角落ち」戦はこのような将棋になった。
 これは現代ではあまり知られていない下手の作戦。つまりこれは「角落ち」戦での「二歩突っ切り戦法」(「二枚落ち」で見られる序盤で4筋と3筋の歩を突いていく作戦)である。これは前例があり、1738年御城将棋「伊藤看寿-四代大橋宗与(角落ち)戦」で看寿が披露した作戦である。つまり上手番として四代大橋宗与は対戦経験のある戦法だった。とはいえ、定跡ができるほどの棋譜の蓄積はない。

 ここから、上手四代宗与は8二飛。次に8四飛として、7五歩、同歩、8六歩のような攻めが狙いだろう。


 しかし、8二飛に、下手印寿(九代宗桂)は、機先を制して“6五歩”。 同桂なら6六歩だ。
 上手5三銀としたが、3五歩、2三銀、5五銀と、下手の印寿が先攻する。
 以下、8六歩、同歩、同飛、8七歩、8四飛、5四銀、同歩、4四歩、5三銀、4五金、7五歩、6六角、4五銀、同桂、4二銀、5三銀、5四飛、5六飛(次の図)


 下手は飛車交換を迫る。そうなった時に、下手陣の「左美濃囲い」がたのもしい。
 5五歩、同飛、5三銀、5四飛、同銀、5一飛、2二玉、5四飛成、4四歩、5三桂成、4九飛、8八玉、5八歩、4三歩(次の図)


 4三歩で、下手優勢。
 5九歩成、7九金に、6九金、同金、同と、4二歩成、7九銀、7七玉以下、下手九代大橋宗桂が順当に勝ち。「角落ち」の下手のリード差をそのまま維持してゴールインしたような将棋だった。
 もはや「角落ち」では、八段、名人といえど、この大橋印寿(九代宗桂)には、上手が歯が立たないのは明らかであった。

 ところで、後年、1768年御城将棋「大橋宗順-九代大橋宗桂(右香落ち)戦」(本シリーズ「part74」で解説)で、九代大橋宗桂が相居飛車戦で「左美濃囲い」を使って快勝した。その将棋以降、「左美濃囲い」が江戸時代の終わりまでずっと大流行するのだが、そのアイデアのルーツはこの「角落ち」の下手の「左美濃」にあったのかもしれない。

 この対戦相手の四代大橋宗与も、2年後の1763年に他界した。これで八段以上の将棋指しがいなくなった。


棋譜鑑賞4  九代大橋宗桂-八代大橋宗桂(角落ち) 一七六三年 御城将棋

 大橋印寿(後の九代大橋宗桂)は1763年の御城将棋で、「角落ち」の手合いで父八代大橋宗桂(当時七段)と対戦することとなった。
 印寿は20歳になっていた。父八代大橋宗桂(幼名は伊藤宗寿)は50歳。


 その対局で、印寿が新戦法を披露した。「角落ち」における「下手三間飛車銀冠美濃」作戦である。
 本シリーズで、我々はこの戦法の開拓者を大橋分家の宗順として紹介している。1765年の御城将棋で大橋宗順がこの戦法を指していることを根拠にそう述べていたが、誤りだった。それよりも2年前のこの対局で、下手の九代宗桂がこの作戦をすでに採用していた。
 この図は、いま下手印寿が“2七銀”と指したところ。これが新戦術であった。(おそらくこれが史上初の「銀冠美濃」である)
 
大橋宗銀-伊藤印達(角落ち) 1710年
 予備知識として「角落ち」の「下手三間飛車戦法」の歴史について解説しておく。
 この図のように、上手が4三玉と“三段玉”で戦うという指し方が、まず、創造的なアイデアである。(ふつうは3二玉としそうだし、実際ずっと昔は3二玉が主流だった)
 「上手三段玉作戦」、これを最初にやった棋譜は、どうやらこの図、1710年「大橋宗銀-伊藤印達(角落ち)戦」のようである。伊藤印達が指している。(この将棋も初めは3二玉型で、そこから4三玉とした)


 ただその将棋は(玉頭ではなく)7筋での戦いが中心であったし、印達もこの「三段玉」の指し方はこの1度しかやっていない。(将棋は下手宗銀勝ち)

四代大橋宗与-二代伊藤宗印(角落ち) 1722年 御城将棋
 天才少年伊藤印達は1712年に15歳で夭折したのだが、その父であり伊藤家2代目の宗印(=五世名人、三代宗看や看寿の父でもある)が1722年の御城将棋で、その「角落ち上手三段玉戦法」を採用した。それがこの図である。息子のアイデアを父が発展させたのである。
 8一飛で地下鉄飛車にして、2一飛とまわって、2五歩。 下手の玉頭を襲う。
 これが優秀な作戦だった。
 2五同歩、同桂、同桂、同飛、2七歩、8三金、4五歩、同歩、3七桂、2一飛、4五桂、4四銀(次の図)


 この将棋は下手の四代大橋宗与(当時15歳)が勝つのだが、この図での形勢はかなり接近している。四代大橋宗与はここから1五歩として勝ったが、しかしそれは下手に力量があったからで、この図では最初にもらった「角落ち」の下手の優位がほとんどなくなっている。
 「戦法」としては、この上手の作戦はかなり優秀なのである。

 そのためと思われるのだが、この将棋の後、御城将棋での「角落ち」の将棋は、下手が「三間飛車」を採らず、その結果下手の「矢倉」や「相掛かり風の浮き飛車」などが発展・流行をする。

 そのしばらくずっと指されなかった「角落ち下手三間飛車」を、20歳の若者九代大橋宗桂が、1763年、久しぶりに登場させたというわけである。「銀冠美濃」というアイデアをプラスして。(まだ振り飛車の美濃囲いはほとんど見られない時代に「銀冠美濃」を思いついたのが画期的)


 「九代宗桂-八代宗桂戦」に戻る。八代大橋宗桂がいま地下鉄飛車で2一飛と指したところ。
 こうなった時、下手の分厚い「銀冠美濃」が心強いとわかるだろう。 
 この将棋は、以下7五歩、同歩、同飛に、上手が8六歩、同角、8八歩と切り返し、さらに7七桂、8九歩成、3五歩と進んでいる。
 実戦はそう進んだが、7五歩、同歩、同飛に、7四歩でどうなるのかを確認しておきたい。

参考図2
 7五歩、同歩、同飛、7四歩なら、7八飛、5二玉、7六銀、4三銀、7五歩、8三金、7四歩、同金右、7五歩、8四金、8六歩となって、この図。
 さらに8六同歩、同角、8一飛、8八飛、8五歩、5九角、4二玉、7七桂、3二玉、4八角(次の図)

参考図3
 ここまで、上手には有効手があまりない。下手にスキがないので待つしかないのである。
 その間下手は、7七桂~4八角で、十分な体勢をつくった。次は6五歩から攻めていく。

 このように下手に十分に組ませると、上手に勝ち目が少なくなる。
 ――という判断でおそらく上手の八代宗桂は7四歩と打たず、8六歩から“勝負”にいったのであろう。


 で、こうなった。下手印寿は3五歩とここから攻めた。「銀冠」なので、玉頭戦歓迎である。
 8三金、3四歩、同玉、3六銀、9九と、3五飛(次の図) 


 4三玉、3四歩、3二歩、3三歩成、同歩、7五桂、3四歩と進む。
 これで下手の飛車は行きどころがないのだが、3四同飛、同玉、6三桂成となって、下手勝勢である。
 以下、4三玉に、4五歩から攻めて、下手が勝ち。


 時代は、九代大橋宗桂の時代になった。(または“徳川家治時代”である)
 しかし、三代伊藤宗看、伊藤看寿、四代大橋宗与がそろって他界してしまったことは、彼にとって不幸だった。その“強さ”を示す基準がなくなってしまったからである。

 この時代、九代大橋宗桂は「最強者」でありながら、昇段が遅い。1770年代後半になってもまだ宗桂は五~六段であった。(九代大橋宗桂の昇段が遅かったので、彼とよい勝負をしていた大橋宗順も昇段が遅く、その後世の評価も成績の割に不当に低いように思われる)


 棋譜鑑賞5  大橋宗英-九代大橋宗桂(右香落ち) 一七八三年 御城将棋

 大橋分家宗順の息子、大橋宗英が1778年、御城将棋でデビューした。
 宗英は、翌1779年には当時の最強棋士九代宗桂と「角落ち」で初対決し、当然のように勝っている。
 新たな“才能”の台頭である。
 九代大橋宗桂と大橋宗英の次の対決は、1783年御城将棋、手合いは「右香落ち」。宗桂40歳、宗英28歳。両者にとって、重要な勝負であっただろう。

△8四歩 ▲7六歩 △8五歩 ▲7七角 △6二銀 ▲9六歩 △5四歩 ▲9五歩 △3四歩


▲2二角成 △同銀 ▲8八銀 △3三銀 ▲7七銀 △4二玉 ▲9四歩
 「右香落ち」の将棋。ここまでは“フツウの序盤”だが――
 ここで2二角成と宗英は角交換。「右香落ち」では過去にもこういう角換わりは見られた。伊藤宗看(三代)、看寿、四代大橋宗与の時代に流行った指し方だが。


△9四同歩 ▲同香 △3二玉 ▲9八飛 △8六歩 ▲同歩 △9六歩
 7七銀とした後、下手の宗英は16手目に早くも仕掛けた。9四歩。
 それにしてもこの大橋宗英という人は、「居玉」で仕掛けるのが多い人だ。この人を「近代将棋の祖」などとWikipediaにも書かれているのだが、これはいったい誰が言い出したのだろう、その表現は間違っている気がする。
 「近代将棋」というのは、誰でもが真似をしたくなるような将棋の方向に進化を進めていくことだと思うが、この二人の天才、九代宗桂と宗英の将棋は、才能あるものでなければ真似のできないレベルにあると感じる。

 宗英のここでの「9四歩」の仕掛けは、十分に成立しているようだ。


▲5八金右 △8七角 ▲9九飛 △8四飛 ▲9一香成 △7一金
 図は上手宗桂が「9六歩」と歩を打ったところ。
 この「9六歩」は勇気のいる一着で、九代宗桂の個性を表現している。この手がこの将棋の序盤を形づくることになった。
 上手に歩がたくさんあれば何でもない手だが、これで上手は歩切れになる。この9六歩をうまく下手に取られてしまったら、それでまっすぐ敗北になる可能性もある。居玉で仕掛けてきた若者に、「将棋をつくるのは私だ」というように攻めの主導権を手繰り寄せるような、強い意志の籠った「9六歩」である。

 「9六歩」を、これを同飛なら上手は7四角から馬をつくる。
 なので下手宗英は5八金右とした。これで次に9六飛をねらうが、宗桂は8七角。
 二人の天才が技を繰り出して早くも最初の勝負どころである。 

 下手は9九飛。以下、8四飛、9一香成、7一金(次の図)


▲7八角
 さて、下手に手番が来た。どう指すか。(宗英は7八角と指した)

参考図
 ここまでの上手の宗桂の(9六歩以下の)指し方はちょっと無理があるようで、ここは7九金(図)と指せば下手が良さそうだ。8八金からあの角を取りに行くのだ。
 後の変化を読み切るのがむつかしいが、9四飛、9八歩、7四飛、8一成香、同金、8五角、8四飛、8八金のような変化が予測される(次の参考図)

参考図
 角をタダ取りされてはたまらないので、上手は8五飛と指し、同歩、8六香、同銀、7六角成のような展開が予想される。
 これは下手の飛車も愚形だし、まだ勝負はこれからだが、厳密には下手が良いだろう。(「激指」の評価は[ +648 下手有利 ])


△7八同角成 ▲同金 △9四飛 ▲8一成香 △同金 ▲8八銀 △7一金
▲8三角 △9五飛 ▲5六角成 △2五飛
 宗英は7八角と指した。あの角を消して9六飛と指したいということだ。
 このあたり、宗英は9六の歩を取りきろうと、そこにこだわって指している。実際9六飛がすんなり実現すれば、上手は歩切れだし、それでもうほとんど下手勝ちが確定する。


▲4六歩 △2七飛成 ▲9六飛 △5五歩 ▲4七馬 △1四角 ▲2八歩
 宗英はあるいはこの2五飛を軽視していたかもしれない。2五飛に対する受けがむつかしいのである。(8三角~5六角成の手で、4八玉としていればこの筋は防げた)
 これに対し、3八銀と受ける手があるようだ。以下、2八角と打たれる手があるが、4六歩、1九角成、3六歩とする。以下、5五飛には、4七馬(参考図)

参考図(3八銀の変化)
 下手駒損になるが、歩切れの上手の攻めの継続も難しく、形勢互角。

 本譜の進行は、2五飛に、4六歩、2七飛成、9六飛、5五歩、4七馬、1四角、2八歩(次の図)


△4七角成 ▲同金 △7四角 ▲6九角
 こうなってみると、下手苦しい。2八歩に代えて8三馬は、8二歩と打たれ、6五馬、6四歩となって、結局2八歩と打つしかなくなる。(9二馬は9一香があってダメ)


△9六角 ▲2七歩 △7四角 ▲4八玉 △4四歩 ▲9四飛 △6五角
▲7七桂 △7六角 ▲9一飛成 △8一歩 ▲7二歩 △同金 ▲5八角 △3五歩
 9六角、2七歩、7四角、4八玉…
 こうして、序盤は上手九代宗桂が制した。9六歩と打って下手の飛車を封じた作戦が結果的には成功した形になった。
 以下進んで、次の図となった。


▲3六歩 △同歩 ▲8一龍 △7一金 ▲8四龍 △5二金
 下手は駒損をしているわけでもないし、竜もつくっているのだが、5八の角が働きのない駒になっている分だけ、下手が不利―――だったが―――

 図はいま、上手九代宗桂が3五歩と指したところ。ここで3五歩と位を取るのは、これを考える棋士は他にあまりいないであろう。これも九代大橋宗桂の“個性”の一手といえる。(客観的にはあまり良い手とはいえないと思われる)

 これを見て、下手宗英が3六歩と突いた。チャンスが来たぞ、と思ったかもしれない。ここが新たな“争点”になった。
 3六歩は好手と思われる。3六同歩に、宗英はタイミングを見て3六金として4七角と使う手を考えている。

 そうして、この二人の天才の“強さ”と“個性”がぶつかり、火花を散らしているような戦いが玉頭で展開される。
 九代宗桂も宗英も、陣形を整えるより、戦うことを好むタイプで、宗桂も下手の3六歩を誘ったのかもしれない。

 図から、3六同歩、8一竜、7一金、8四龍、5二金と進んだ(次の図)


▲4五歩 △8三歩 ▲7五龍 △9八角成 ▲5五龍 △4三馬 ▲3四歩 △同馬
▲3五歩 △4三馬 ▲3六金 △5三銀 ▲3八銀 △4五歩 ▲3七桂 △4四銀左
▲9五龍 △5六歩
 5二金と上手が指したのは、下手の3四歩、同銀、4四龍のような狙いに対応したものと思われる。
 ここで下手の宗英はチャンスみたか、4五歩と戦線を拡大。(“不利な時には戦線拡大”という勝負術の教えもある)
 しかしここは8七銀がよかったのではないか。それが我々終盤探検隊の研究だ。
 8七銀、4三角、3五桂、3四角、3六金と指す。以下、5六歩、同歩、同角なら、5四龍、5三香、5六竜、同香、5七歩となる(参考図)
参考図8七銀の変化
 ここで次に下手からの6五角が厳しい手になるので、上手はこの図で5三銀(6五角に5四歩を用意)が最善とみるが、そこで2三桂成とし、同玉、4一角、3二飛、4七角で、次の参考図。

参考図
 この図の、ソフト「激指13」の評価値は[ -196 互角 ]である。
 厳密には上手良しかもしれないが、勝負形になっていると思われる。


▲5六同歩 △5五歩 ▲9一龍 △6二金上 ▲4二歩 △同銀 ▲4六歩 △5六歩
▲4七角 △7六馬 ▲4五桂 △7五馬 ▲6六桂 △3七歩
 実戦はこの図となった。上手は馬をつくって、上部が厚くなっている。やはり5八角が下手の負担になっていて、上手優勢。(「激指」は[-682])


▲3七同玉 △5七歩成 ▲6五角
 3七歩で下手困った。これを同銀では、5五香とされ、そこで5八歩と受けるようでは5筋を歩で攻める手もなくなり、6九飛と打たれて、もう勝ち目はない。
 宗英は3七歩を同玉で最後の勝負に出る。5七歩成に、6五角(次の図)


△6五同馬 ▲同桂 △5九角 ▲2八玉 △4八と ▲4一角 △2二玉
▲2三角成 △同玉 ▲2一龍 △2二歩 ▲1五桂 △1四玉 ▲2二龍 △3八と
 これはしかし形作りの手かもしれない。6五同馬、同桂、5九角以下、下手玉は寄り。

投了図
 まで123手、上手九代大橋宗桂の勝ち。

 九代大橋宗桂と大橋宗英の初の「香落ち」の勝負は、12歳年上の九代宗桂がこういった将棋でものにした。

 やがて1789年、九代大橋宗桂は八世名人に。46歳。 


 棋譜鑑賞6  六代伊藤宗看-九代大橋宗桂(右香落ち) 一七九七年 御城将棋

 そしてまた新たな“才能”が、今度は伊藤家から現れた。六代伊藤宗看(前名は松田印嘉)である。
 九代大橋宗桂と六代伊藤宗看との年齢の開きは24歳。
 この六代宗看が登場した1784年からの15年間は、大橋分家の宗英を加え、「三強時代」となった。
 
 この1797年という年は九代宗桂は八世名人になって9年目で、54歳。この2年後に他界する運命である。

六代伊藤宗看-九代大橋宗桂 1797年 御城将棋

 これも「右香落ち」の将棋で、下手の六代宗看の「9七角型相掛かり」。
 こうした端角の相掛かりは、「平手」でも時々アマチュアでは指す人がいるが、この場合は「右香落ち」なので9七角型でも安定しており、十分考えられる作戦である。が、六代宗看以前にこれを指した人はいないかもしれない。六代宗看オリジナルの得意戦法のようだ。

 今、3六飛と、下手の宗看が“タテ歩取り”をみせたところ。(この手は上手が7四歩と突いたのを見て、こう指した)
 これに対して、ふつうは4四歩、3四飛、4三金のような対応であろう。
 ところが“才能”のあふれる九代宗桂の指し手は違った。7五歩。(3四飛なら7六歩と攻めるのだろう)
 以下、同角、7二飛、9七角、7四飛、8八銀、7三銀、7六歩、6四銀、7七銀、7三桂、6六歩、5五銀、5八金右、8六歩(次の図)


 前の図から、上手の九代宗桂は、攻めの手ばかりを指して、なんと8六歩から開戦した!
 ふつうなら4二玉~3一玉くらいまで囲った後に攻めそうなものだが、宗桂は下手が6七金と備える前に攻めるのがチャンスとみているのだろう。
 下手六代宗看はこれを同歩と取ったが、同角だとどうなるのだろう?
 それは8五桂、9五角、4二玉、8六銀、9七桂成(参考図)のように進むのではないか。

参考図
 9七桂成を同香や同桂は、9四歩と突き、7五歩、6四飛、7三角成、6六飛、同飛、同銀というような展開になる(形勢は互角)
 9七桂成を同銀には、6六銀、6七歩、9四歩、8六角、8五歩、5三角成、同金、6六歩。これも形勢互角。

参考図
 実戦では下手の宗看は8六同歩としたのだが、それには6四歩という手が有効手だったかもしれない。以下、6七金には、6五歩と攻めて、この参考図である。
 これは下手がたいへんのようだ。この場合も6四歩~6五歩の前に4二玉などと一手ゆるむと、4二玉、6七金、6四歩に、3四飛で、上手の攻めは不能になる。
 この図になると上手の攻めが成功しているようなので、6七金の手で下手は他の手を考えるしかないかもしれない。
 とにかく、下手8六歩に、6四歩~6五歩はたいへん有力だったという話。
 九代宗桂のつくった攻めの陣形と8六歩の一手が、天才的な素晴らしい構想だったようである。


 8六同歩に、九代宗桂が指した手は図の3五歩。
 この3五歩に、同飛は、6六銀がある。以下、同銀、同角、7五銀、同飛、同飛、6四銀(参考図)

参考図
 これは上手良し。

 よって、実戦は3五歩に2六飛。以下、3四飛と宗桂は“ひねり飛車”に。
 下手の宗看は上手の6六銀攻めに備えて8八角。
 すぐに宗桂は、3六歩と攻めた。


 善悪はともかく、名人九代大橋宗桂の攻めの煌めきが感じ取れる将棋である。
 ところで、この3四飛型の陣形と美濃囲いとはあまり良い組み合わせとは言えない。後で飛車がいなくなり、下手が桂馬を手にした時、3四桂と打たれる筋があるからで、美濃囲いはこの桂馬に弱い。実際に終盤でこの手が出てくる。
 そういうこともあってか、ソフト「激指」は、ここでは“下手持ち”の形勢のようだ。

 さて、図の3六歩に、六代宗看はこれを“同飛”と取り、以下、同飛、同歩と飛車交換になった。宗看はこの変化に自信があったのだろうが、これを“同歩”だとどうなるのだろうか?

参考図
 3六歩に“同歩”だと、以下、4四角、2八飛、3六飛が想定される。そこで「3七歩」は、2六飛、同飛、同角となりそうだが、これは互角の変化。
 「激指」のお奨めの手は、図の「3七銀」。 これで下手有利と「激指」は見ている。
 しかしこの3七銀は怖いところがある。3七同飛成、同桂、8七歩(この手で3六歩は3八歩で下手良し)、9七角、6六銀、同銀、同角という攻めだ。そこで7七桂と角成を防いで“下手良し”と「激指」は言うのだが…

 まあこれは実戦に現われなかった変化。しかし当然、宗看も宗桂もこの順を読んだはず。


 3六歩、同飛、同歩の後、4九飛、2八飛、1五角と進んで、この図。
 さあ、どちらが読み勝っているのか。

 5九金寄、4八角成、同金、6七銀で、次の図。


 “6七銀”と上手の名人宗桂は打ちこんできた。
 宗看はこれを“同玉”と取る手は考えなかっただろうか。どうやら“同玉”の変化は我々の研究では、下手良しである。
 6七同玉、5九飛成、7八玉、6六銀、同銀、6八金、8七玉、8九竜、5六角(参考図)

参考図
 こうなれば下手が良い。以下、6九龍には7八銀、3九龍には3八金。

 六代宗看の指した手は、九代宗桂の“6七銀”に、6九玉。 以下、3九飛成に、3七角(次の図)


 “これで受けきれる”と、下手宗看は自信があり、それでこの順を選んだのだろう。
 実際、宗看が勝つのであるが、ここで上手「5四歩」ならまだ形勢不明だった。
 その変化の研究は後でやることとして、ここで九代宗桂は2八竜と指した。これが“敗着”となった。以後、上手に勝ちはなかったようだ。
 2八竜、同角に、宗桂は、7八飛。
 この順に勝負を賭けたのだが、下手は5八金直と受け、上手6六銀(次の図)


 以下、7三角成、4二玉、3四桂(やはりこの桂が出た)、3三玉、6六銀、8八飛成、2二銀、3四玉、3五飛(次の図)

投了図
 64手で、下手六代伊藤宗看の勝ち。

 短手数で、上手の九代大橋宗桂の負けた将棋だが、宗桂の攻めの才気と棋風が現れた面白い将棋だったと思う。

参考図
 2八竜以下は負けと悟った上手の宗桂名人の形作りだったかもしれないが、その手で「5四歩」ならまだ難しい、というのは上でも述べた。この変化が大変面白いので、その内容を紹介しておこう。

 この「5四歩」は銀にひもをつけた手である。
 この5四歩に代えて、上手には3七飛成という手もある。これは角を取って、その角を8七角と打てば勝ち、という意味だが、3七竜には、“同金”と取られると、下手の2八の飛車の横利きが通るので、この手は成立しないのだ。
 というわけで、それなら2八竜、同角に、2七飛と打ち、3八金に、2八飛成、同金、そこで8七角と打てば、これは“上手勝ち”。上手にはこの狙いがある。
 ところが、今の手順は、2七飛に、下手3八金が悪い手で、代えて5五角、2九飛成、7三角成なら、これは下手が勝ち。
 この時に、しかし、5四歩と銀にひもがついていれば、2七飛、5五角、同歩となるので、今度は上手良し。
 「5四歩」の意味はそういう意味で、つまりこの図で下手が何もしなければ、2八竜、同角、2七飛で、上手良しになるのである。

 だから図で下手は何か良い手を指さねばならないが、どうやら4九金寄りが最善。今度同じように2八竜、同角、2七飛、3八金上、2八飛成、同金、8七角なら、5九玉と逃げられるので、下手良し。

 ということで、5四歩、4九金寄に、2八竜、同角、4二玉が上手の最善手順となるようだ(次の参考図)

参考図
 下手の4九金寄を見て、次の上手のねらいは6六銀である。
 ところがすぐにそれを指すのは、7三角成が王手になり、以下4二玉、5八金寄という変化になるが、これは下手有望。
 よって7三角成が王手になるのをあらかじめ避けておき、次に6六銀をねらうのである。

 下手は手を渡されて、また指し手が難しい。(ということは上手のチャンスはかなりあったはず) 7二飛は、6六銀で、これは上手が良い。

 最善手は5八金上(5八金寄でも同じになる)。 同銀成に、同玉。

 そこで2六飛が有力。(8七金もあって、これも有力)
 以下、3八金に、2七金と打つ。
 これに対し、3七角は、同金、同桂、2九飛成、3九飛、2七角で、下手悪い。
 よって、5五角とする。以下、同歩、4八金で、次の参考図。

参考図
 この図の「激指」の評価は、[ -56 互角 ]。
 つまり、「5四歩」なら、このようなコクのある形勢不明の熱戦がまだ続いたということだ。

 1797年の御城将棋のこの対局が、残された九代大橋宗桂の棋譜としては最後のもの――すなわち、「絶局」――となった。


 六代伊藤宗看の対九代大橋宗桂戦の成績は、「角落とされ」で1勝、「香落とされ」で2勝2持将棋。
 ずっと後(28年後)に六代伊藤宗看は名人(十世)になったが、九代大橋宗桂との対戦のこの好成績が決め手になったかもしれない。といっても「平手」での将棋は一局もないので、どちらが強かったということまでは言えない。

 九代大橋宗桂は、見てきたように、古い世代の三代伊藤宗看、伊藤看寿、四代大橋宗与、八代大橋宗桂、そしてて新世代の大橋宗英、六代伊藤宗看と、御城将棋で対戦した棋譜を残している。
 伝説の三代宗看、看寿と対局し、江戸後期の宗英、六代宗看とも対局――考えてみれば、そんな棋士は他に一人もいない。
 現代を生きる私たちには、九代大橋宗桂は「横歩取り3三角戦法」の創始者である、として紹介されるのが最もわかりやすい紹介になるかもしれない。「銀冠美濃」の創案者でもある。


 ところで、1782年に徳川家治とこの九代大橋宗桂が対局した棋譜が一つ残っている。その棋譜はすでに本シリーズ「part62」で見てきた、宗桂が“接待”してわざと負けたのではないか、という棋譜だが、この棋譜(横歩取り4五角戦法の棋譜)には、それとは別の“疑惑”があるようだ。
 もしかするとその棋譜は、1780年に行われた「徳川家治-五代伊藤宗印戦」の可能性がある。
 これが1782年「徳川家治-九代大橋宗桂戦」であると知られているのは、かつて『将棋世界』誌でそのように紹介されていたからだが、元々は『俊樹玉手』という手合い集に載っているものらしい。
 その一方で、まったく同じ棋譜が1780年「徳川家治-五代伊藤宗印戦」として、『御差将棋』という書に載っている。
 どちらかが間違っているはずだが…。 『俊樹玉手』も『御差将棋』も、徳川家治将軍の将棋手合い集である。
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終盤探検隊 part78 第十代徳川将軍家治

2016年01月10日 | つめしょうぎ
 九代大橋宗桂作『将棋舞玉』第三十番。29手詰の傑作である。


   [月影黄金城]
 青円はじっと見据えて日円のいう気配を探った。
「淫らな気配を感じます」
「そうだろう」
 日円は鋭い目で山をみつめた。
「胎動のようなものを感じてならん」
   (中略)
 理屈ではなかった。何か二人の理解を超えるものが、直接体にそう思わせているのである。
「燃える燃える」
 日円はたのしそうであった。すでに老境に達したその体には、若い日に燃えさかった血の感覚が蘇ることは、ここちよいことなのであろう。
「黄金城が近いのでしょう」
 青円の声はうわずっていた。
「この手でその扉をあけてやるぞ」
 大声で叫んだ。
                     (半村良『妖星伝』(四)黄道の巻より)



 本シリーズは徳川家治が将軍だった時代(1760~1786年)を中心に、将棋を調べている。

 詰将棋に関していえば、三代伊藤宗看、伊藤看寿の兄弟の時代(1728~1761年)が“黄金期”で、久留島喜内も江戸時代の代表的詰将棋作家だが、この人もこの時代の人物である。
 その宗看・看寿時代の詰将棋が作品として完成度が高いので、次の時代以降は“衰退期”などと呼ばれることもある。宗看・看寿のレベルが基準レベルになってしまい、どの詰将棋も物足らなく感じられてしまうのだろう。

 「家治時代」の詰将棋作家といえば、まず徳川家治、そして、八代大橋宗桂、九代大橋宗桂、桑原君仲である。

 今回は、九代大橋宗桂(印寿)の『将棋舞玉』第三十番、および、その父である八代大橋宗桂の『将棋大綱』から第七番、この2つを選んでこれを鑑賞することにした。

八代大橋宗桂 『将棋大綱』 第七番


 九代大橋宗桂作 『将棋舞玉』 第三十番
 
 九代大橋宗桂(1744年~1799年)は1789年に名人(八世)となったが、名人として必要な八段に昇ったのは1785年、献上図式はその翌年1786年である。それが『将棋舞玉』である。 

 ≪注意≫ 以下、解答を眺めていくので、自力で解きたい方は読んではいけない。

問題図
▲5一桂成 △同玉 ▲4二銀成 △同玉 ▲3三と △5一玉 ▲4二と

 この作品、問題図から“気品”を感じるが、いかがだろうか。

 この詰将棋の主役は、盤上の5九角と、持駒の二枚の香車である。
 5九角をいかに使うか、それがこの作品のテーマとなる。

 まず5一桂成、同玉と桂馬を捨てる。
 そこで9五角とする手があるが――

失敗図(3手目9五角)
 それは8四歩(図)で防がれて失敗。玉方の5七の角が8四に利いている。
 ここで持駒の「香香歩」でなんとかなりそうな気もする(たとえば4二銀成、同玉、4四香とか、5三香とか)が、詰まない。

 そういうわけで9五角はここでは駄目なのだが、この攻めが基本になる。

 左から攻めるのはダメだったので、それならと右から攻める手を今度は試行する。
 4二銀成(3手目)、同玉、3三と、5一玉、4二とで、次の図。 

7手
△4二同玉 ▲4六香

 盤上の攻め方の桂、銀、と金が邪魔駒だったわけだ。
 さあそれで、4二と、同玉となった時、4六香(9手目)が正解手で、“ねらいの一手”である。

9手
△4六同角成
 
 この4六香に代えて、1五角で詰めば世話がないが、これもまた敵の5七角の利きがあって、2四歩で止められてしまう。

 そこで、4六香である。この瞬間、5七角の後ろ右(こっちから見て右)への利きが止まっているので、たとえば4五歩合などでは1五角から詰むし、4六香を同竜も同じ。(この4六香に代えて4七香は4五歩で不詰。つまり4六香は限定打)

 ということで、4六香には同角成。
 これでこれであの「5七角」が、「4六」に移動した。“移動させた”のだが、それにどういう意味があったのか。

10手
▲3三歩成 △5一玉 ▲5五香

 ここで3三歩成、5一玉、9五角としても、今度は7三歩で止められてしまうから、「4六香、同角成」は意味のない捨て駒にも思える。

 しかしこの図で、3三歩成、5一玉の後の、13手目を見れば、なるほどと、その意味がわかる。

13手
△5五同龍 ▲9五角

 13手目の5五香。この作品の主眼である。
 9手目の4六香と、この5五香を決め手にするために、この詰将棋はつくられている。

 「4六」に角を呼んで、そして5五香と打てば、この瞬間に5五竜のタテへの利きと、4六馬の後ろへの利きが同時に止まっている。
 “焦点の香打ち”である。
 玉方はこれを竜で取っても馬で取ってもどっちかの利きはストップする。

 5五同馬は、5三竜で簡単に詰み。
 よって、取るなら5五同竜。

 それが正解手順になるのだが、しかし図の5五香に、合駒もある。それはどうなるのだろう。
 以下、それを考える。
 合駒するなら、「5四」か「5二」。

 しかし「5四歩合」は、5三竜以下簡単。

変化図1(14手目5四金)
 よって5四合なら「5四金合」だが、それには9五角(図)。
 以下、6二歩に、同角成、同玉、6三飛成、5一玉、5四香、同竜、4二金まで詰み。

 「5二」に合駒する場合を次に検証しよう。

変化図2(14手目5二歩)
 まず「5二歩合」には、やはりここでも9五角。5五香のおかげでこの角が働く。
 この図の9五角に、6二歩合は、同角成、同玉、6三飛成から、これも簡単な詰み。

変化図3(14手目5二金)
 「5二金合」と「5二銀合」がちょっとたいへん。

 まず「5二金合」(図)から。
 やはりこれにも9五角で、6二歩に、同角成(次の図)

変化図4
 6二同玉、5二香成、同竜、6三金(次の図)
変化図5
 5一玉、5二金、同玉、4二飛以下、29手駒余り詰。

変化図6(14手目5二銀)
 「5二銀合」にも、9五角で問題ない。最短の詰め方は、以下、6二歩に、同角成、同玉、6三歩、5一玉、8一竜(香車を取る)、6一歩、6二歩成、同玉、6三香、同銀、7一竜(次の図)


変化図7
 14手目「5二銀合」は27手詰になる。


15手
△9五同龍 ▲5三飛成

 正解手順の14手目5五同竜にも、やはり9五角。4六の馬の利きが止まっているからこれが有効になる。6二歩なら、同角成、同玉、6三銀成、5一玉、5二歩以下。
 9五角には、同竜が正解手順になる。

17手
△6一玉 ▲6二歩 △7二玉 ▲6三龍

 以下、5三飛成から収束。

21手
△7一玉 ▲6一歩成 △8二玉 ▲8三銀成 △9一玉 ▲9二成銀 △同玉 ▲9三龍

 あとはむつかしいところはないが、4六馬の利きが今は生きているので注意しながら詰ます。

詰上がり図
 まで29手詰。

 この詰将棋は、主眼である9手目4六香と13手目5五香のところ以外は、無駄にゴタゴタした変化がないところがとても良い。そのことが「5五香」という“焦点の遠打ち”を、より鮮やかに印象付ける効果をもたらしている。

 なお、7手目に5五香とし、同竜に、4二と、同玉、4六香と、“手順”を入れ替えるとどうなるか。
失敗図1
 これを同角成だと、3三歩成、5一玉、9五角で、正解手順と同じになって詰む。
 しかし図の4六香を「同竜」で詰まない。そこで1五角なら4一玉で、他に3三歩成も、8六角も、やはり4一玉で、4六竜が後ろに利いているので詰まないのである。
 よってこの順は成立しない。(正解手順9手目4六香に「同竜」の場合には、1五角に4一玉なら、香車をもう一枚持っているので、そこで4三香があって仕留めることができるのである。うまく出来ている)

 また、5手目から「3三と、5一玉、4二と、同玉、4六香」のところを先に「4六香」に代えると――
失敗図2
 5一玉で詰まない。この“手順前後”も成立しない。良く練られている。


 図式『将棋舞玉』が献上されたのは、1786年。この年は徳川家治十代将軍が没した年である。
 前年に、九代大橋宗桂は「八段」に昇っており、この数年前から宗桂の名人襲位は準備されていたのであろう。この時代まで、図式献上は名人になるための必要条件であった。
 
 『将棋舞玉』は他にも、傑作がたくさんある。たとえば8番。 → 動画『将棋舞玉』第8番を北浜健介が解説


八代大橋宗桂作 『将棋大綱』 第七番

将棋大綱7番
 この詰将棋は玉方の「8一桂」が「四段桂跳ね」をするところが注目である。これは八代宗桂(宗寿)の兄三代宗看も弟看寿もやっていない新技であった。
 
 八代大橋宗桂(宗寿)は、九代大橋宗桂(印寿)の実父である。
 元々伊藤家の生まれで、五世名人二代伊藤宗印(鶴田幻庵)の三男である。兄に三代宗看(二男、七世名人になった)がおり、弟に看寿(五男)という天才兄弟にはさまれた環境で生まれてきている。
 数え11歳の時に、大橋家に養子に行き、大橋家の家督を継ぎ、「八代目」となったのである。
 兄の三代宗看は23歳の若さで名人になったが、その時は八代宗桂は15歳、ライバルになりようもなかったが、その七世名人の宗看のその“次の名人”を決める闘いは熾烈だった。八代宗桂(大橋家)と看寿(伊藤家)と四代大橋宗与(大橋分家)の三つ巴の“次期名人候補争奪戦”である。実弟でもある看寿は宗桂の4つ年下、分家の四代宗与は5つ年上。

将棋大綱7番 問題図
▲7三桂成 △同桂
 攻め方の基本的ねらいは8五金、同玉、7七桂、同と、8九竜、8七香合、8六歩、7四玉、8五角という詰め手順。ところが――そううまくはいかない。(というか、それでは詰将棋にならない)

失敗図
 8五金、同玉、7七桂に、7四玉(図)で詰まない。ここで7三桂成や7五歩もあるが届かない。
 この失敗図で、6五桂がいなかったら――ということで、初手7三桂成が正解である。


▲6五金寄 △同桂
 7三桂成、同桂で、この図。これで桂馬が1回跳ねた。
 ここで8五金はどうか。同玉、7七桂に、8四玉で――

失敗図
 王手で8九竜と角が取れるが、9三玉があって不詰。
 6二角の利きが7三桂で止まっているので8四玉とされ、9三へと逃げる道ができてしまっている。

  
▲8五金 △同玉 ▲7七桂
 ということで、3手目は6五金寄とし、同桂となってこの図。
 これであの桂馬が2回跳躍した。
 ここでねらいの8五金の筋を決行する。同玉に、7七桂。


△同桂不成 ▲8九龍
 これなら7四玉には6五金の1手詰だし、8四へは逃げられない。
 7七同桂不成(8手目)で3回目の桂馬の跳躍。そして8九竜で、同桂成となって、「玉方桂四段跳ね」が実現した。史上初の快挙である。

 ただし、実は問題があって、図の7七桂に同桂成の手があって、それには8九飛、8七香合となるが、以下9五角成、同歩、9四角から、本手順とまったく同じ手順で詰む。これは作者が意図したはずの正解手順と同じ33手詰。つまり変化同手数である。これは「7七桂不成、成、どちらも正解」ということになり、そうなるとせっかくの快挙の「玉方桂四段跳ね」がぼやけてしまう。残念なところである。


△8九同桂成 ▲9五角成
 ここはしかし“人情”で、7七桂不成~8九同桂成としてほしいところ。
 8九同桂成の後は、後半になる。どう攻めていくか。
 9五角成が正解である。


△9五同歩 ▲9四角 △8四玉 ▲8三角成 △8五玉 ▲8六歩 △同と ▲9四馬
 9五同歩と取らせて、開いた9四の空間に9四角と打つ。
 以下は「見てもらえばわかる」という内容。


△7四玉 ▲7五歩 △7三玉 ▲8三と △6二玉 ▲8四馬 △6一玉
 ただし、本譜は9五角成として、後で8六歩と歩を打っているが、そこのところ先に8六歩と打つ“手順前後”も成立する。(これを修正するのは困難と思われる)


▲5二銀成 △同玉 ▲4四桂 △5三玉 ▲6二馬 △同玉 ▲5二金
 最後には馬を消して収束。

詰め上がり図
33手詰。

 このようにこの八代大橋宗桂『将棋大綱』7番は、八代宗桂の代表作であり、労作といえるが、欠陥もあるとわかった。
 とはいえ、「玉方桂四段跳ね」は、江戸時代ではこれが唯一の作品。これがあったからこのアイデアを完全作で実現させようという人も出てくるわけである。
 今では、「玉方桂四段跳ね」の詰将棋作品は完成品がいくつか出来ている。 (調査した方がおられるようだ→こちら

 1760年に看寿が死んだ。兄三代宗看(七世名人)が1761年に、その2年後に四代大橋宗与もこの世を去った。
 八代宗桂一人、生き残った。 四代大橋宗与の死後、八代宗桂は「八段」(名人資格をもつ段位)となり、図式『将棋大綱』を献上したが、しかし、名人になることはなかった。名人位は「空位」のままだった。
 『将棋大綱』を鑑賞すると、たしかに、宗看、看寿の図式とくらべると、素人目にもゆるい印象はする。宗看、看寿の詰将棋作品のような、“迫力”が足らない感じだ。
 八代宗桂は1774年に没した。

 そして才能豊かな、息子、印寿が大橋家九代目を継承したのである。
 図式『将棋舞玉』の献上も済ませた九代大橋宗桂は、1789年に名人位を襲う。1728年に三代伊藤宗看が七世名人になって以来、61年ぶりの新名人の誕生であった。
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終盤探検隊 part77 第十代徳川将軍家治

2016年01月06日 | しょうぎ
 1784年、伊藤家の六代目を継ぐ、松田印嘉(=六代宗看)が御城将棋に17歳でデビューした。大橋分家の宗英(29歳)との「右香落ち」だ。
 そこで六代宗看が採った作戦は、あの徳川家治創始の「家治流一間飛車」である。


   [怪異黒夜神]
「あれは何だ……」
 鬼道衆が口々に叫んだ。その漆黒のものは雲に似て雲にあらず、闇そのもののようであった。
「闇が像を結んでいる」
日天ですら唖然としていた。
「オンバさまではないか」
  (中略)
 オンバさま。巨眼の持ち主である。いま虚空にかたまり、そのオンバさまの像を結んだ不思議な闇は、巨眼の部分だけにぶい眼光を発して地表に近づいていた。
「退け。あの闇に触れれば凍え死ぬぞ」
  (中略)
「あれは黒夜神だ。この世のものではない」
 気温が極端に下がりはじめていた。  
                     (半村良『妖星伝』(三)神道の巻より)



 徳川家治第十代将軍は、1760年に将軍になり、1786年に没した。
 この家治時代に、将棋の技術は“近代化”が進んだ。振り飛車の「美濃囲い」の優秀さが発見され、「銀冠美濃」が登場した。「相掛かり」、「横歩取り」の研究が進み、「中住まい玉」が発明された。相居飛車戦で主流だった「雁木囲い」に代えて「左美濃囲い」「矢倉」が主役になっていった。この時代にそれらの“近代革命”が進んだのである。
 徳川家治が親しくしたのは伊藤家の五代目の宗印(鳥飼忠七)であったが、その宗印も50の年を越え、6代目として養子をとった。それが印嘉(=六代宗看)である。
 すでに大橋分家からは次世代のホープ宗英が現れており、この大橋宗英と六代伊藤宗看の登場は、家治時代の終わりを意味するものでもあった。


 棋譜鑑賞1 大橋宗英-五代伊藤宗印 一七八二年

 大橋分家の新星、宗英。27歳。
 伊藤家の五代目当主、宗印。55歳。
 両者のこれまでの対戦は「角落ち」と「香落ち」の手合いで一局ずつ、どちらも若い宗英が勝利している。

 この1782年という年は「天明の大飢饉」の始まった年で、東北地方など冷害で作物が実らず、それが何年も続いた。一説に、原因はアイスランドの火山の大爆発でその灰が世界を覆い、そのために地球の表面全体が気温低下してしまったのだという。


 「右香落ち」の手合いで、下手の大橋宗英が「中飛車」。しかも5六飛型だ。


 7五歩、9五歩と突き、ひねり飛車のような指し方。
 さっそく9四歩と攻めた。


 五代宗印は7二金と、金を受けに使う。
 ここで宗英、2六飛。3二金に、9四香、9二歩(次の図)


 そしてもう一度9筋へ飛車を戻し、6六角からあくまで9筋突破を計る。


 どうやら、9筋突破は実現しそう。それにしても、双方の玉は「居玉」のままだ。
 図から、9三香成、同歩、同角成、同金、同飛成、4二玉、7七桂、4五歩、6三竜、6二香、8三竜、4六歩(次の図)


 ここから、5八金右、8六歩、7三歩と進んだ。


 宗英は中盤での“歩の垂らし”が得意である。序盤は破天荒、中盤は地味に指す。
 上手宗印は4七歩成、同金、4六歩、4八金、5三銀と指した。
 そこで宗英、5七金打。

 5三銀では代えて、8七歩成、同竜、3一玉、8一竜、6六歩、同歩、同角と指してどうか(参考図)
参考図1
 この順は上手、有力だったかもしれない。


 宗英は、5七金打(図)としっかり受けた。
 (6七香成があるので)ここは下手何か受けないといけないところだが、6八金のような手ではなく、しっかり金を打って受けるのがこの場合好手になった。5七金と打つことで、上手5六角の狙いも消し、また上手6六歩、同歩、同角の狙いも受けている。

 ここから上手に良い手の組み合わせが見つからない。たとえば6四香は、7二歩成、8七歩成、同竜、7二飛、8三竜、6二飛となりそうだが、その後、また上手の手が難しい…。

 五代宗印は、8七歩成、同竜に、7七角成と、角を切って攻めた来た。
 以下、同竜、4七桂、4九玉(次の図)


 宗英(後の九世名人)は、こういう“受け”に自信を持っているのだろう。先の7三歩のような手は、相手の攻めを待っているような印象を受ける。


 以下進んでこの図のようになった。5九桂と受けて、宗印は“指し切り”である。
 下手大橋宗英の勝ち。
 上手は、5二の飛車が攻めに参加できていないのがまずかった。(下手の4三歩が4二飛と飛車を使う手を封じている)

 大橋宗英と五代伊藤宗印の対局はこの将棋が最後になった。
 伊藤家からは、六代伊藤宗看が登場する。


 棋譜鑑賞2 六代伊藤宗看-大橋宗英(右香落ち) 一七八四年 御城将棋

初手より △8四歩 ▲9六歩 △8五歩 ▲9七角 △6二銀 ▲9五歩 △3四歩
▲9八飛 △4二玉 ▲7八銀 △5二金右 ▲4八玉 △3二玉 ▲3八玉 △7四歩
▲5六歩 △8四飛 ▲7九角 △7五歩 ▲9六飛


△7三銀 ▲6六歩 △6四銀 ▲6七銀 △5四歩 ▲5八金左 △7三桂
▲2八玉 △5五歩 ▲3八銀 △5六歩 ▲同 銀 △8六歩 ▲同 歩 △8八歩

 徳川家治将軍が編み出した(と思われる)「右香落ち一間飛車」である。この戦法は徳川家治、五代伊藤宗印、伊藤寿三の将棋研究チームが生みだし育ててきた戦法である。(本「報告part72」でその棋譜をいくつか調べてきた)
 この戦法はつまり家治と伊藤家の戦法なのであるが、それが伊藤家の次世代の新人宗看によって、御城将棋に初登場となったわけである。御城将棋だから家治将軍もこれを見物していたのであるが、きっと喜んだことだろう。

 9六飛の後、5七角と構えるのがこの戦法の形。
 上手の大橋宗英は、7三銀~6四銀と構え、7三桂の後、5五歩と攻めてきた。開戦だ。下手が“5七角”とする暇を与えず、攻めかかった。
 5筋で一歩を手にして、宗英は、8六歩、同歩、8八歩と攻める(次の図)


▲8八同角 △5五銀 ▲同銀 △同角
 
 8八同角とさせ、それから5五銀で銀交換。


▲7九角 △8七銀 ▲9七飛 △8六飛 ▲8八歩

 次に上手から8七銀がある。どうこれを受けるのか。
 六代宗看は7九角と受け、8七銀、9七飛、8六飛、8八歩と進んだ。

参考図2
 ここは9七角(参考図)という受けもあった。8七銀で下手が困るように見えるが、8七銀に、8五歩いう返し技がある。同飛なら8六飛。よって8七銀、8五歩、9六銀成、8四歩9七銀成、同桂のような展開が予想される。これは銀と角との交換になるが、いい勝負。


△7八銀不成 ▲8七銀 △同飛成

 本譜はこうなった。8八歩に同銀不成なら8七歩、同銀成なら、8七歩、同成銀、9六飛のつもりだ。
 宗英は7八銀不成と指した。それには8七銀が宗看の用意の受け。


▲8七同飛 △同銀不成 ▲同歩 △6九飛 ▲4六角

 これを宗英は同飛成と飛車で取り、同飛に、同銀成、同歩と進む。
 この上手宗英の8七同飛成では、7九銀成と角を取り、8六銀に、8九成銀と駒得するのもあったようだ。宗英は飛車交換の順を選んだ。また下手宗看の8七同飛は最善で、代えて同歩、7九銀成は、はっきり上手良しになる。
 本譜の順は形勢は互角だが、手番を握っている上手が感じとしてはうまくいっている。


△4六同角 ▲同歩 △5七歩 ▲5九金引 △8九飛成 ▲5三歩

 4六角で、角も交換。
 8九飛成となり、上手は桂得。
 手番は下手の宗看に。どう攻めるか。単純に7二飛~7三飛成では下手は勝てない。
 ここからの20手くらいが勝負の明暗を形づくるであろう。


△5三同金 ▲8二飛 △4二銀

 宗看は5三歩と叩き、同金に、8二飛と打った。(7二だと8三角と打たれるような筋が気になるのだろう)
 対して宗英は4二銀と受けた。


▲7一角 △6四角

 ここが下手宗看の“チャンス”だったかもしれない。5四歩、同金、5二角があった。
参考図3
 対して3一金なら、6三角成で、以下6七桂、5一銀、4一銀、5四馬、5九桂成、4二銀成、同銀、4四銀(参考図4)

参考図4
 これは先手が勝ちになっているようだ。(3三金打の受けには5三金)

 ただし、5二角(参考図3)に、同金、同飛成、4一銀、5四龍、9九龍の変化が、形勢不明。


▲5五銀 △5八歩成 ▲同金直 △5五角 ▲5三角成 △6六角 ▲5九歩 △5二歩

 本譜は下手六代宗看は7一角と打ち、上手の宗英が6四角と受けた。(6四角では5八歩成~5二歩の受けも有力。しかし宗英としてはせっかくつくった5七歩の拠点を消す順は指したくないところだろう)
 
 ここで下手に、5三角成、同角、5四歩という攻めがある。これを受けるのはけっこう難しく、5四歩に3五角だと、5三銀と打たれ、以下3三銀打、4二銀成、同銀、5三銀で、千日手濃厚だ。
 では、上手の宗英はこの5三角成~5四歩に、どう応じる予定だったか。
 おそらく、5四歩に、6四角とするのではないか。 以下、5三銀には、7一銀と打つ(参考図)
 
参考図5
 7一銀に8一飛成なら、5三銀、7一竜、5四銀で上手良し。
 7一銀に9二飛成は、5六角がある。
 (6四角が3五角になっていれば7一銀には4二銀成、同金、2二金があるので下手良し)
 よってこの参考図5になれば、下手は4二飛成、同金、同銀成、同角、5二金と勝負するしかないかもしれない。それはしかし、2四角、5三歩成、8八飛で、上手が勝っていそうだ。

 ということで、6四角と宗英が受けたところで、すでに上手がわずかに有利なのかもしれない。(ソフトは「互角」の評価)
 実戦の六代宗看の手は、5五銀。宗英はこれを同角と素直に取った。


▲6三馬 △5七桂 ▲同金 △同角成 ▲5八金打 △6六馬 ▲6四桂 △5一銀打
▲7三馬 △6七歩

 受けに使った角が、6六角で今度は攻めに働いてきた。そのかわりに5八歩成で歩を成り捨て、5二歩と受けに歩を使った。

 これは想像でしかないが、下手の六代宗看は、ここで5二同馬が当初の予定だったのではないか。これでいけると読んで、5五銀以下の攻めを選んだ。ところが、この図になってもう一度ここから先をよく読み進めてみると、同馬では勝てそうもない――と思った。だから予定を変更して6三馬と指したのではないかと思うのだ。
 実際、5二馬以下の変化も形勢はまだはっきりしない。5二馬、同金、同飛成、4一銀、6三竜(角取り)、7七角成、7三龍、5七歩、同金、9九馬 (参考図)

参考図6
 たとえばこんな図になる。この参考図6の「激指」の評価値は[ -250 互角 ] 。


▲3六歩 △6九龍 ▲5四桂 △6八歩成 ▲4二桂成 △同 銀 ▲5二桂成 △5八と
▲4一成桂 △3九銀 ▲3七玉 △2五桂

 まとめて言えば、この将棋は勝負どころで、上手大橋宗英が読み勝ったのだ。
 六代宗看は7三馬で桂馬を入手し、それを使った攻めに賭けたが、上手の攻めのほうが一歩か二歩、速かった。
 図の“6七歩”が決め手になった。
 対して下手は5四桂としたいが、6八歩成、同金、5九竜が速い。
 なので3六歩と宗看は指したが、それには6九龍。宗英は“勝ち”を逃さない。以下、寄せきった。

 参考までに、宗看の指した3六歩に代えて「1六歩」の場合は宗英が指した6九龍以下の攻めでは紛れる。
 1六歩には、6八歩成、同金、4八金と攻めるのがよい。以下、同金、同馬、4九金なら、そこで5九竜、同金、3九銀、1七玉、3八馬で“上手勝ち”である。

投了図
まで93手で上手大橋宗英の勝ち

 17歳の伊藤家の六代宗看(まだ六代目を正式に継いではいなかったが)が御城将棋に初登場し、29歳の大橋分家の六代目を継ぐ予定の大橋宗英と香落ち下手で戦った一局は、こんな将棋だった。
 伊藤家と大橋分家の宿命の対決を、この二人が受け継いだのである。

 その御城将棋の一局は1784年11月17日だったが、翌1785年に、この二人は3度戦っている。
 さらに1786年の御城将棋で戦い、1788年の御城将棋でまた対戦。

 この6度の対戦で、大橋宗英4勝、六代宗看2勝となっている。手合いはすべて宗英の「香落ち」で、「左香」のときもあれば「右香」のときもある。(これは下手が選択できると聞いたことがあるが実際にそうだったかは知らない)


六代伊藤宗看-大橋宗英 1788年 御城将棋
 これは1788年の御城将棋だが、1786年に徳川家治はすでに没している。“家治時代”は終了したのである。
 宗英と六代宗看――この二人の将棋は、いつも序盤から面白い熱戦になる。
 「右香落ち」であるが、下手の宗看が「9七角型相掛かり」という前例のない作戦を採ってきた。そして今、3四飛と“横歩取り”。


 2~3筋で得た歩を使って、9筋を攻める下手の宗看。
 図以下は、9三同桂、9六飛、7五歩、9四飛、9二歩、9六飛、5一金、8八角、5二飛、9四歩…
 下手は9筋を突破し、上手は5筋から攻めようとする――という戦いになり、この将棋は9筋から飛車を成りこんだ下手の六代宗看が勝利。
 この将棋、上で鑑賞した1782年「大橋宗英-五代伊藤宗印戦」によく似た展開だ。その将棋は宗英が下手で「中飛車」から一歩を手に持って、9筋を集中突破したのであった。浮き飛車で一歩を手にして9四歩、同歩、9三歩と攻めるこの作戦は優秀なのかもしれない。(現代では「右香落ち」が指されないので使うところがないが)


六代伊藤宗看-大橋宗英 1795年 御城将棋
 大橋分家から宗英、伊藤家からは六代宗看(松田印嘉)が登場し、この時代は大橋本家の九代大橋宗桂を加えて、この三人の実力が抜けていて、他を寄せ付けなかった。年齢は宗桂、宗英、宗看の順で、ちょうど12ずつ年の開きがある。
 1789年、九代大橋宗桂が「名人」になった。八世名人。28年ぶりの名人の誕生である。
 その八世名人九代大橋宗桂の時代は10年続いた。その10年間が、次期名人を決めるための大橋宗英と六代伊藤宗看との“決戦”の期間であった。

 この図は1795年の御城将棋。「左香落ち」戦である。
 振り飛車の上手宗英が居玉のまま“4五歩”と開戦し、早くも風雲の局面になっている。(こういう“4五歩”という振り飛車の将棋は、もともと伊藤家の五代宗印がよくやっていた指し方だ)
 大橋宗英の将棋は、序盤はこういう華々しい戦いを仕掛けてくることが多い。しかも居玉で。


 進んで、このようになった。「相掛かり」が発展した時代なので、振り飛車なのだが相掛かり的な要素(7八金など)が見られる。


 さらに進んで、こうなった。
 ここでは形勢は「互角」だったが、次の下手(六代宗看)の手がまずかった。
 宗看はここで3六歩と指した。この手は次に3七桂という手を指す意味だろうが、5八角と打たれ、3六角成から馬をつくられて、宗英が以後、局面をリードすることとなった。そしてその優位を手離さず丁寧に指し、そのまま宗英が勝ちきった。優勢になったら逃さない、それが宗英の強さである。
 この図ではともかく、8八玉としておくところであった。


六代伊藤宗看-大橋宗英 1798年 御城将棋
 六代伊藤宗看は1794年、1795年と、大橋宗英に「香落ち」で連敗している。
 なぜかこの1798年の対局は「平手」である。
 六代宗看は、名人九代大橋宗桂との対戦成績は悪くなかったが、この宗英に対しては分が悪い。このへんで一番返して評判を上げておきたいところだ。
 この平手の将棋は、先手の六代宗看が5七銀と右銀をくり出す「飛車先保留型相掛かり」の戦法を採用した。
 それを見て、後手大橋宗英は8八角成(図)。 「相掛かり」で角交換将棋にする作戦は、この頃にちょっと流行りはじめたようだ。


 先手の宗看は6五歩と位を取った。これも大胆な手だが、後手宗英の採った作戦は類例のないものだった、2二飛(図)とまわったのである。
 それにしてもこの宗英という人は、居玉で決戦することが好きな人だ。
 このように宗英の序盤は大胆だが、終盤になると地味な手を重ねることが多い。その丁寧な指し方、読みこそが大橋宗英の“力”だろう。


 8三金がユニークな手だ。これは8四歩、同金、8二角のような手が心配になるが、それは――

参考図7
 6九角があるのだ。5八金なら、7八角成と角を切って、交換した金を9二に打つ。

 8三金の罠を見破った宗看は、誘いには乗らず、7六銀。
 そこで宗英が仕掛けた。1五歩、同歩、1八歩、同香、9九角(次の図)


 8筋で得た「一歩」があるのでこの攻めが可能になった。これは先手飛車を逃げるしかないが、これで後手がよいというわけでもない。勝負はこれからだ。
 6八飛、2六歩、6四歩、同歩、8四歩、8二金、2六歩、同飛、2八歩、同角成、3七銀、同馬、同桂、2九飛成、3八角、2六竜、8三歩成、同金、4六歩、8七歩、同金、7四歩(次の図)


 ここまで、宗看の指し手もうまい。
 そして、ここが問題の局面となった。ここで宗看は6七飛と指した。これは後手からの3七竜を受けた意味だが、8六歩、同金、2八竜、4五桂、2九銀と進んで、後手良しになった。2九銀には2七飛が宗看の用意した受けだったのだろうが、これは良くなかった。
 この図では、7二角と打つか、または4五桂が有力で、むしろ先手有望な局面だったと思われる。

 大橋宗英がこの将棋も制し、“次期名人”の評判は揺るぎないものになった。

 そして、翌1799年、九代大橋宗桂が56歳で没したことを受け、大橋宗英九世名人が誕生した。
 大橋分家からは久々の、二人目の名人であった。


 大橋宗英の名人時代もやはり前名人九代大橋宗桂とおなじく10年続いた。
 この10年間に、「六代伊藤宗看-大橋宗英戦」は御城将棋で3度実行された。いずれも「香落ち」戦だが、宗看が1勝、そしてあとの2番は持将棋(引き分け)という結果である。この成績があったので、後にこの六代伊藤宗看が次の十世名人を襲うのだが、しかしそれはずっと先の1825年のことである。(宗英死去の後、また「名人位の空位」が15年間続いた)


棋譜鑑賞3 六代伊藤宗看-大橋宗英 一八〇四年 御城将棋



 六代宗看が宗英名人に勝利した将棋を最後に鑑賞しよう。「左香落ち」で、3五歩の後、上手の大橋宗英が「三間飛車」に振った。
 そして図のように“4五歩”。
 「三間飛車」のこの形で“4五歩”というのは、前例がないように思う。凄い手である。
 下手の宗看の早い1八飛がこの手を呼んだのだと思うが。


 「早石田」の乱戦に似ているが、4筋の歩を突いているところが違う。
 図の6五角に、3二銀、8三角成、2六飛、3九金、9四角(次の図)


 このあたりからは下手が少し良いのではと思われる。盤上の生角と馬の差で。
 8四馬、7六角、7八金、4六歩、同歩、5四角、1七飛、3三桂、5六歩、4六飛、5七馬(次の図)


 4四飛に、そこで1六飛または6八玉なら下手良し。
 4四飛、4五歩、同飛、3七桂、2五桂(次の図)


 飛車を取り合う。宗看は激しく攻め合う順を選んだ。
 4五桂、1七桂成、7二歩、同銀、3五馬、4五角(次の図)


 上手は4五角と桂馬を食いちぎる。これを同馬は、7五飛と打たれて、下手いっぺんに負け。
 だが、5五飛という手があった。これで下手が駒得になる。
 5五飛、4四歩、同馬、5二金左、4五馬、3七歩、4七銀、2七桂(次の図)


 玉の安全度は上手が勝る。下手は駒得(桂馬と角との交換)、それが心のよりどころだ。
 4九金、2八成桂、2九歩、3九桂成、5八金、1九成桂、2七馬、4六歩、同銀、3八歩成、6八玉、4七歩(次の図)


 強い人にこういう攻めをされると、指し続けるのは精神的にもしんどいものだ。
 しかしここで7七玉と逃げて、4八歩成、5七金となったところでは、上手の攻めも息切れ気味か。だが上手にはまだ飛車があるし、下手から上手陣への攻めはまだ手がかりがない。
 (ソフト「激指」の評価は「互角」)
 下手宗看は4六銀を、3五~4四と使った。


 上手は6四香から6六香で取った金を4三金打と打って受けた。
 このあたりが勝負どころで、しかし選択肢が一手一手に多いので、調べきれない。
 4三金打以下は、同銀成、同銀、8五飛、8三歩、2二角と進む。
 その時、6七香成と香車を成り捨てておくべきだったかもしれない。
 宗英(上手)は5八ととし、以下、6六角成、6九飛、7九金打(次の図)


 7九金打(図)に、4九飛成として、次に上手からは6九とがある。
 下手(宗看)は4四歩と攻めた。以下5四銀、5五歩、4五銀、4三歩成、同金と、まだ手つかずの上手陣の形を乱し、7六馬。
 なるほどの構想だが、これは相手の銀を呼びこみ、良い手ではなかったようだ。4四歩では代えて、3五飛として3一飛成を狙うのが最善か。以下、6九と、3一飛成の展開は、「互角」。
 実戦の7六馬に、金を逃げず、宗英は4六飛成(2六の馬取り)。 2五馬に、3四銀、5八馬と進んだ。
 だがこの上手3四銀は銀をバックさせてつまらなかった。以後、この銀が攻めにも受けにもあまり利いていない駒になっている。

参考図8
 後手を引くが4四金(図)のほうがよかった。金銀を攻めに使うのだ。
 これでわずかながらも上手有利になりそうなところだったが…


 ここで7六龍と切り、同玉に、9四角。 宗英はこれをねらっていた。


 しかし冷静に見ると、角で飛車をとっても、下手の玉は捕まえにくい。上手の攻め駒が足らないのだ。(この局面の「激指」評価は[ +136 互角 ])
 このままだと、上手から8四歩で、これなら歩で飛車が取れる。それを許すわけにはいかないので、下手宗看は5七馬。
 こうなってみると、上手に次に良い手がないようだ。飛車を取って5九飛と打っても、6六馬で攻めの続きがない。(この時に上手4五銀4四金の形ならこの攻めが有効になっていた)
 図で、7四銀なら銀で飛車が取れる。しかし8六歩、8五銀、同歩では、やはり攻め駒不足。

 というわけで上手宗英は7四歩と指した。これで7三桂と跳ねて桂馬で飛車を取ろうというのだ。

投了図
 しかし8六歩(図)が好手で最善手。(この手以外では勝ちがない)
 この手を見て、大橋宗英名人は投了した。
 ここで投了というのは、おもしろい。印象に残る投了図である。
 7三桂なら、桂馬で飛車が取れる。しかし7三桂に、8七玉、8五桂、同歩で、勝ち目がない、という判断だろう。下手玉が8六歩の一手で格段に安全になった。

 途中の解説で、「4四歩は良い手ではなかったようだ」と書いたが、結果から見れば、4四歩以下の攻めが“勝着”なのかもしれない。この手順が、宗英名人を間違わせたのだから。


 これを勝って、六代伊藤宗看の1800年以降の対大橋宗英の成績は「1勝2持将棋」(いずれも宗英名人の香落ち) 

 ちなみに、宗英、六代宗看、そして九代大橋宗桂の、この“三強”の対戦は「持将棋」の将棋が多い。

六代伊藤宗看-大橋宗英 1802年 御城将棋 指了図

六代伊藤宗看-大橋宗英 1806年 御城将棋 指了図

 この二つの図が、「六代宗看-宗英戦」の持将棋となった将棋の指了図である。どちらも相居飛車の将棋で、「右香落ち」である。
 
 「相居飛車」の将棋は性質上持将棋になる可能性が高く、「右香落ち」の相居飛車だとそれがさらに高くなる。
 それと、現代のルールは「点数制」もあるので、相入玉なのだけど決着がついて持将棋は成立しなかったというケースもあるわけで、そうでなければもう少し多いはず。実際に「点数制」をやめて「互いに玉が捕まらなくなったら持将棋引き分け」というルールなら、迷うことなく入玉をめざす指し方も増えてくるのだろう。
 「右香落ち」は大正時代に廃止されたようだが、それはこの“持将棋問題”のせいかもしれない。

 とはいえ、六代宗看の将棋は全体の1割以上は持将棋に終わっており、これほど多いのは特別である。
 とくにこの“三強”の対戦は、それぞれ10局くらいの対局しかないのに、そのうちの各2局が持将棋なのである。


 六代伊藤宗看は、1825年に名人位を襲い、十世名人となった。(大橋宗英九世名人の死後15年が過ぎて後のこと)
 名人になったのは58歳のとき。58歳は当時としては長命で、そうでなければ名人にはなっていなかった。
 このように本人は長寿であるのに、三人の息子たちは宗看よりも早く死んだ。三人の息子、看理、看佐、金五郎はいずれも将棋の棋譜をいくつか残しているが、特に次男看佐の将棋は目を見張るような才能を感じさせる。(あの大橋柳雪との対戦の棋譜も3つあるがいずれも勝っている) 
 六代伊藤宗看は76歳まで生きた。江戸時代最後の名人である。
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終盤探検隊 part76 第十代徳川将軍家治

2016年01月02日 | しょうぎ
 1779年の「大橋宗英-五代伊藤宗印(左香落ち)戦」の序盤。いったいなぜこのような奇妙な戦形になったのであろうか。
 実はこれ、五代伊藤宗印の得意する三間飛車に、24歳の大橋分家の新鋭宗英が、「鳥刺し」と後に呼ばれるようになる角道を開けない作戦に出て、こうなったのである。
 この将棋が、「鳥刺し1号局」と言われている。
 これを「鳥刺し」と呼ぶのは、鳥飼忠七(五代宗印の前名)を倒す(=刺す)そのために、宗英(とその仲間たち)が生み出した作戦だからであろうか。


   [外道皇帝]
 お宝さま。外道皇帝のことである。数えてことし三歳の童児だ。
  (中略)
 お宝さま。
 その童児は三歳になってなお、それ以外の呼び方をされていない。ただし、田沼邸の外においては、鬼道衆が畏敬の念をこめて別の、そしてそれが唯一無二の呼び方をする。
 外道皇帝、である。
 外道皇帝はいま、離れの床の間を背に、仏像のような穏和な、そして謎めいた表情で端坐している。誕生以来、泣くことも言葉を発することもまだしていない。白絹に鬼道の象徴である満天星(どうだん)の紋章を染めた衣服をまとい、すでに測り知れぬ知性をあたりに漲(みなぎ)らせているのである。   
                     (半村良『妖星伝』(三)神道の巻より)



 この『妖星伝』は“外道皇帝”と呼ばれる異質な子供が誕生するという設定なのだが、この子供が生まれるのは徳川家継第九代将軍の治める宝暦時代で、西暦の年号でいえば1750年代である。
 ちょうど大橋宗英(前名中村七之助)が生まれたのがこの時代で、1756年である。
 大橋分家の六代目を背負う予定の宗英が倒すべき相手は、当時(1760年以後の徳川家治時代)の最強者九代大橋宗桂(大橋本家)と、伊藤家の五代目当主の宗印(前名鳥飼忠七)の二人であった。
 九代大橋宗桂は宗英の12歳年上、そして宗印は28歳年上であった。

 今回は次の2局の棋譜鑑賞がメインである。いずれも「鳥刺し」戦法の将棋。

  [1]大橋宗英-五代伊藤宗印(左香落ち) 1779年
  [2]四宮金吾-天野宗歩 1836年

 ただし、1779年「宗英-五代宗印戦」の前の将棋や状況を知っておくほうがより楽しめるので、まずそこから紹介していく。 


大橋宗英-五代伊藤宗印(角落ち) 1778年 御城将棋
 大橋宗英――後の九世名人――の御城将棋のデビュー戦は1778年、五代伊藤宗印との「角落とされ」戦である。宗英23歳、宗印51歳。
 「角落ち」の戦い方はいろいろある。今ではあまり知られていないが「角落ち」での「二歩突っ切り戦法」もこの当時は人気戦法の一つだった。下手の「矢倉」も有力戦法だ。
 しかし下手が「三間飛車」に構えるのが、「角落ち」でも“本定跡”とも呼ばれているように、古くから指されている指し方である。ただこの戦法は、上手が3三桂型にし、8一飛~2一飛と飛車を2筋に回って正面から攻めてくる手段があり、これで下手が不利になるケースが多かった。それを「銀冠美濃」に組むことでその上手からの正面攻撃に備える将棋が現れ、これがたいへんに優秀な指し方だとわかってきたのがこの頃の状況である。
 その「角落ち下手三間飛車銀冠美濃囲い作戦」を最初にやったのが、大橋分家の大橋宗順で、宗順の1965年御城将棋デビュー戦の対局であった。(将棋史上で「銀冠美濃」が登場した最初の棋譜はたぶんそれ)
 〔後日注; これは誤りと判った。「角落ち下手三間飛車銀冠美濃囲い作戦」の史上最初の棋譜は1763年の御城将棋「九代大橋宗桂-四代大橋宗与戦」のようである。宗順よりも2年前に九代大橋宗桂が「銀冠美濃」の作戦を見せている〕
 大橋宗順は宗英の実父である。

 その父宗順と同じ「三間飛車銀冠」戦法で、宗英もデビュー戦を闘い、勝った。

 この図は、しかし、形勢はかなり接近していて、下手が勝つためには最善手で対応する必要のある場面になっている。「角落ち」での初形の「激指」評価値はだいたい[+650]くらいだが、ここでは[+200]くらいになっている。下手宗英の踏ん張りどころだ。
 7九飛成と上手に飛車成りを許し、7八金と受けたところ。
 以下、4九龍、4八金寄、5九竜、4九金打、6九龍、6八金、7九龍、7八飛(次の図)


 ここで8九竜ならまだ難しい形勢が続いたようだ。
 実戦では、五代宗印は、7八同竜、同金、4六歩、同金、7六飛と、“両取り”を掛けたが、以下、5四歩、4四銀、4五歩、4六飛、4四歩、5四玉、5二飛…。
 下手優勢になり、宗英が勝ちきった。新人の宗英にとって重大な勝利だった。(負けていれば次もまた「角落ち」ということになる)

大岡兵部少輔-大橋宗英(右香落ち) 1778年 御城将棋
 将棋の大好きな十代将軍徳川家治は、予定された家元同士の将棋の見物だけでは物足らなかったようで、「お好み」と呼ばれる、近習と家元の誰かの将棋を見たいと所望した。
 五代伊藤宗印との対局と同じ日に指された「お好み」の将棋。宗英の「右香落ち」の手合いである。
 当時流行しはじめたばかりの「相掛かり」である。しかしこれは8筋、5筋、2筋と上手がえらく大胆に指しており、ちょっと“頑張りすぎ”にも見える。実際にはそうでもないみたいだが。こういう大胆な序盤が宗英の持ち味かもしれない。


 その将棋はさらにこのようになった。上手(宗英)は両桂を跳ね、“全軍躍動”という感じ。
 ただし、形勢は互角。
 図から、6六角、5五銀と進んだ。
 そこで9三角成なら、「互角」の形勢は続いたが、大岡は5五同角、同銀、7七銀と指し、下手が不利になった。そして、そのまま上手が押し切った。
 上手の攻撃的な構えがもたらす見えないプレッシャーに、下手の心が押しつぶされ、自らころんでしまった印象だ。

五代伊藤宗印―九代大橋宗桂 1778年 御城将棋
 大橋宗英が御城将棋で初出勤したその日のメインイベントは、「五代伊藤宗印―九代大橋宗桂戦」であった。伊藤家と大橋本家のトップ同士による「平手」戦である。
 「横歩取り」である。この形での3四飛を指したのは、残された江戸時代の棋譜では1775年の「伊藤寿三-徳川家治戦」。 家治、寿三、五代宗印の三人は将棋の研究グループのような関係であったから、この三人の間ではこの「3四飛」はよく指されていたはずだが、しかしそれ以外の公の場では、この図は初めて出現する図だったかもしれない。
 いやもしかするとすでにこれは民間では指されていたかもしれず、それはわからない。


 五代宗印の3四飛(横歩取り)に、3三角。
 史上初の「3三角戦法」である。宗印の「横歩取り」を宗桂が予期してこの3三角を準備していたのか、あるいはその場で思いついた手なのか、興味があるところだが。
 

 このようになった。今、後手九代宗桂が6五角と打ち、先手宗印が9六角と返したところ。
 現代の「横歩3三角戦法」ではあまり見ない展開だが、それは先手後手双方の玉が「居玉」だからである。「居玉」なので6五角のような手が生じる。
 「中住まい玉」が発見され指されはじめるのは、1790年以後のことになる。

 図から4七角成、6三角成とお互いに「馬」をつくり、それを自陣に引いて、また様子をうかがいながら駒組みという中盤に。


 まだ「居玉」である。
 図は、先手宗印の5五銀に、後手の宗桂が、2四歩、同歩、2五歩としたところ。
 ここで先手は3五歩、同飛、4六銀と応じ、以下、7七歩成、同金直、2六歩、3五銀と、飛車を取り合い、一気に局面が激しくなる。


 先手五代宗印が頑張り、やや有利と思われる局面になった。今、5八銀と打って受けたところ。勝負どころである。
 ここで後手6五馬などでは後手は勝てない。6五銀に、6六銀、6四馬、3四歩は、先手優勢。
 ここでは7七歩が“勝負手”ではなかったかと思われる。7七歩に同玉なら6五桂が打てるし、7七歩に7九金は、7六桂、7七玉、5八馬で後手良し。だから7七歩には、4七銀、7八歩成、同金と進むことになりそうだが、そこで先手の指し方が難しいのではないか。

 実戦では、九代宗桂は、7六桂と指した。
 7六桂、7七玉、5八馬、同金、8九龍、3三竜、7五金、3一竜、4一銀、6六歩(次の図)


 6六歩は後手からの6五桂の1手詰を受けた手。九代宗桂はここから、8八桂成、同金、7九龍と迫る。しかし、6七玉、6四桂に、6八金とされ、逃げ道(5八)をつくられてみると、後手の攻めは届かない。
 以下、先手の五代伊藤宗印の勝利。

 名局である。
 五代伊藤宗印と九代大橋宗桂の対局はこの将棋のように熱戦になることが多いのだが、いつも勝利は九代宗桂が手にしていた。だが、ここでは五代宗印が勝ったのである。

 徳川家治も、そして、大橋宗英もこの将棋を見ていたわけである。
 五代伊藤宗印は、大橋本家の九代宗桂、大橋分家の宗順との対戦成績の結果はよくないが、目の前でこのような将棋で勝ったところを見た宗英は、宗印の力を侮ってはならぬと、心を引き締めたことであろう。


 この4カ月後、「大橋宗英-五代伊藤宗印(左香落ち)」の対戦が組まれるのである。

 五代伊藤宗印と「左香落ち」なら、宗印は得意の振り飛車にしてくるだろう。(振り飛車での「美濃囲い」を流行らせた元祖が五代宗印である)
 その重要な決戦で、大橋宗英が選んだ作戦は「鳥刺し」であった。

 今回我々(終盤探検隊)は、気づいたのであった。
 五代伊藤宗印の元の名は鳥飼忠七。その鳥飼を倒す――つまり「刺す」――そのために大橋宗英が生み出した戦法―――だから「鳥刺し」なのではないか。

大津五郎左衛門-大橋宗英(左香落ち) 1778年
 大橋宗英の、残された棋譜を見ると、ちょうどこの時期の棋譜がたくさん残っている。これらはおそらく大橋分家の門人たちとの稽古将棋であろう。
 この図を見てほしい。これは前回報告(part75)で紹介した「五代宗印流」である。それを宗英が指している。宗英は「打倒伊藤宗印」を意識してこれを研究していたのではないか。
 大橋分家にとって、伊藤家は、ずっと目の上のタンコブのような、「倒すべき敵」であったのだ。大橋分家を継ぐということは、そうした重い歴史も背負うことにもなる。

井出主税-大橋宗英(左香落ち) 1778年
 「鳥刺し」である。宗英ではなく、井出主税が「鳥刺し」を指している。だから宗英よりも井出が先に「鳥刺し」を指しているじゃないかという人がいてもよいのだが、つまり宗英と井出主税は、共同研究チームだったのだと思われる。「鳥刺し」を発案したのは井出主税かもしれないが、彼らはさらにそれを研究し、公(おおやけ)の場でそれを大橋宗英が発表したのである。
 それが五代伊藤宗印との対局である。

井出主税-大橋宗英(左香落ち) 1779年
 角道を開けなければ、たしかに振り飛車からの(宗印の得意としていた)4五歩の仕掛けも空を切らせることができるかもしれない。

井出主税-大橋宗英(左香落ち) 1779年
 何より、まだ誰も知らないこの作戦を採れば、伊藤家の研究、あるいは家治将軍と伊藤宗印、寿三との共同研究――そのすべてを無意味なものにすることができるのだ。


 そして、決戦の日は来た。安永八年(1779年)二月十八日。


棋譜鑑賞  [1]大橋宗英-五代伊藤宗印(左香落ち) 一七七九年

△3四歩 ▲2六歩 △3五歩

大橋宗英-五代伊藤宗印(左香落ち) 1779年
△3四歩 ▲2六歩 △3五歩 ▲2五歩 △3三角 ▲5六歩

 上手(左香落ち)の五代伊藤宗印は、得意の「三間飛車」。
 しかし下手の大橋宗英は2六歩~2五歩のオープニング。7六歩を指さない。


△3二飛 ▲6八銀

 5六歩(図)。これが「鳥刺し」。
 上手が3五歩を突いたので、これを目標に左の銀を進出させる。


△3六歩 ▲同歩 △1五角 ▲5八玉 △3六飛

 ここで上手の五代宗印は、3六歩、同歩、1五角。 この手段があった。目標とされている3五歩と交換してしまえば、下手の作戦は空を切る(という上手の考え)。


▲1六歩 △3三角 ▲5七銀 △3四飛 ▲4八銀上

 なにより、このタイミングで1五角とすれば、下手は“5八玉”とするしかない。


△8四飛 ▲7八金 △9四歩 ▲4六銀 △2二銀 ▲5七銀上 △9五歩
▲5五歩 △6二玉 ▲5六銀

 だが、下手には新たにターゲット(目標物)ができた。敵の飛車および角である。


△7二玉 ▲7六歩 △3二金 ▲6六角 △9四飛 ▲1五歩 △6二銀 ▲4五銀左

 角道を閉じたまま、そして“5八玉”のまま、二枚の銀を進出させる。
 ふつうはまず7八玉としてそれから銀の進出を――と考えるところと思うが、それよりも銀の進出を優先させたところが、この大橋宗英の“鋭さ”なのかもしれない。
 この将棋、もう少し進んで、「気づいて見れば上手指しにくい」という将棋になっていたのである。

 7二玉に、ここで7六歩。30手目に角道を開けた。


△8二玉 ▲3八飛 △4四歩 ▲3四銀 △5一角 ▲4三銀成

 「上手の三間飛車」から始まったとは思えないような形の将棋になっていて、この図を見るととても面白そうに思える図だが、しかし形勢はもう「下手良し」と思われる。上手はもう、どうにも指しようがないのだ。
 図は、下手宗英が4五銀と出たところ。次に上手8二玉、3八飛となって、上手は困った。
 そこで「4四歩」としたのだが、これで一気に形勢は「下手優勢」に傾く。
 しかしでは、どう指せばよかったのかとなると、これが難しいのである。
参考図1
 4四歩と突かなければ、上手陣は本譜よりはましかもしれない。
 たとえば4四歩に代えて、7四飛とする。そこから仮に7五歩、6四飛、3四銀なら、4二角(参考図1)で、上手もなんとか勝負になるかもしれない。ここで4三銀成は、同金、3二飛成、3一銀、2一竜、3三金が予想される。(途中、2一竜に代えて4三竜は、この場合は6六飛、同歩、7六角が王手竜取り) この変化の「激指」の評価は[+164 互角]である。
 しかし、3四銀とすぐに行かず、3六飛~3八金~3七桂のように、下手にゆっくりと陣形の整備をされてから仕掛けられるのが上手としては嫌だ。上手は逆に、もう指す手がないのだ。つまり上手は下手からの攻めを待つだけの将棋になっていて、「作戦負け」なのである。

 だから、上手の宗印の「4四歩」は、そういうことを総合して、不利になるとわかっているが、それでも敵陣がまだ「十分」とはいえない陣形のうちに“勝負”に行った手なのだと、そう見る。


△3三金 ▲5四歩 △4三金 ▲3二飛成
 
 4三銀成。同金には、3二飛成で飛車を敵陣に成って先手優勢になる。
 宗印は3三金と頑張ったが――
 そこで5四歩とこの歩を突けば、角と銀(4六)とがいっぺんに働いてくる。
 先手玉は“5八玉”のまま決戦になっている。
 「相掛かり」(横歩取り)の「中住まい玉」は、まだ誕生していないということは、上でも述べた。およそ10年後に登場するのだが、これは上手の振り飛車で始まった将棋だが、偶然に「中住まい玉」になっている。


△4五歩 ▲5七銀 △5二銀 ▲2二龍 △3三角 ▲2一龍 △6六角

 竜をつくらせたが、上手も3三角から角を捌いた。角を交換することで、上手には2八角のような手段ができた。


▲6六同歩 △4六歩 ▲同銀 △5四飛 ▲5五歩 △4四飛 ▲5六角

 そして5四飛から今度は飛車を攻めに使う。


△4一歩 ▲3二龍 △7一銀 ▲3五銀 △4二金 ▲3一龍 △6四飛
▲7五銀 △2八角

 駒割りは、下手の「桂得」。下手優勢だが、丁寧に指す必要がある。玉の守備は上手が堅い。
 図の5六角は、8三の地点をねらっている。それもあるが、この5六角は、第一の目的は、相手から5六に何か駒を打たれる筋を消した、受けである。

 次に宗英は上手の飛車を封じようとする。6四飛に、7五銀。
 この将棋、よく見れば下手の宗英は、派手な手は何も指していない。


▲6四銀 △同歩 ▲1七香 △7二銀 ▲4六銀 △1九角成 ▲3三歩 △4三銀 ▲3四桂

 ここで上手は飛車を取らせて2八角と勝負に行った。
 この手で9四飛だと、8六桂、9三飛、3八金(参考図)とされ――
参考図2
 これでは上手の楽しみの“2八角”が指せなくなり、上手は指す手がなくなる。

 飛車を取る6四銀。同歩に、1七香。シブい。この一手に、「序盤は派手だが、勝負所では丁寧」という宗英の特徴が見える。これが宗英の強さなのだ。
 4六銀と銀を引き付けて、それから3三歩。宗英の将棋はこういう「と金つくり」の手が決め手になる場合が多いように思う。


△5二金寄 ▲4一龍 △2九馬 ▲4二桂成 △4四桂 ▲2三角成 △5六銀
▲4八金 △4二金 ▲同龍 △3四桂 ▲5七銀 △4六歩 ▲同歩 △3六桂

 地味な手で、着実に攻めていく優位の下手の宗英。
 劣勢の上手は桂馬を使って攻める。


▲3七金 △5七銀成 ▲同玉 △4八銀 ▲6八玉 △3七銀成 ▲1一飛 △5二金打 ▲4一龍 △4八桂成 ▲6一龍

 この図を見ると、上手の攻めもずいぶん迫っており、勝負になっているようにも思える。
 しかし実際は宗英はもうだいたい読み切っていただろう。3六桂に3七金と逃げるのが良い。以下の攻めに、6八玉と左辺に逃げる。3七の金を囮にして取らせ、逆方向へ玉を逃げて見れば、下手玉はかなり安全になっている。


△6一同銀 ▲同飛成 △5六馬 ▲7二金 △9三玉 ▲8二銀

 宗英は、1一飛と打って、二枚飛車から6一竜で、この将棋を仕上げた。

投了図
まで110手で下手大橋宗英の勝ち

 これが「鳥刺し1号局」の将棋である。大橋宗英の完勝であった。
 この将棋、五代宗印の振り飛車に対する「鳥刺し」という新戦法が、ぴたりとはまったようである。“5八玉”となったのは想定内だったのかどうかは不明であるが、二枚の銀を進出させて序盤を支配した構想がうまかった。「鳥刺し」大成功という結果となった。
 上手の宗印は、序盤のどこかで、何か工夫して別の動きをする必要があったようである。


八代大橋宗桂-三代伊藤宗看 1735年 御城将棋
 なにをもって「鳥刺し」とするのかその定義がはっきりとしていないが、「対振り飛車角道開けず」の指し方を「鳥刺し」というのなら、それはもっと前から指されている将棋がある。
 たとえば1735年のこの御城将棋の一局。下手番の八代大橋宗桂が指している。

伊藤看寿-四代大橋宗与 1745年
 これは1745年の有名な伊藤看寿の「魚釣りの歩」の将棋だが、その序盤はこのように上手が「角道開けず」である。
 この時代、「右香落ち」で振り飛車(下手)から2二角成からの角交換振り飛車が流行したことがあって(それを流行らせたのはこの将棋の看寿の相手四代大橋宗与)、それを嫌がって上手が角道を開けることを保留しているのである。

 しかし「鳥刺し」の定義が、「対振り飛車で、角道を開けず引き角にして左銀を攻めに使う」であれば、たしかにその1号局は今見てきた1779年「宗英-五代宗印戦」だろう。実際には宗英の角は「引き角」にはならなかったが、序盤の含みとして「引き角」の予定だった。
 (ただし、棋譜としては、井出主税と宗英との1778年の稽古将棋が最も古い「鳥刺し」の棋譜になる)


 棋譜鑑賞  [2]四宮金吾-天野宗歩(左香落ち) 一八三六年

 これは上の[1]大橋宗英-五代伊藤宗印戦とよく似た序盤の将棋で、この1836年「四宮金吾-天野宗歩戦」を元に、“鳥刺しは四宮金吾という棋客が考案した”としている書もいくつもあり、その話がわりと広まっているが、それは誤りである。
 升田幸三著『王手』にも四宮金吾の創案した戦法として升田はこれを面白く語っている(升田の師匠の木見金次郎が「鳥刺し」でやっと阪田三吉に勝てたという話など)が、一般にはそのように伝えられてきていたようである。

 本当は、上に述べた通り、「大橋宗英の研究グループが生み出した」が正しいと思われる。


 さて、ではこの将棋「四宮-天野戦」を見ていこう。天野宗歩が四宮の「鳥刺し」に対してどう指したかに注目したい。

四宮金吾-天野宗歩 1836年
 「宗英-五代宗印戦」と同じ出だし。3六同歩に、1五角、5八玉、3六飛、1五歩までまったく同じ。

 天野宗歩はこの対局時、年齢は数えで21。 江戸本郷の生まれ。 
 四宮金吾の年齢についてはよくわからないが、四国の出身らしい。


 1五歩に、天野宗歩は“4二角”と指した。ここで前例の「宗英-五代宗印戦」とわかれた。(前例は3三角だった)


 そうしてこうなった。上手宗歩の駒組み(3二銀型)が五代宗印の指し方と違う。たしかに、この方が軽くて良さそうだ。
 宗歩が4二に角を引いたのは3三桂と跳ねる手をできれば指したいからだろう。しかしすぐに3三桂とすると、角が使えなくなる可能性があるし、跳ねた桂馬を狙われて負担になるかもしれない。4二角と引いたのは、下手に二枚の銀で目標にされることをあらかじめ避けている意味かもしれない。おそらく天野宗歩は二枚の銀に振り飛車側が押さえ込まれた「宗英-五代宗印戦」の棋譜を知っていたのではないか。


 下手四宮金吾は「引き角」に。これが「鳥刺し戦法」。このままだと3五銀~2四歩で下手が良くなる。
 上手の「アイデア」が必要となるのがここからである。
 
 天野宗歩は8四飛。3五銀からの圧力を先に避けた手で、それでも3五銀なら3三銀と受けるつもりだったと思われる。(こうした順を考えての序盤の“4二角”だったのか)
 それでも下手3五銀はある手だったが、四宮はそう指さず、5七銀上。
 以下、5四歩、6六銀、4四歩、5五歩(次の図)


 5七銀上~6六銀は、上手の8四の飛車をいじめようという手で、「鳥刺し」のこれが基本思想ともいえる。
 それにどう対応するか、というのが腕のみせどころ。
 “実力十三段”などと呼ばれた天才天野宗歩は、5四歩~4四歩と構えた。こうすると上手の飛車がますます狭くなるが…

 四宮金吾は5五歩(図)
 この5五歩で7六歩のような手はないのだろうか。5二金左なら、7五銀、同角、同歩、7六銀、8六歩、同飛、8八歩。これはこれで下手悪くないようだ。(宗歩が7六歩にはどう対応したのか知りたいが、知りようがない)
 ともかく、四宮は5五歩(図)と指した。このあたり、変化が広い。

 宗歩は、4五歩と返す。同銀に、5五歩。これで飛車の横利きがまた通った。
 以下、7六歩、4三銀、5八金右、5二金左、7五歩、5四銀(次の図)


 ここでは上手ペースになっている。それまではむしろ下手が手広く主導権を持っていたが、下手の7六歩~7五歩が意味不明だ。これが疑問の構想だったと思われる。(どうやら上手からの端攻めを警戒したようだ)
 とはいえ、形勢はまだ「互角」。(「激指」評価値は[+53])

 5四同銀、同飛、3八飛、3三歩、3六飛、5三角、6五銀(次の図)


 こうしてみると、下手の7五歩の構想はこういう3六飛のような浮き飛車の構想だったのかもしれない。しかしお互いに浮き飛車なら、しっかり「美濃囲い」に囲っている振り飛車側に利があるように思える。
 
 3四飛、3五歩、8四飛、5四歩、4二角、2四歩、同歩、3四歩(次の図)


 四宮金吾は、上手の飛車の横利きを5四歩で止め、2四歩、同歩として、3四歩(図)。
 これでもう、上手は下手の飛車先(3筋)の攻めを止めるのは難しい。しかし放っておけば、3三歩成には同角で、一時的には受かっている。
 
 上手天野宗歩は9五歩と、端から攻めた。同歩なら、9七歩(同香に9八歩?)と攻めるのだろう。
 上手9五歩以下、3三歩成、同角、2二歩、9六歩、2一歩成、4四角(次の図)


 ここからの数手が勝負の重要な分かれ目になった場面。

 3一飛成という手が見える。ところが四宮はこの手を指さなかった。なにか嫌な筋があったのだろうか。
 ここで下手は3四飛、4三歩、4五銀(参考図)と指すのが最有力な手順かもしれない。
参考図3
 下手はこの場合、上手の角を攻めに使わせないというのが急所のようだ。

 「3一飛成」も、「3四飛」も、ソフトの評価はほぼ「互角」である。

 四宮金吾の指し手は「7六銀」。 これで十分と四宮は見ていたのかもしれない。
 以下、宗歩は3三歩。(ソフト「激指」の評価はここでもまだ「互角」)
 
 次の1四歩がどうだったか。1四歩はあまりにも遅い攻めに思える。
 実際、この手では、下手4五銀で、下手が有利になっていた可能性が高いようだ。
 (だから宗歩の指した3三歩では、代えて5六歩の攻め合いが最善かもしれない)

 実戦は下手1四歩に、上手5六歩(次の図)


 四宮金吾が1四歩の攻めで間に合うと判断したのは、上手からの5六歩の攻めは受けきれると思っていたからだろう。
 5六歩には、6六桂または6六銀と受けるのが普通に思える。
 実際そう指すところと思われるのだが、四宮金吾は5六飛と指した。
 どうやら四宮は、これで下手からの5筋の攻めに期待をかけていたようだ。9九角成には5三歩成で勝てるとみたか。


 実戦の進行は、前の図面から、9七歩成、同香、9六歩、同香、同香、9七歩、6四香、5五銀、4五銀となって、この図。
 少し上手が良いようだ。
 ここから4四銀、5六銀と飛車を取り合う。そして、5三歩成、5七歩、6八金寄、9八飛、7七玉、7四歩(次の図)


 形勢にそれほどの差はないが、ここは上手の勝ち将棋になっているようだ。
 “どう決めるか”だが、ふつうは9七香成か、あるいは6七香成、同金、5八歩成のような攻めだろう。

 天野宗歩は7四歩。独特の決め方で、才気を感じる。
 この“7四歩”の場面は、「激指」の評価値もほぼ「互角」――というか[-116]だから下手に勝ちがある可能性もある。
 それでも、宗歩のこの手には、「これで勝ちです」と、自信をみなぎらせて指したような雰囲気がある。実際、勝つのである。

 7四同歩には――5三金、同銀不成、7五歩、同銀、7六歩(参考図)

参考図4
 7六同玉に、6八飛成、同金、6五金、7七玉、7五金のように攻めるのだろう。まだこれはしかし難しいところがある。(以下9五飛があり「激指」評価値は[-107])

 実戦の進行は、上手7四歩に、5四角と四宮が工夫。そこで宗歩の“7三銀”がすごい手だ。


 ここで7三銀はちょっと思いつかない。良い手ではないと思われるが、これはたぶん、下手の6三とを誘っている手なのである。
 対する下手四宮の指した6三とが“敗着”。 代えて落ち着いて9六歩(香を取る)ならまだ形勢ははっきりしない。

 6三と、7五歩、7三と、同桂、7五銀、(次の図)


 上手が危険に見えるが、ここでは6七香成、同金、5四飛があって、角が抜けるのでここははっきり上手が勝ちになっている。(6三ととしなければ角は浮いていないのでタダでは取られなかった)
 6七香成、同金、5四飛、7四桂、7二玉、5五銀打、6七銀成、同玉、5八角、5六玉、6五金、4六玉、4五歩、3五玉、6九角成(次の図)


 5四銀、3四金、2六玉、2八飛成まで、115手で上手天野宗歩の勝ち。


 「鳥刺し戦法」は、今回調べた2局を見れば、どちらも作戦としては成功していると思う。
 ただしそれは上手が「三間飛車」から3六歩以下、飛先歩交換して浮き飛車に構えたからで、別の指し方ならまた別の将棋になるだろう。
 少なくとも、上手が「3五歩」を早々に突いた場合には、「鳥刺し」はかなり優秀な指し方と言えるのではないか。

 「鳥刺し」の名称のもう一つの解釈として、「鳥のように動き回る振り飛車の飛車を刺す」という解釈も、この調査報告を記しながら思いついた。
 升田幸三『王手』には、四宮金吾が、ある剣術家と漁師の戦いのエピソードからヒントを得て(ちょっと無理がある)、「鳥刺し」を思いついたという話を師匠の木見金次郎の結婚の仲人をした人物から聞いた話として載っている。


 五代伊藤宗印と大橋宗英との対戦は、その3年後1782年の御城将棋(宗印の「右香落ち」)で3度目の対戦をする。
 そしてその「闘い」は、五代伊藤宗印から伊藤家の六代目を継ぐことになる六代伊藤宗看(松田印嘉)にバトンを渡されて続けられていったのである。1784年、大橋宗英より12歳若い六代伊藤宗看が17歳で御城将棋に登場する。

 大橋宗英は1799年、八世名人の九代大橋宗桂が死亡したのを受けて、九世名人を襲う。
 大橋分家からは76年ぶり二人目の名人であった。
 伊藤家と、その伊藤家の得意な詰将棋に屈辱の思いを積まされてきた大橋分家から出た新名人宗英はきっぱりと宣言したのであった。
 「献上図式の慣習は廃止する」 (「図式」とは詰将棋のことである)
 図式の廃止はおそらく、大橋分家の1つの目標、悲願であったと思われる。


 今回は徳川家治の棋譜は全く紹介していないが、家治が伊藤家の者と将棋に熱中した時期と、大橋宗英の練習将棋の棋譜がたくさん残っている時期とがちょうど重なっていて、その時期に戦った「大橋宗英-五代伊藤宗印戦」が歴史に残る「鳥刺し」1号局ということで、興味深かったのでこれを採り上げた。
 徳川家治は1786年に亡くなり、これによって田沼意次時代も終わった。1782年からは「天明の大飢饉」の時代である。

 大橋宗英は「近代将棋の祖」というように、よく紹介されているが、実際に「近代将棋の祖」と呼ばれるにふさわしい人物は、あえて一人挙げるとすれば、五代伊藤宗印がそれにふさわしいと思う。
 実際には、「近代化」は、多くの棋客によって、集団で実行されてきた結果である。
 大橋宗英の前に、五代宗印、九代大橋宗桂、大橋宗順、伊藤寿三、徳川家治らによって、「将棋戦術の近代化」は先に始まり進められていて、宗英はその大波の上に乗っかっていったのである。
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終盤探検隊 part75 第十代徳川将軍家治

2015年12月30日 | しょうぎ
 これは五代伊藤宗印が編み出した戦法。現代の、1990年代に現われた「立石流」の源流となるような戦い方である。
 五代伊藤宗印は鳥飼忠七という民間棋客(江戸の菓子屋の落とし子だったと言われている)だったが、1763年にまだ20代の将棋家元伊藤家の四代目得寿(三代目宗看の息子)が突然に死んでしまったので、伊藤家に養子に迎えられ、五代目を継いだ。

   [鳴動黄金城]
「こ……これは……これは皇帝詰めの手順に違いない」
「何だと……」
「黄金城の扉を開く鍵の一つが徳川に伝わる皇帝詰だ。徳川はそれを将軍詰と呼んだが、何を意味するのかは悟らずにいた」
   (中略)
「十五手目に香打ちがある。持駒は外界のものだ」
「ええい。今そんな将棋のことなど聞く暇はない。どうすれば黄金城の扉が開くのだ。言わぬか」
 また日天が平田屋の首をきつくしめた。
「詰めるのだ。……玉を。雪隠詰め……」
「ばかな」    
                     (『妖星伝』(五)天道の巻より)



 棋譜鑑賞  徳川家治-五代伊藤宗印 一七七七年

 「左香落ち」の将棋。オープニングに注目。

△3四歩 ▲7六歩 △3三角


▲2六歩 △3五歩 ▲2五歩 △3二飛 ▲6八玉 △6二玉

 「左香落ち」での“3手目3三角”、この手は五代伊藤宗印が始めた。
 これを同角成なら同桂で、その後はおそらく四間飛車になるのだろうと思われる。同角成と応じた将棋は見られない。
 2六歩には、3五歩。

 この“3手目3三角”の最初の棋譜は、1770年の御城将棋「九代大橋宗桂-五代伊藤宗印戦」だ。

九代大橋宗桂-五代伊藤宗印 1770年 御城将棋
 その将棋はこういう展開になって、4五歩から下手の九代宗桂が仕掛けた。(結果は宗桂勝ち)
 左香落ち“3手目3三角”は、五代宗印の研究していた“秘技”だったのだろう。
 その後、その戦法をさらに進化させていたのだ。 


▲7八玉 △7二玉 ▲4八銀 △4四歩 ▲1六歩 △4二飛 ▲5六歩 △3二銀
▲2六飛 △9四歩 ▲9六歩 △4五歩

 「三間飛車」に。 まだ角道は止めず、6二玉。
 ここで3三角成なら、今度は同飛だろうか。
参考図1
 以下2四歩、同歩、同飛、2三歩、2六飛なら、3六歩、5五角、3五飛、4六角、8五飛(参考図)が予想される手順の一例。
 途中、2六飛に代えて、2八飛なら、3六歩、4八銀、5五角、7七角、3七歩成のような変化となる。
 いずれも形勢は不明。

 実戦は下手が角を換えず穏やかに進める。上手の五代宗印は、7二玉の後、4四歩として、それから4二飛と「四間」に振り戻す。
 そして―――


▲5五歩 △4四飛

 “4五歩”。 これが五代伊藤宗印が編み出した作戦。
 「立石流」に似ている。というか、3二銀に代えて3二金なら「立石流」そのものである。江戸時代から、こういう指し方はあったのである。
 この五代宗印以前には、先代の宗印――二代宗印(鶴田幻庵)――が1699年に一度指した棋譜が残っていて、似た形で「4五歩」を突いている。(その将棋は後でまた触れる)

 “4五歩”に、家治将軍は5五歩と角交換を拒否し、すると宗印は4四飛。


▲5八金右 △4三銀 ▲5七銀 △5二金左 ▲6八銀上 △8二玉 ▲7七銀 △7二銀 ▲7九角

 こう進むのなら、「香落ち」の上手としては“上々”という感触だろう。
 (この二人の将棋以外では)前例のない形。居飛車側がどう指すかが問題だ。
 家治将軍は、7七銀から7九角と、「引き角」に。


△2四歩 ▲同歩 △同飛 ▲同飛 △同角 ▲2二飛 △2七飛
▲1七桂 △3六歩 ▲同歩 △3三桂 ▲2五歩

 ここでは上手にいろいろな手があって、たとえば5四歩も有力だし、3四飛もある。
 実戦は、2四歩と、ここから上手が仕掛けた。ここで戦いになれば、「左香落ち」であることが上手にとって損にならない戦いになりそうだ。
 2四歩、同歩、同飛、同飛、同角――飛車交換になった。


△5七角成 ▲同角 △2九飛成 ▲5四歩 △1九龍 ▲5三歩成 △同金
▲1三角成 △5二銀 ▲5五角 △1七龍 ▲3三角成

 角が詰んでしまった。5七角成と切る。


△1八龍 ▲6五桂 △5四金 ▲5三歩 △同銀 ▲同桂成 △同金 ▲5四歩 △5二金引
▲4四馬 △5七歩 ▲同馬 △6五桂 ▲3五馬上 △4二香 ▲5三歩成

 3三角成で桂馬を取った。この場面で、下手の「銀香」と上手の「角」との交換になっている。それを考えると上手有望な気がするが、下手のほうが飛車の位置が良いので、ここは「互角」のようだ。
 ここで上手宗印は1八竜。良い手に見えるが、ここは1六竜が最善手かもしれない。1八竜に対する6五桂が的確な厳しい攻めだった。
 1六竜に2四馬なら1三銀があるし、6八馬なら3六竜が3三馬取りで調子が良い。よって1六竜には3五馬が予想されるが、それには3一香がある。以下、5四歩、同金、4二馬、1一竜(参考図)

参考図2
 かなり上手が“ひねった手”をくり出しているような手順だが、こういう感じで上手が頑張って「互角」というような、そういう形勢の将棋になっている。
 家治将軍が、上手からの2四歩の仕掛けの後、うまく指したようだ。


△4四香 ▲5二と △5七歩 ▲6八金寄 △7七桂成 ▲同玉 △5五角
▲6六歩 △6五銀

 下手優勢になった。

6五銀
▲6一と △6六角 ▲8六玉 △7四桂 ▲9七玉 △8八銀 ▲9八玉 △8九銀不成
▲同玉 △6八龍

 ここで6七金打と受けて、下手の優勢は維持できていた。
 ところが将軍は6一ととしたので、これで逆転し一気に後手勝勢に。ポカの少ない家治将軍だが、これは何か錯覚があったか。


▲7一銀 △9三玉 ▲8二銀打 △8四玉 ▲7五金

 しかしここではまた、将軍に、“チャンスボール”が来た。(宗印が寄せを間違えたようだ。8九銀不成では9九銀成とし、9七玉に6八竜なら、下手にチャンスはなかった) 


△7五同角 ▲6八金 △6六角 ▲7七桂 △7六銀

 7五金、同角と、王手で金の犠打で角を下がらせれば、6八の竜が取れる。この手段があった。


▲8五金 △同銀 ▲7二飛成

 7六銀は“詰めろ”になっている。
 しかしここで6七金打が正解手で、これで下手良しだった。(その場合の「激指」評価値は[+1483])
 こういう“平凡な手”で勝てるときに、着実にその手を指す――それが実は難しいのである。

 家治将軍は、8五金、同銀と、銀を下がらせて、それから7二飛成。この手はどうだろうか。

7二竜
△8八金 ▲同玉 △7六桂 ▲7九玉 △6八桂成 ▲同玉 △7七角成
▲5七玉 △6六馬 ▲5八玉 △6七金

 7二飛成は“詰めろ”になっている。詰将棋の得意な徳川家治らしい手である。
 7二飛成にたとえば7六桂なら、8三竜、同玉、7二銀(同玉なら8一銀不成以下)、8四玉、8三飛、7五玉、8五飛成、6四玉、6五竜、5三玉、6三竜以下の詰みとなる。
 面白いアイデアだったが、しかし金を一枚渡した罪で、8八金、同玉、7六桂…、以下、先手玉が先に詰んでしまったのである。銀を8五に下がらせても先手玉の“詰めろ”は消えていなかったのだ。
 この先手玉の詰みは難しくない。難しくはないが、自玉の詰み正確にを読むのは、敵玉の詰みを読むよりも大変なもの。

投了図
まで115手で上手五代伊藤宗印の勝ち


三代大橋宗与-二代伊藤宗印 1699年
 この“立石流風の4五歩”作戦は、これより前には“先代の宗印”すなわち二代伊藤宗印(五世名人、前名鶴田幻庵)が一度指したことがあった。1699年のことである。この二代宗印は振り飛車ではこういう軽い仕掛けをよくやった。
 「宗印」の名前を受け継いだ五代宗印(=鳥飼忠七)がこれに磨きをかけて自分の得意戦法に仕上げたのであった。(1699年のその将棋は「四間飛車」でこの形になった。五代宗印流は三間飛車から始まる)

 この後は、5六歩、4六歩、同歩、同飛、4七銀、4四飛、6六角、7四飛、7七銀、3三桂、1四歩、同歩、4四歩、3四角(次の図)と進んだ。


 こういう面白そうな将棋になっている。 しかし勝利は三代大橋宗与に。

 この宗与は大橋分家の三代目で、年下の伊藤家のこの養子に「平手」ではほとんど勝てず、それで伊藤宗印が次の名人(五世)になるのだが、推定で約20歳ほど年下の宗印が1923年に死んでしまったので、その後を継いで六世名人を襲位した。この時に三代宗与が献上した詰将棋本は評判が悪く(余詰めやアイデアの盗用がみられる)、そのために名人としての評判にキズをつける結果となった。
 大橋分家にとっては、「詰将棋」と伊藤家とは、憎き敵なのである。


徳川家治-五代伊藤宗印(左香落ち) 1775年
 同じ展開から、上手五代伊藤宗印の「4五歩」に、下手の徳川家治は2四歩、同歩、1五歩(図)と返した。「左香落ち」であることを下手が生かそうとする攻めだ。


 以下、この図のようになった。これはどっちがよいのか?
 ここから、5八成桂、同金、4七歩成、4四歩、同飛、5二角成と進む(次の図)


 ここで5八となら、上手良し。
 ところが宗印は5二同金と取ったので、7一銀以下の攻めで下手優勢に。そのまま下手の家治が勝ちきった。


徳川家治-五代伊藤宗印(左香落ち) 1776年
 実際にこのように上手から堂々と「4五歩」とされると、下手はどう指すのが正解なのであろうか。(答えがはっきりしないから指す価値があり面白いのであるが)
 5五歩と家治は応じる。それには宗印流は4四飛だ。
 以下、5八金右、3四飛、6八銀(次の図)


 4四角、5六飛、4三銀、5七銀右、3三桂(次の図)


 ソフト「激指」はここではほぼ「互角」の評価。しかしこれは「左香落ち」で初形で[-250]だったのが「互角」なので、厳密にはすでに上手が“うまくやった序盤”ということになる。
 このままだと上手の陣形はさらによくなり、下手の陣形は一応これが完成形でこれ以上は良くなる手がない――とすれば、ここで“戦い”にするのが正しい。
 家治将軍は、1四歩、同歩、1六飛から、1四飛で、飛車交換で“戦い”に持ち込んだ。


 以下進んで、この図になった。いま、下手の3九歩に、2九にいた竜を2八に引いたところ。
 ここで下手が“正解手”を指せば、下手が有利の分かれだった。
 “正解手”とは、2九歩である。
 攻め将棋の将軍は、ここで9三桂と攻め込んだ。しかし5七と、8一桂成、同玉、9三歩成、同歩、同香成、同香、同角成、6八と――
 上手が押し切って、勝った。


徳川家治-五代伊藤宗印(左香落ち) 1777年
 振り飛車の「4五歩」に、下手の家治将軍は、2四歩(図)
 以下、同歩、3三角成、同桂、2四飛、2三歩、2六飛、3六歩、7七角、4六歩、同歩、同飛、4七歩、7六飛、8八銀、9五歩、同歩、9七歩(次の図)


 3六歩、7四飛、3五歩、5五角、3七桂、3六歩、同飛、7七角成、同銀、2七角、9六飛、5四角成(次の図)
 「四間飛車」からの“横歩取り”だ。


 形勢は「激指」によれば、下手良しだという。評価値は[+800]くらい。


 さらに約20手ほど進み、この図になった。ここが重要な場面だった。
 ここで“失着”を下手が指したので、形勢はもつれた。
 ここは3三成香が正着だった。3二歩なら、4三銀がある。
 家治は4一成香としたので、3二歩と打たれ、飛車が使えなくなってしまったのが痛い。

 それでも次の下手の5五銀が好手で、形勢は不明。将軍はこの手に期待していたのだろう。
 5五銀、8四香、5四銀、同馬、7六歩、8五銀、9七飛、7六銀で、次の図。


 ここで7六同銀、同馬、7七金なら下手良しではないか。以下、5四馬に、5五歩、4三馬、3四銀(参考図)

参考図3
 この銀を取れば3二飛成が絶好だ。こうなれば下手良さそう。ただし図以下、3四同馬、3二飛成、5二馬に、3四角(4三角は2一銀で難しくなる)で、下手有利とはいえ、まだ互角に近い形勢。そこで2一銀には、5二龍、同金、8九玉で、下手良し。
 
 これはこれで大変だが、この順を選ばず3四角と攻め合った本譜は上手優勢になった。


 ところが上手も失着を指したので、、またこの図では下手にチャンスが訪れている。
 ここで“正着”は、2九金。
 2九金に3六飛成なら、7五銀と敵玉を包囲すれば下手勝ち。6九馬も3八金で下手良し。
 (ただし、4八飛成、同金、6九馬、5一馬、7四玉、3四飛、4四歩、3八金打で、これは形勢不明)

 家治将軍は「勝ちだ」と思ったのだろう、7五金と指した。“玉は包むように寄せよ”だが…


 しかし5七桂不成(図)。 下手玉に“詰み”があった。
 徳川家治の“とん死負け”となった。


 以上、「五代宗印流三間飛車」の将棋を紹介した。
 徳川家治は、この“五代宗印流”の三間飛車に対し、“4六歩”とする将棋もよく宗印を相手に指している。
 その場合の“五代宗印流”は次のような指し方になる。

徳川家治-五代伊藤宗印(左香落ち) 1777年
 今、下手の家治将軍が1四歩から仕掛けたところ。
 対して上手の五代宗印は、3六歩(図)。同歩に――


 4五歩。これが「五代宗印流三間飛車」である。これはよく見るふつうの指し方であるが、宗印は相手の4六歩型にはこういう指し方をしていた。

徳川家治-五代伊藤宗印(左香落ち) 1775年
 「四間飛車」の場合は、下手が早めに3六歩を突くと、立石流風の構えには上手はできない。
 その場合の“五代宗印流”は、この図のように「4五歩」である。

 この「四間飛車4五歩」の指し方は、もっと古くからある。やはり伊藤家の先代(二代)宗印が得意にしていたし、伊藤看寿も何局か指した棋譜を残している。
 角交換を歓迎する、という指し方である。(昭和時代は相手が棒銀で来たときには、振り飛車から4五歩として角交換を求めるという指し方はわりとよく見られた作戦。しかしこれほど早く4五歩と振り飛車から角道を開ける作戦は少ない)


 その五代宗印の「四間飛車4五歩」に対しては、家治は角交換をせず、5七銀~2六飛として、そこから3五歩、同歩、5五歩と、図のように仕掛ける。
 徳川家治、五代伊藤宗印、伊藤寿三の研究チームは、この仕掛けを熱心に研究していたようだ。
 この将棋は図以下、5五同角、同角、同歩、2四歩、同歩、2二角(香落ちだとこの手は無効)、4四角、2四飛、2二角、同飛成、5六歩、6六銀、3六歩と進む。

伊藤寿三-徳川家治 1776年
 振り飛車が「向かい飛車」で来たときには、「引き角」にする。初代大橋宗桂の時代から指されてきた指し方である。
 「向かい飛車」側から2四歩と仕掛けられるのが嫌で、だから「引き角」にするのが江戸時代では常識だったようだ。また、振り飛車が三間や四間に振っていても、居飛車側が「引き角」の作戦を採れば、今度は居飛車側から2四歩があるので、やはり「向かい飛車」に構え直すことになる。
 というわけで、「引き角vs向かい飛車」という戦型は、避けられない戦型でもあったのである。
 だから当然、家治、五代宗印、寿三のグループもこれを研究した。

 図から、3二飛、3四歩、同銀、3六歩と進んだ。
 3六歩が伊藤寿三のアイデアで、これがなかなか面白い手だった。こうしておいて次に3五銀と行こうというのである。(後の棋譜では家治が五代宗印を相手にこの寿三流を採用している)


 こうなってみると、これは居飛車が有利の分かれになっている。


 このように将軍・伊藤家の熱心な将棋研究グループがあり、もう一つ別に大橋宗英の研究グループがあった。
 メンバーは、大橋宗英、井出主税、大津五郎左衛門、毛塚源助など。
 宗英は父である大橋分家の五代目当主宗順の後を継ぐ予定の若者。1778年に23歳で御城将棋デビューをした。その相手は五代大橋宗印で、宗印の「角落ち」だった。宗英が勝利した。

 大橋分家にとって、伊藤家は、「絶対に倒すべき宿敵」であった。
 大橋分家には、詰将棋と伊藤家(二代宗印、三代宗看、看寿ら)に痛めつけられてきた歴史がある。

 “次の五代伊藤宗印との戦い”に備えて、宗英グループも研究を重ねていたことだろう。
 1779年の2月、また五代宗印との対局が決まった。今度は「香落ち」だ。
 「左香落ち」なら、宗印は振り飛車で来る。だから五代宗印の振り飛車への対策を研究しただろう。

大橋宗英-五代伊藤宗印(左香落ち) 1779年
 その“決戦”で、大橋宗英が用意した作戦は、いままでに見たことのないものだった。
 「鳥刺し」である。

 ここで我々は初めて気づいたのだが、この戦法を「鳥刺し」と呼ぶようになったのは、これは鳥飼忠七(五代伊藤宗印の前名)を倒す(=刺す)ために、編み出された戦法だったからではないのか。


 次回 part76ではこの将棋の1779年「大橋宗英-五代伊藤宗印戦」の棋譜鑑賞をする。
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終盤探検隊 part74 第十代徳川将軍家治

2015年12月26日 | しょうぎ
 江戸時代の「相居飛車」で、もっとも流行った戦型が「左美濃」の戦型である。
 これは(後手番ならば)3三角という角の位置で、図のように「高美濃」にして囲いは完成である。
 この「左美濃」作戦は、1768年の御城将棋で登場し、以後、大人気戦法となった。

 
   [妖怪長者]
「それは紛れもない黄金だった。当然儂は出どころを尋ねた。元助ずれが持っていてよいものではないからな。どこからか盗んだのだと思っていたのだ。しかし、元助は夢を見たのだといい張った」
「夢を……」
「そうだ。黄金をもらった夢を見たそうなのだ。そして儂の声で目が覚めたら、本当に夢で見た通りの黄金を握っていたというではないか」
 代官は遠くの山の頂を見ながらいった。    
                     (『妖星伝』(四)黄道の巻より)



参考図
 「相居飛車」の「左美濃」は、“7八銀”の手から出発する。(矢倉なら7八金だが、それだともう「左美濃」にはならない)
 江戸時代の後半期にこの「左美濃」は大活躍をするのだが、それはこの参考図から6七金とする「高美濃」の形。これによって上部が厚くなる。
 この参考図の平美濃の形は面白い陣形で、ここから6七銀とすれば「雁木」になるし、6七金のあと、6八角~7七銀~7八金で、「矢倉」に変身することも可能だ。
 そう考えると万能な、素晴らしい構えなのだが、7、8筋を攻められたときに7八銀型ではまずい場合もある。
 具体的には、後手から「6四銀7二飛型」で、7五歩とする袖飛車棒銀に来られたときの対策を考えておく必要がある。その時にもっともよい対応は7七銀型の矢倉なのだ。江戸時代前半期のの棋士達はだいたい「雁木」が好きだったが、6四銀から袖飛車を見せられると、しかたなく「矢倉」にしていたという事情がある。
 「囲い」というのは、相手の攻めとの問題もあるわけで、自分の好みだけの問題ではないのである。相手が玉の囲いを後回しにしてまで「6四銀7四歩7二飛」と袖飛車で攻めてきたら7七角型はつくりにくいが、しかし相手が玉の囲いに手をかけるのなら、こちらも余裕ができるわけで、好きな囲いを選択できる。
 つまり、相手が自陣の「左美濃」や「矢倉」の囲いをつくるのに手をかけている間は、こちらも好きな囲いが組めるわけで、この参考図の7七玉7八銀型で問題はないわけである。

伊藤印達-三代大橋宗与 1709年 
 相居飛車戦で「左美濃」が最初に登場したのは、1709年。「雁木vs左美濃」。
 後手の三代大橋宗与が最初にやった。「腰掛銀」との組み合わせで使った。
 (この場合は8四飛型だが、これを6二飛型にして右四間にすればこれは現代でも見られる型である)

伊藤看寿-八代大橋宗桂 1736年 御城将棋
 次に1739年の御城将棋で出現。伊藤看寿の「左美濃」。今度は「左美濃vs矢倉」だ。
 この2つの例は、いずれも“平美濃”だった。

大橋宗順-九代大橋宗桂 1768年 御城将棋
 そして1968年の御城将棋で、九代大橋宗桂が見せた“高美濃型”の「左美濃」作戦。
 この将棋が「左美濃戦法」の出発点となった。
 大橋分家の宗順と、大橋本家の期待の若者印寿(九代宗桂)の対戦。宗順36歳、九代宗桂25歳。(御城将棋のキャリアとしては年下の宗桂が10年先輩で、この対局は「右香落ち」である)

 今、囲いを完了させた上手が5五歩と攻めを開始したところ。以下、同歩に、4五歩、6七金、5五角、3七銀、4四銀と進む。
 これを見ても、「矢倉」は完成させるのに手間がかかることがわかるだろう。


 5二飛と中飛車にして、上手の九代宗桂は中央にねらいを定める。図の4四銀型がこの「左美濃戦法」の一つの理想形である。


 8二角と引いた手に対し、1六歩、2二玉と進み、そこで下手は5六歩と打ったが、上手は5五歩とすぐに歩を合わされて、同歩、同銀で、銀を進出させてきた。ここで5六歩と打っても取られてしまうだけなので、1五歩、5六歩、5八歩となり、上手の銀に中央で威張られる形になってしまった。
 この図で、下手は3五歩とすべきではなかったか。3五歩、同歩、同角に4四金なら、6八角と引いて、5六歩に、3六銀から銀を使って決戦だ。


 中央に銀を居座られて、6筋から攻められ、そのまま攻めつぶされてしまった。
 「左美濃戦法」がデビュー戦を大勝利で飾った。

大井中務少輔-大橋宗順 1768年 御城将棋
 将軍徳川家治は御城将棋に「お好み」というものを持ち込んだ。御城将棋の対局は、当初は実際に江戸城で初めから終局まで指されていたが、その日の定刻までに終了しない対局も出てきて問題になり、やがて、御城将棋の日よりも前に実際の対局を行って、当日(毎年11月17日)は儀式的に並べるだけになっていた。家治将軍は、その残りの時間で、○○と○○とで対局してみよと、人物を指名して別の対局を新たに要求したのである。それを「お好み」と称した。
 この対局「大井中務少輔-大橋宗順戦」は、そうした「お好み」の一局である。上の九代大橋宗桂と戦った大橋宗順が同日にまた指している。
 面白いことに、いま、九代宗桂の「左美濃」に完敗した宗順が、すぐに「左美濃」戦法を採用している。
 2四歩、同歩、同角に、宗順はこれを同角とせず、2三歩と打った。3三角成に、同玉。この玉は2二に入城するのだが、これで後手は「手得」になる。ただし、これは相手(この場合は下手)に、角交換をせず6八角と引く(飛車先の歩を切ったことでよしとする)という選択権を与えることになるのであるが。


 その将棋は、こういう図になった。下手は「矢倉」を完成させ、馬をつくった。そして上手宗順は玉方の桂馬を使って攻めてきた。
 図で下手は5八歩だが、上手はいったん5三飛とした後、3五歩~3六歩と、3筋から攻めた。
 そして、50手ほど進んで、次のような図になった。


 この相居飛車の「左美濃」の将棋は、相入玉の持将棋になることが実は多かった。とくに本局のような「右香落ち」だと、下手が丈夫に「馬」をつくるともう、下手がその気になれば入玉は難しくない――というケースが多い。
 ただし、この将棋は宗順が敵玉を逃がさず捕まえ、勝利した。

大橋宗順-五代伊藤宗印 1769年 御城将棋
 翌年の御城将棋では、五代伊藤宗印が宗順を相手に、「左美濃」を採用。
 「腰掛銀型右四間vs左美濃」というこれまた新しい型に。(最近の棋王戦挑戦者決定戦「佐藤天彦-佐藤康光戦」がこの戦型になった)

指了図
 大橋分家vs伊藤家という因縁の熱い対決は、138手で、持将棋に。
 「相居飛車」の将棋が増えるにつれ、持将棋になる将棋もこの頃から増えていった。

曲淵甲斐守-九代大橋宗桂 1776年 御城将棋
 1776年の御城将棋の「お好み」。
 下手は7八銀型、上手は3二銀型である。「左美濃」が人気戦術になってきていることが感じられるだろう。
 上手の九代宗桂は、8六での角交換はしなかった。7五で歩交換をして、7六歩に、8四角と引いた。この角は「矢倉引き角」なら本来は4手で移動できる位置なのだが、こうやれば3手で移動できる。(これを最初にやったのは1757年三代宗看)
 一方の下手(曲淵氏)は、3六歩から3八飛と袖飛車にし、3五歩。3筋で歩交換。
 相手がそう来るなら、上手は3三銀として「矢倉」に変化させる。


 このような戦いになった。上手は「矢倉」だが、ほとんど囲いはできていない。しかし攻めの準備は十分だ。
 家元(将棋御三家)の貫録を九代宗桂が見せ、勝利している。

 こうしてこの時代のこの戦型の将棋を並べて眺めるだけで、「左美濃」の出現によって、「相居飛車」の将棋がバラエティに富んだものになってきていることが感じ取れたのではないかと思う。
 この戦型は、角交換になるかどうかもわからないし、どんな戦型になるか、やってみなければ予測のつかないような、そういった面白さがある。「相矢倉」への移行もその一バリエーションなのである。


 以下、この型の、次の3つの棋譜を鑑賞する。

  1 徳川家治-五代伊藤宗印 1777年
  2 徳川家治-五代伊藤宗印 1779年
  3 大橋柳雪-深野孫兵衛 1817年


 棋譜鑑賞1  徳川家治-五代伊藤宗印(右香落ち) 一七七七年

 徳川家治は1775年より、伊藤家の五代目当主の宗印(前名鳥飼忠七)、寿三(看寿の息子)を江戸城に呼び、将棋を指している。
 家治将軍には「将棋であいつを倒したい」というようなライバルとなるような敵はいなかったであろうから、これは「研究将棋」のような、そういう色合いのものだったであろう。つまり将軍と伊藤家の将棋研究会である。
 
 家治将軍は「おもしろい」と思ったら素直にそれを取り入れ、研究する。
 1768年に御城将棋に現われた新戦術「左美濃」も、当然研究対象となる。

△8四歩 ▲7六歩 △8五歩 ▲7七角 △3四歩 ▲7八銀 △4四歩
▲2六歩 △3二銀 ▲2五歩 △3三角


▲4八銀 △5二金右 ▲5六歩 △5四歩 ▲3六歩 △4三金 ▲5八金右 △4二玉
▲3七桂 △3一玉 ▲6八角

 宗印上手の「右香落ち」であるが、この将棋は下手家治が「平手」のような意識で駒組みを進めていく。「右香落ち」の将棋は、下手が飛車を振らなければ、だいたいは「相居飛車」戦になる。
 9一に香車がないことを除いて「同型」に進んでいる。先手は「7八銀型」であり、後手は「3二銀型」。これが、新戦略「左美濃」の特徴である。下手も上手も、それを意識しつつの序盤の駒組み。


△2二玉 ▲7七銀 △6二銀 ▲1六歩 △1四歩 ▲2四歩

 上手は4四歩から4三金と形を明らかにしてきた。
 それを見て下手は、6八角。これでいつでも2四歩と角交換ができるし、それが下手の権利になっている。
 ここで上手が4二角として、それに対して下手が7七銀から矢倉をめざし、上手も3三銀から同様に指せば、「相矢倉」となる。その形はこの二人はすでに何度か指している。(前回の報告part73参照のこと)
 この戦型は、どちらにも選択肢が序盤に多く、それが面白くて流行ったのだろう。

 下手の徳川家治は、7七銀と8筋を受けておいて、2四歩と行った。


△2四同歩 ▲同角 △同角 ▲同飛 △2三歩 ▲2六飛 △5三銀
▲6八玉 △6四銀 ▲5七銀

 上手も、3三角型左美濃のままで戦うのが基本戦術。2四歩から角交換に来るならどうぞ来ればという態度である。この戦型の半分以上はこうして角交換将棋になる。


△7四歩 ▲6六銀右 △7三桂 ▲7八玉 △6五桂 ▲8八銀 △8六歩
▲同歩 △同飛 ▲8七歩 △8二飛 ▲1五歩 △同歩 ▲1四歩

 角を持ち合って、「矢倉」の側はこのように“浮き飛車”(2六飛)で構えることが多い。
 下手は角と歩を手に持って桂馬を跳ねているので、いつでも1五歩からの攻めはできるが、上手がもう「高美濃囲い」を完成させて十分なのに対し、「矢倉」の完成はまだ手間がかかる。そのバランスが問題である。
 そこが「左美濃」側の付け目で、「左美濃」は組むのに手数がかからない魅力があり、組み終わった以上はもう戦いを始めたい。

 上手宗印7四歩。次に7五歩からの攻めがある。
 下手家治は、それを受けて、6六銀右。
 「あとは攻めるだけ」の上手は7三桂。7八玉に、6五桂。
 もう下手は「矢倉」と完成させるひまはない。家治将軍も1五歩から攻めていった。
 江戸時代、「雁木」「左美濃」が人気だったのは、このように、結局「矢倉」にすると、それを組み終わる前に相手が攻めてきて戦いになることが多いからだろう。やっぱりみんな、先に攻めたいのだ。


△5五歩 ▲3五歩 △同歩 ▲5五歩 △3六歩 ▲同飛 △2七角

 図の1四歩を同香なら、2五角がある。これだけで手になっているが、問題は、上手も角を手に持っていることである。それをいつ、どう使ってくるか。


▲2六飛 △3八角成 ▲2五桂 △3七馬 ▲5六飛 △5七歩 ▲6八金寄 △4七馬
▲2六飛 △1四香 ▲3三歩 △同桂 ▲1三角 △1二玉 ▲3三桂成

 ここから、変化が多く、我々(終盤探検隊)も調査しきれない。
 3六歩、同飛とさせて、2七角(図)と五代宗印は打ってきた。ここからが中盤の難所で、失敗するといっきに敗勢になることもよくある。家治は2六飛と指したが、3五飛または4六飛という選択もあった。


△3三同金 ▲4六角成 △同馬 ▲同飛 △8六歩 ▲同歩 △8七歩
▲同銀 △9五桂 ▲9六銀 △8八歩 ▲9五銀 △8九歩成 ▲2五桂 △9九と
▲1三歩 △2二玉 ▲3三桂成 △同銀 ▲6五銀 △同銀 ▲4三角
 
 3三歩、同桂、同桂成となったが、この瞬間、1三の角が浮いている。だからここで1三玉と角を取れる。その場合、家治はどう指す予定だったのか。1三玉に、たとえば4三成桂、同銀、3五桂、3四銀、3三金、2五角、3六歩、3二金(参考図)

参考図1
 どうやらこれは上手良し。下手は右銀が攻めに参加していないので、攻めが細い。攻めが止まると、不利になる。1三玉なら、下手不利だったようだ。

 実戦は、どういう読み、どういう思いだったかはわからないが、上手宗印は3三同金とし、以下4六角成、同馬、同飛で、再び角交換。 
 手番を得て、上手は8六歩から、攻めた。歩はたっぷりと持っている。


△8九角 ▲7七玉 △7三桂

 進んで、こういう図になった。さて、形勢判断は?
 ソフト「激指」によれば、図の4三角では、2五桂と打てば、先手が良いらしい。
 しかし4三角は6五の銀取りで、だからこれを打ちたい気持ちはよくわかる。4三角もよい手なのだが、ここでは後手に、優位に立つ“好手”があるのだ。

参考図2
 7五桂と打つ手である。同歩に、7九角、7七玉、7六香、同飛、8八銀、同玉、9八角成、7七玉、7六馬、7八玉となり、後手優勢。

 しかし五代宗印には7五桂は見えていなかったようだ。8九角と指し、7七玉に、7三桂(次の図)


▲5七金 △3二銀 
 この7三桂もセンスのある手である。6五銀取りを受けつつ、これは8五桂打以下の“詰めろ”になっているのだ。
 その“詰めろ”を見破った家治は、5七金。逃げ道を開けた。


▲3四桂 

 そこで3二銀打と宗印は受けた。手の流れとしては感触が良いが、どうもここは3二金が正解だったようである。(銀を手に持って攻めにつかうべきところだった)

参考図3
 3二金なら、後手が良かった。
 以下予想される手順は、1二歩成、3一玉、6一角成、5六歩、4三桂、同金、同馬、7六銀、6八玉、5七歩成、同玉、4五桂(次の参考図)

参考図4
 4五同飛に、6七角成からこの先手玉は詰んでいるようだ。
 とはいえ、この詰みを読み切るのは相当大変だし、だから五代宗印が3二銀打と受けたのもよく判る。(伊藤家は伝統的に詰将棋を得意とする家風だったが、この五代宗印はそれが苦手だったかもしれない)

 3二銀打には、家治将軍の次の手が勝利の“決め手”になった。


△3四同銀 ▲同角成 △5六桂 ▲4四馬 △3三銀 ▲同馬 △同玉
▲2五桂 △3四玉 ▲4五銀

 3四桂が、“決め手”である。
 本譜はこれを同銀と取ったが、3一玉なら、下手はどう攻略するのか。
 おそらく将軍は、4四飛と指したのではないだろうか。
 3一玉、4四飛、4三銀、同飛成、7六銀、6八玉、5六桂、5八玉(参考図)となって…

参考図5
 これで下手が勝ちとなる。

投了図
まで112手で下手徳川家治の勝ち

 複雑な終盤を、家治将軍が制した一局。


 このように、伊藤家の五代宗印、寿三と、徳川家治将軍は、1775年から1800年までの間、よく将棋を指している。将軍の熱中ぶりがうかがわれる。
 そしてその一方で、この時期の別のグループの盛んな将棋研究の棋譜も残されている。

井出主税-大橋宗英 1777年
 大橋宗英のグループである。
 大橋宗英は大橋分家の当主(五代目)宗順の息子で、庶子だったが、将棋が強いというので呼び寄せられたようである。
 この宗英の指したおそらく稽古将棋であろう棋譜が、後に多く人の目に触れられるようになったのだが(宗英の死後に分家の門弟たちが手合集を出した)、その棋譜は1777年~1780年のものが多い。
 その中に、「相居飛車左美濃」の戦型の棋譜が多くある。かれら宗英のグループもまた、この形に強い興味をもっていたのである。
 この図は、先手番の井出主税が4五歩と仕掛けた図だが、「相左美濃」の戦型である。しかも先手井出の陣形がおもしろい新工夫である。角道を止めず「平美濃」のまま、さらに5七の銀を6八に引いて金銀四枚で固め、そして4五歩で決戦だ。
 大橋宗英はこの1777年、数えで22歳。まだ御城将棋には出勤していない。大橋分家にとっては、伊藤家というのは、「絶対に負けられない相手」であった。五代伊藤宗印や大橋本家の九代大橋宗桂と戦うために、この分家の若武者が爪を研いでいたのである。


 棋譜鑑賞2  徳川家治-五代伊藤宗印(右香落ち) 一七七九年


 これは1779年の棋譜。今度は下手の家治は7八金型である。これなら「左美濃」の選択肢はない。しかし8筋が堅くその安心感がある。


 上手はやはり「3三角型左美濃」で、2四歩から角交換へ。(もちろん2四歩からの角交換をしないという指し方もあるのだが)
 交換した後、やはり家治は2六飛と浮き飛車にし、3七桂と跳ねた。


 この将棋は角交換の後に、上手も「矢倉」に組んできた。(左美濃のまま3三桂と跳ねる指し方もよくみられた指し方)
 いま、6五歩、同歩、7三桂と、上手が攻めの姿勢を見せてきた。戦いだ。
 家治はここで8四角と打った。6三飛に、6六銀右、6五桂、6八銀、4八角、2七飛、3九角成、2五桂と進む。


 ここで4二銀と引けば、次に8三飛から角を捕獲される手があり、下手が困っていたところ。
 宗印はそう指さず、2四銀と指した。以下、6四歩、同銀、5一角成、3八馬、2六飛、8六歩、同歩、8五歩。8五同歩なら、8六歩のねらい。
 家治は5二馬とし、宗印7三飛。


 そこで6五銀と家治は桂馬を取った。危険だが、積極的な、この将軍らしい手である。
 6五同銀に、7七桂が将軍の狙いだが、上手から6六歩がある。金取りを放置して下手は6五桂。以下、7二飛、6三馬、6七歩成、同銀(次の図)


 下手が自らの陣形を崩しながら、攻めている。だいたいこういう攻めは無理気味で、上手がうまくやれば、勝ちになる将棋である。
 実はこの瞬間がポイントだった。飛車取りなので、7一飛というように逃げるのが普通であるし、実戦でも上手はそう指した。すると5三桂成が入り、次にまたこの対応を上手は考えるところとなる。
 つまりここで下手側は指したい手が2つある。7二馬と、5三桂成である。“両取り逃げるべからず”と同様の理屈で、これを上手が放置すれば、その両方を指すことはできないのであるから、ここは放置して攻めるのが最善手となるのである。攻めの手がない場合はしかたないが、ここではある。
 8六歩。これが正解手なのだ。以下、7二馬なら、6六歩(参考図)

参考図6
 8六歩で一歩を得て、6六歩と使う。6六同銀には、4八馬が、飛銀両取りだ。働きの鈍かった馬を使えれば、上手の攻めは切れることはない。


 実戦では、宗印は7一飛と逃げ、家治は5三桂成。以下、8六歩、4三成桂、同金、5二銀で、この図である。
 ソフトで調べても、ここは形勢がよく判らない。
 実戦は、宗印が4二金と指し、以下、4六桂、4五銀、6二馬、8一飛、4四馬となって、これは下手優勢になった。
 はじめ我々は、宗印の指した4二金がまずく4二金打と指すべきで…と考えていたが、4二金打としても、4三銀成、同金、5三金とからまれると、また次の手がわからない。おそらく宗印はこの変化よりも4二金のほうが良いと思ってそう指したのだ。しかし4六桂に対する4五銀では、上手に勝ちは出ないようだ。だから4六桂に、3一飛という受けは考えられるが、それも形勢不明である。
 図からの最善手順は、8七銀、7九玉、4二金、4六桂、3一飛、6二馬、4五金のような手かもしれない。
 つまりこの局面は、上手に「勝ち」があるかもしれないが、まったくないかもしれない、という不明の局面なのだった。
 数手前に、上手が“8六歩の決め手”を逃しただけで、これほどの混戦になるのである。


 さて、実戦の将棋は、6二馬~4四馬と進み、今、上手宗印が3三桂と受けたところ。
 下手優勢になっている。さて、3三桂に対する最善手はなんだろうか。
 答えは、4五馬である。これは同桂があるので考えから除外しそうだが、4五同桂なら、3四桂以下後手玉は3手詰である。
 ところが将軍は間違えた。3四桂と指し、同銀、同馬…(次の図)


 ここで2五桂(参考図)なら、また“逆転”していたのだ。

参考図7
 この図からは4三銀成などで、まだ勝負はこれからの将棋だが、しかし上手に分のある形勢のようだ。
 まったく…将棋は逆転のゲームである。勝ちきるのは、たいへんだ。


 実戦は、上手はその手(2五桂)を逃したので、下手の家治将軍の勝ちになった。
 前の図から、8七金、7九玉、7八金、同銀、8七歩成に、3三桂成、同金、同馬、同銀、3二金(図)。
 以下、3二同玉、4三銀、2二玉、3二金、1二玉、2三飛成、同玉、3三金、同玉、3四金、2二玉、2三銀まで、122手で徳川家治の勝ち。

 この将棋は、上手の五代伊藤宗印に“切れ”が足らなかった印象である。
 五代伊藤宗印ももうこの年には52歳になっていた。江戸時代の平均寿命は40歳くらいであり、伊藤家も“六代目”のことを考えておかねばならなかった。
 5年後に、松田印嘉という17歳の男子が、養子として伊藤家に入ることになる。これが後の六代伊藤宗看であり、ずっと後1825年に江戸期最後の名人(十世)となった。

 しかしこの五代宗印よりも4つ年下の徳川家治が先に没することになる。没年は1786年、享年50。
 五代宗印は1793年まで生きて、61歳で没している。


 相居飛車戦での「左美濃」は、以後、江戸時代が終わるまでずっと流行戦型だった。
 その一つとして、次の1817年の棋譜を紹介する。

 棋譜鑑賞3  大橋柳雪-深野孫兵衛 一八一七年

 大橋柳雪は江戸期の将棋指しとしては有名人である。
 ここでは「大橋柳雪」としているが、しかしまだこの時は中村英節という名前で、23歳だった。
 元は中村喜多次郎という名で、大橋分家の養子となり、英節となり、将来の大橋分家の当主(八代目)を期待されていた。二代目宗英をさらに襲名するのだが、その後に自ら申し出て大橋分家を廃嫡となり、下野する。
 名を柳雪と変えて、「大橋柳雪は強い」と評判になったのは、実はその後のことである。


 先手柳雪が「矢倉」、後手の深野孫兵衛が「左美濃」。
 今、先手から2四歩、同歩、同角。ふつうはこれで角交換だが、深野が2三歩と打ったのがこの図。
 ここで3三角成、同玉で、「手得」する意味の2三歩だが、先手の柳雪は6八角と角を引いた。こういうパターンもあるのである。


 それで、こうなった。この後手の陣形は「左美濃戦法」の理想形といえるだろう。
 ここから、7九玉、4二角、8八玉、7四歩と進む。後手の狙いは、7五か、6四角だろう。
 その機先を制して、先手から4六歩と仕掛けた。


 以下、6四角、3七銀、4六歩、同角、5五歩、6五歩、7三角、4八銀、4五歩、3七角、5二飛(次の図)


 6四歩、同角、4七銀、7三角、6六銀、5六歩、6四歩、同角、5六銀、8六歩、同歩、8七歩、同金、3七角成、同桂、8五歩、6四歩、同歩、6三角、8六歩、7七金、4六角、3八飛(次の図)


 ここで5六飛、同金、4七銀という攻めが見える。それは後手としても細い攻めなので、その前に後手深野は、6五歩、5七銀、6六歩、同銀として、6筋の歩を切って攻めに使えるようにした。
 実はこの図では、もう一つ、5六飛、同金、8七銀という攻めがあって、これも有力。当然これも先手柳雪は受けを考えていてこの局面に誘ったと思われるのだが、実際にどう受けるつもりだったかは不明である。その変化の研究も面白そうだが、ここではやめておこう。
 実戦の進行のその終盤がまた、超絶に面白いのだ。
 6五歩、5七銀、6六歩、同銀、5六飛、同金、4七銀(次の図)


 4七銀(図)に、4六金、3八銀成、4五桂、6八飛と進んだ(次の図)


 6八飛に代えて5八飛だと7八金とされ後手続かない。4八飛、7八金、4六飛成は、6四角が王手飛車だ。
 (深野は、5六飛と攻める前に、6筋の歩を切ったが、その手を指さないで6四に歩があるままにしておけば、この王手飛車はなかった。その変化なら4八飛~4六飛成で、ソフト「激指」は[-425 後手有利]となるのだが…)
 6八飛と打てば、7八金はない。(6六飛成があるから)
 だから柳雪は7八飛と受ける。そこで深野、6七歩(次の図)


 これが後手が飛車切りの前に6筋の歩を切った意味。これが深野のやりたかった攻めだろう。
 柳雪はどう受けたか。
 なんと、6八飛成、同歩成。あっさりと交換し、8二飛と打った。これ、自玉は受かるのか!?


 以下、5八飛、5九歩(図)と進む。
 後手の5八飛で、代えて4八飛だと4一角成、同玉、1五角で先手勝ち。
 だから5八飛だが、5九歩が、おそらくは柳雪の“用意の受け”。
 これを同となら、7八金で、以下6九と、7七玉は、先手優勢。
 したがって、5九歩は、同飛成。
 そこで柳雪の指し手は8六飛成。


 これが柳雪の将棋だ。(実はこの8六飛成では、4一角成、同玉、2二金で先手に勝ちがあるようだが、柳雪はこの“受け”を軸にこの終盤を組み立てているのだろう)
 柳雪の将棋によって、「受けの妙技とはこういうものだ」と、江戸の人々は、将棋は攻めだけでなく、“受け”もおもしろいのだと知った。

 ここで後手の深野孫兵衛は4二歩と受けた。(この手に代えて7九竜の変化を後で検討する)
 以下、8一竜。


 4二歩が“敗着”になったようだ。
 8六歩としても、今度は同金と取られる。7九竜は、8七玉、8九竜、8八歩で、やはり先手良し。
 想像だが、ここで後手深野は相当長考したのではないか。そして考えたあげく、指した手は1四歩。
 以下、2四桂、同歩、2三歩(次の図)


 後手深野孫兵衛、投了。 先手中村英節(大橋柳雪)の勝ち。
 凄みのある勝ち方である。

参考図8
 先手8六飛成の時に、(4二歩に代えて)後手7九竜(図)の変化が気になるので、これを検討する。この変化がきわどいのだ。
 我々終盤探検隊が検討し、その結果、7九竜に対しては柳雪がこう指したであろうと予想した手順は次の手順である。

 7九竜には、9八玉と逃げる。そして、7八とに、2四歩である。

参考図9
 ここで8八歩なら、2三歩成、8九歩成、4一角成、同銀、2二金、4二玉、8二竜以下、後手玉詰み。
 2四歩は2三歩でだめ。
 よって、後手はここで5二歩と受ける。
 以下、8一竜、8五歩、同竜、2四歩、7四角成(次の図)

参考図10
 こういう手順が柳雪の読み筋だったのではないだろうかと、予想する。
 7四角成で、後手がここで8八歩のような手で来たときに、上部へ逃げやすくしている。また、このままなら5六馬で受けきる手がある。
 ここで後手の有効手が見当たらない。ここから、7七と、同銀、7八金、2三歩、同銀、1五桂は先手良しである。

 柳雪が現れて、“受け”の技術が進化したと言われている。


【その後の左美濃戦法】

 相居飛車の「左美濃」の戦型は、おそらくは明治時代も実際にはよく指されていたのではと思われるのだが、明治時代は残された棋譜の全体数自体が少なく、とくに「平手」の棋譜が希少なので、この型の将棋の棋譜も数えるほどしか残っていない。
 大正時代以後になると、「相掛かり」の時代になるので、この「左美濃戦法」は影がうすい。しかし消えたわけではなく、「7八銀」からの矢倉模様の指し方は、戦前まではあった。

土居市太郎-木村義雄 1940年 名人戦1
 たとえば「土居市太郎vs木村義雄」の第2期名人戦の第1局はこんな序盤。


 そうして、こんな図に。 「左美濃のダイアモンド」である。


 戦後、相居飛車戦では「7八銀」という手が指されなくなっているので、「左美濃」の出現は少ないが、それでも、時々「左美濃」は今でも出現するのである。
 最近の「左美濃」が出現した対局は次の通り。いずれも後手番の対局者が「左美濃」を使っている。

  10月13日   堀口一史座 - ○千田翔太  順位戦C1組
  10月22日   畠山 鎮 - ○三浦弘行  順位戦B1組
  10月27日   森内俊之 - ○阿部光瑠  叡王戦 
  12月21日  ○佐藤天彦 -  佐藤康光  棋王戦挑戦者決定戦第1局


[追記]
 再調査により、発見。
大橋宗銀-伊藤印達(右香落ち) 1710年
 数えで17歳の大橋家六代目(養子)の宗銀と、伊藤家二代目の宗印(鶴田幻庵)の13歳の長男印達との「五十七番勝負」の第52局目が、「矢倉vs左美濃」の将棋だった。
 図のように、上手の伊藤印達が“高美濃”の「左美濃」の陣形。
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終盤探検隊 part73 第十代徳川将軍家治

2015年12月23日 | しょうぎ
 これは「総矢倉四手角」と呼ばれる型で、昭和の時代、この型は「千日手になる」ということで回避されてきた戦型。将棋の戦法としては有力で、しかし有力だからこそ、先手も後手も同じ型で対抗することになり、その結果、千日手指し直しでは、どうにもならない。
 この図面は1776年の「徳川家治-五代伊藤宗印(右香落ち)戦」。


    [月の光と世の乱れ]
 老僧の目にはじめて表情らしい光が動いた。
「なる程。一揆の火を鬼道衆が煽り立てるか。いかにも鬼道好みの所業だな」
「我らが黄金城を求めて動くのは、世がそれを求めはじめたため……鬼道は本来黄金など欲しませぬ。求めるのは、月の光と世の乱れのみ」
「世を乱してもらいたい。それで呼んだ」
 老僧はそういって力のない咳をした。 
                        (『妖星伝』(一)鬼道の巻より)


 今回鑑賞する棋譜は次の3つ。
  〔1〕大橋宗順-九代大橋宗桂  1774年 御城将棋
  〔2〕徳川家治-五代伊藤宗印(右香落ち) 1775年
  〔3〕徳川家治-五代伊藤宗印(右香落ち) 1776年

 いずれも「相矢倉」の将棋である。
 
 これらの棋譜を鑑賞する前に、そのための予備知識として、「相矢倉の誕生の前後」について解説をしておきたい。


【 解説 相矢倉の誕生の前後 】

小原大介-奥田佐平次 1626年
 残された将棋の棋譜で、歴史上最初の「相矢倉」はこの棋譜かもしれない。390年ほど前の棋譜。
 しかしこれはさっそく角交換になり、戦法の性質としては、「角換わり」か「相掛かり」に近い感じ。8六での角交換の後、先手は8八銀~7七銀として、以下8八玉として「矢倉」に組む。後手も同じ。だから「相矢倉」には違いない。

伊藤看寿-八代大橋宗桂 1744年
 上の棋譜から120年後の対局の棋譜。御城将棋で、五世名人の二代宗印(鶴田幻庵)の三男(八代宗桂)と五男(看寿)の対局。(三男宗寿は数え10歳の時に大橋家に養子に迎えられ、大橋本家八代目当主宗桂となった)
 この将棋が史上最初の「角換わり」の棋譜でもあるのだが、これも「相矢倉」になった。
 それまでも、強引に2二角成(8八角成)と交換する角交換将棋はすでによくあったし、上のような引き角からの角交換もあったわけだが、先手が7七角として後手が角を換えてくる、つまり先後お互いが手損をしないようなやりかたの“洗練された手順”での「角換わり」は、この対局が最初になる。
 この図から、6六銀右に、後手の宗桂が4六歩、同歩、4七角と仕掛けて戦いが始まった。勝利したのも八代宗桂。

 七世名人三代伊藤宗看(看寿の兄で二男)が1761年に没し、八代大橋宗桂の息子九代宗桂が次の八世名人に襲位する1789年までの「名人位空位の28年間」を、我々は「家治時代」として、この時代を将棋の戦法の“近代化”のはじまった時代として見ている。
 その時代の始まる1761年(徳川家治は1760年に十代将軍になった)までの江戸時代の棋譜で「相矢倉」と見られる棋譜は上の2つしかない。少なくとも我々(終盤探検隊)が調査した限りにおいては。
 
八代大橋宗桂-三代伊藤宗看(右香落ち) 1757年
 江戸時代の前半期は「振り飛車」が八割以上の世界だったので、「相居飛車」の将棋の棋譜がそもそも少ないということもあるのだが、「相居飛車」の主流は「雁木囲い」で、したがって「矢倉囲い」は初めから存在はしていたけれど、「雁木vs矢倉」のような戦型で現れていた。
 1757年のこの将棋もそういう「雁木vs矢倉」の組み合わせの将棋で、この時まで、「矢倉vs矢倉」の組み合わせの対決は、上記の2局しか棋譜としては残っていないのだ。この「八代大橋宗桂-三代伊藤宗看戦」も御城将棋の対局で、これまた「兄弟対決」である。

 「右香落ち」の将棋で、上手の名人(三代宗看)が「矢倉」である。
 図は、いまその上手の宗看が4四銀右としたところ。
 なぜ「雁木」にくらべて「矢倉」が少なかったかと理由を考えると、おそらく“矢倉は角が使いにくい”からだろう。この図でいえば、3三銀と銀を上がると、2二では角は使えないので3一角と引き角にする。しかしそうすると“5三銀”という右銀の位置取りと引き角の利きがダブってしまう。そんな具合で、「雁木」にくらべて、けっこう駒組みがめんどくさいのである。
 それでその5三銀を今上手が4四銀右としたのである。これなら「引き角」の利きの通りは良いし、銀もしっかり前線で働く。
 これが七世名人宗看の工夫であった。宗看はこの後さらに工夫を見せる。7五歩と突き、同歩、同角、7六歩、8四角。角を8四に運んだのである。これが画期的な新構想であった。


 その後はこういう戦形になった。
 下手(八代宗桂)の角の位置は「三手角」と呼ばれる角で、これはすでに前例がいくつかあった。(初登場は1709年「伊藤印達-大橋宗銀戦」で、宗銀が雁木で三手角をやった) しかし前例の三手角はすべて3七角(後手なら7三角)で、まだこの角を2六で活用した例は生まれてなかった。〔後日注; 三手角は1637年「初代伊藤宗看-松本紹尊戦」ですでに現れ、松本が指している〕
 上手の3大宗看が初めてそれ(8四角)をやったのである。(引き角での「矢倉」の場合、この角の実現には通常は4手かかるので「四手角」と呼ばれる) 8四に角を置き、6二飛と右四間にして、6四歩。これが三代宗看の開発した新構想であった。この後、6五歩、同歩、7三桂と攻めていくのだ。
 ただしこの将棋は八代宗桂が勝っている。この時、八代大橋宗桂は七段。弟伊藤看寿は八段で次期名人にほぼ内定していたが、この対局では兄宗桂が意地と力を見せ兄でもある名人宗看を寄り切った。

 この2年後、看寿が突然に死に、さらにその2年後に名人の宗看も…
 「宗看・看寿の時代」が突然に終わったのである。

大橋宗順-九代大橋宗桂(右香落ち) 1768年
 伊藤家は五代目当主に鳥飼忠七を養子に入れ、「宗印」とした。伊藤家のライバル大橋分家の当主も新しく代わって大橋宗順という名である。宗順も養子で、それまで「初代宗桂の血」を受け継いできた大橋分家だったが、その意味でも新時代に突入したのであった。
 これは、その大橋宗順と大橋本家から出た久々の天才児印寿(後の名人九代大橋宗桂)が対戦した1968年の御城将棋。
 上手の九代大橋宗桂が新戦術を見せた。「左美濃」である。(1709年に三代大橋宗与が、そして1736年に伊藤看寿がそれぞれ一度づつ左美濃を使ったことがあるが、流行はしなかった。またこの時はいずれも高美濃ではなかった)
 江戸時代の相居飛車戦での「左美濃」は単に矢倉の一変種というものではない。この「左美濃戦法」は、角を3三角のままで戦うというのが基本戦術なのだ。ここから角を4二に引いて矢倉に変化することもできるがそれはあくまでオプション機能なのだ。
 図は上手が5五歩と開戦したところ。同歩に、4五歩とする意味。これは「雁木」でよく見られる仕掛け。
 だからこの「左美濃」は「雁木」と同じような性質を持ち、そして「雁木」よりも堅い囲いなのである。
 だが、これによって、囲いは「雁木」から「矢倉」へと一歩近づいたのであった。
 この「矢倉vs左美濃」の戦型は、この後、江戸期の相居飛車の将棋で、最も人気の戦型になっていく。その始まりがこの対局であった。(結果は九代大橋宗桂勝ち)

大橋宗順-九代大橋宗桂 1774年
 そして、1774年の御城将棋で、ついに “それ” が出現したのであった。
 「相矢倉」――「矢倉vs矢倉」の戦いである。この将棋が“本格的相矢倉第1号”ということになるかと思う。
 この図は、いま、先手の宗順が6五歩と突き、その手に反発して後手宗桂が6四歩と指したところ。
 6五歩と宗順が指した意味は、次に6六銀右と指して、5七での角と銀の渋滞状況(これが矢倉引き角特有の現象)を解消しようというのである。上の宗看が見せた4四銀は“歩越し”の銀だったが、それをさらに工夫した構想で、6六銀右から4六角とすれば、「矢倉」の理想形の一つの形である。
 その意味を理解し、それを許さないということで、後手は6四歩とすぐに反応したのだ。
 この将棋は、後で棋譜鑑賞をする。(歴史的相矢倉1号局なので)


 なお、江戸時代を通じて、このような「矢倉」またはそれに準ずる相居飛車系の将棋では、「引き角」は少数派で、先手なら7七角、後手なら3三角、という型が大勢を占める。矢倉にする場合もそこから「矢倉」へと組み替えていくのである。
 そこで、我々は、「江戸時代の相引き角矢倉はどれくらいあったのだろうか」と興味を持ち、それを調べてみた。

八代伊藤宗印-十一代大橋宗桂(右香落ち) 1843年 
 するとわずかに1局だけ見つかった。1843年の「右香落ち」のこの将棋で、この先手番の八代伊藤宗印の当時の名前は上野房次郎である。関根金次郎十三世名人の師匠にあたる。
 さがせば他にもまだ見つかるかもしれないが、それくらい「相引き角」の矢倉は江戸時代には少ないということである。

 先手7七角(後手3三角)が江戸時代の相居飛車戦では主流なので、飛車先からの角交換になる場合も半分あり、また上で述べたように「左美濃」のままで戦う場合も多かったので、したがって現代に私たちがイメージするような「本格的相矢倉」になったケースは少数である。
 つまり江戸時代は、今私たちが「無理矢理矢倉」とか「ウソ矢倉」と呼んでいるその組み立てが主流だったのである。
 組むのがめんどくさくて角の使い方が難しいこと、わざわざ角道を銀で止めて引き角をするのが本筋ではなさそうに見えること、組んでいる途中で戦いが始まることも多いこと――そういった理由で矢倉は少数派だったが、やがて「雁木」や「左美濃」よりも、勝ちやすいのではないか、ということに気づいていったのか、江戸時代も終わりごろになると、「相矢倉」も増えていくのである。
 本格的に「相矢倉」が指されるようになったのは、1947年の木村義雄vs塚田正夫の名人戦七番勝負以後のことである。

 
〔1〕大橋宗順-九代大橋宗桂  一七七四年 御城将棋

 上の解説でもふれた「本格的相矢倉1号局」を次に鑑賞したい。

 大橋宗順は前名を中村宗順といい、大橋分家四代目の宗与が1964年に56歳で死去したのを受けて、養子に入って五代目を継いだ。翌年の御城将棋に初出勤し、角落ち下手での三間飛車の「銀冠美濃」を披露した。史上初の「銀冠美濃」の出現であった。
 九代大橋宗桂はこの年に父八代宗桂が亡くなったので、大橋本家の「九代目」になった。10歳の時から御城将棋に出仕して光る才能を発揮してきている。
 宗順42歳、九代宗桂31歳。


 その将棋は、まずこのような序盤であった。ここで後手九代大橋宗桂は4二角。次に3三銀として、「相矢倉」に。史上初の「相矢倉」戦である。
 先手の陣形を見ると、これは確かに矢倉は角を使うのがたいへんだ。


 これが上の解説でも示した図。宗順は6五歩とし、6六銀右型の陣形をつくろうとしたが、そうはさせないと、6四歩から後手宗桂が反発。以下、同歩、同角、4六歩、4二角、6六銀、7四歩、5七角、6二飛、4八角、6五歩、5七銀…
 本格的な戦いにはまだならず、また駒組みへ。
 そして次の図。


 先手も後手も(同型ではないが)「総矢倉四手角」である。双方がつくったこの金銀四枚の囲いは「総矢倉」と呼ばれている。
 「矢倉四手角」の作戦は1957年に三代宗看が編み出した戦法であることは上ですでに紹介した。それがここで「総矢倉四手角」に進化したのである。
 いま、先手宗順が4五歩と仕掛けた。これを同歩だと先手の攻めが決まるが、取らないでおくとお互いに次に指す手が難しい。それがこの型の特徴である。
 実戦の進行は、4五歩に、6二角、4八飛、6四銀、2四歩、同歩、4四歩、同銀、4五歩、5三銀、2八飛、1四歩、1六歩、8三飛…
 複雑な手順が続く。単純には攻められないのだ。
 先手は2九飛として、後手の9四歩に、そこで1五歩、同歩、1四歩と端を攻めた。
 後手の九代宗桂は4七歩。


 ここで宗順は1五角と出た。以下、1四香、2四角、2三歩、4六角、1八歩、1五歩、同香、2五飛(次の図)


 以下、1九歩成、1五飛。面白い順を経て、1筋の香車の交換になった。
 これは先手が良いだろう。
 その後は、1三歩、2五桂、3五歩、1三桂成、同桂、1四歩、1二歩、1三歩成、同歩、3五歩。
 苦しい後手は、なんとか局面を複雑にしたいところ。6六香と攻め合うのは、3四歩とされるともう1三の地点がもたない。
 後手宗桂は1四香と打ち、2五飛に、3三桂、2七飛、4五桂。
 さらに、3四歩、3五歩、3八香と進んだ(次の図)


 これは後手、適当な受けがない。
 8六歩、同歩、5七桂成、同金、8七歩、9八玉、4五銀と指した。
 そこで先手は3五香。おそらく宗順は、ここで勝ちを確信したことだろう。


 進んで、この図のようになった。
 後手は、働いていなかった6二の角をついに働かせ、馬となって敵陣に迫っている。
 しかし宗順は落ち着いて対処した。ここはもう形勢は大差で先手が良い。
 宗順は4六金と指し、5七馬に、3六金。
 宗桂は6八馬と飛車を取り、同銀に、6六香。以下、3四歩、6八香成、3三歩成、同飛、4四角(次の図)

投了図
 九代宗桂が投了。先手大橋宗順の勝ち。
 投了図は後手玉が“必至”。仮に4三銀と(3四桂以下の詰みを)受けても、3三角成、同玉、4五桂以下詰む。

 この将棋は、「総矢倉四手角」の陣形が現れた、という点にまず注目しておきたい。「本格的相矢倉1号局」はそういう戦型だった。


 この当時おそらく実力最強者であった九代大橋宗桂に「相矢倉」という史上初の、未知の将棋の戦いになり、その勝負を大橋分家五代目当主の宗順が制した。このように宗順は強い。にもかかわらず昇段も遅いし、後世の評価もなぜか高くない。
 宗順の息子(庶子だったらしい)は後に九世名人となるが、その大橋宗英はこの時19歳で、御城将棋への登場は4年後である。


 この将棋、後手の九代宗桂は決定的な敗着となるような手を指していないのに、いつのまにか大差で先手有利に展開していた印象だ。いったい宗桂の指し手の何が問題だったのか。

参考図2
 我々終盤探検隊が行き着いたのは、後手宗桂が6二角と引いて角を受けに使った手である。結局、6二角はあまり受けには働いていなかった。(働かないように先手宗順がうまく指したということだろう。端を攻めた判断がよかった)
 だから図のように、6二角とした手に代えて、7三桂が良かったのではないか。


〔2〕徳川家治-五代伊藤宗印(右香落ち) 一七七五年

 この将棋が、上で紹介した「本格相矢倉1号局」の翌年の将棋だということに留意して本棋譜を味わってほしい。つまり「相矢倉」はまだ生まれたばかりであり、「残された棋譜」としては、これが2号局になる。

△8四歩 ▲7六歩 △8五歩 ▲7七角 △3四歩 ▲8八銀 △6二銀 ▲2六歩


△4四歩 ▲2五歩 △3三角 ▲4八銀 △3二銀 ▲5六歩 △5四歩
▲5八金右 △5二金右 ▲3六歩 △4三金

 こういうオープニングで始まった。これは現代なら「角換わり」になる流れ。しかし上手の五代宗印は4四歩と角道を止めた。
 上で解説してきたように、先手は7七角、後手は3三角である。この形からこの将棋は「相矢倉」になった。


▲7八金 △4二角 ▲6八角

 五代宗印は「左美濃」。 そして4二角。
 (「左美濃」は1768年に九代宗桂が披露した新戦術である)
 下手の徳川家治は6八角。


△3三銀 ▲7七銀 △3二金 ▲6六歩 △4一玉 ▲6九玉 △3一玉
▲6七金右 △2二玉 ▲7九玉 

 選択肢としては、ここで上手から8六歩という手もあった。しかし宗印はそれを見送り、3三銀。これで「矢倉」になった。
 下手家治もそれに追随する。7七銀。「相矢倉」だ。

 このように、先手7七角型や後手3三角型は、いつでも「飛車先からの角交換」になる可能性があり、(江戸時代の)実戦の半分はそう進む。そういうわけで「本格的矢倉」(角交換をしない相矢倉を仮にそう呼ぶことにする)にはならないケースが、実戦はかなりある。先手後手(下手上手)の双方の「角交換はやめましょう」という合意があってはじめて「本格的相矢倉」が成立するのだ。

7九玉
△1四歩 ▲1六歩 △7四歩 ▲8八玉 △5三銀

 想像だが、この対局は、将軍徳川家治の「双方が本格的に矢倉を組み上げたらどうなるのか」という好奇心がまずあって、それを知っていた五代伊藤宗印がそれに合わせたということではないかと思う。そうでなければ、そう簡単には「きれいな同型相矢倉」にはならない。
 実戦の勝負というのは、相手に勝つことをめざすのであるから、勝負の色が濃くなればなるほど、相手の思惑(研究、得意形)をはずそうとする。その結果、妙な形になったり、囲いの途中で思わぬところから戦いになるということが多いのである。

 その意味でも、この二人の将棋は、あまりにきれいで、「研究将棋」のような香りがする。
 その研究心が、つまりは「近代化」を進めているのかもしれない。
 この将軍が指してきた将棋の型は、突出して“近代的”である。未来の将棋を先取りしている。
 

▲3七桂 △6四歩

 前年に誕生したばかりとは思えないほどの“きれいな相矢倉”である。
 上手は5三銀とした。この銀には、現代の視点で言えば、三つの狙いがあって、一つ目は6四銀と攻めに使う、二つ目は4五歩として次に4四銀右とする、そして三つ目が本譜の順だ。


▲5七銀 △5一角 ▲4六歩 △9四歩 ▲9六歩 △8四角
 上手宗印が5三銀右とした意図は、5一角から8四角と、いわゆる「四手角」の構想であった。
 この「四手角」は、上で述べた通り、1757年に三代伊藤宗看が初めてやった形。(その時は7五歩からの歩交換というルートからの“三手角”だったが)
 そしてもちろん、この二人は前年の御城将棋「大橋宗順-九代大橋宗桂戦」を意識している。
 矢倉3三角型からは、実は理屈上は「三手」で8四まで角を運べるのだが、この場合4二でいったん止まっているので「四手」になっている。(またこれが「引き角」なら、理屈上も最短で「四手」かかる)


▲4八飛 △7三桂 ▲4五歩 △6五歩 ▲4九飛
 
 この形、4八飛と右四間に構えるのがよいか、2筋に飛車を置いて2四歩からの攻めを狙うのがよいのか、むつかしい選択だ。
 家治将軍は4八飛と回り、4五歩と仕掛けた。
 上手五代宗印も6五歩。戦いが始まった。

4九飛
△6四銀 ▲4六銀 △4五歩 ▲同桂 △4二銀 ▲4四歩 △同金
▲3五歩 △6六歩 ▲同銀 △6五銀

 本来なら、下手は上手に「右香」がないことをねらいにするような指し方をすべきところである。それをしないで、まるで「平手」戦のように戦っているのは、家治祖軍の好奇心が「相矢倉でがっぷり組み合ったらどういう戦いになるのだろうか」というところに純粋に向かっているからであろう。

 ここで上手の五代宗印は6四銀としたが、もし下手も(上手と同様に)2六角という形だったらこの手はなかったところだが、この場合は成立しているようだ。
 そうして考えると、下手の6八角が攻めにも受けにも働いておらず、すでに上手が「駒組み勝ち」なのかもしれない。
 だから上手の6四銀は、さすが伊藤家五代目、というような機敏な一着である。

 局面はいきなり激しくなってきた。家治将軍も4六銀と出たからである。
 4六銀は危険な手だが、攻めの棋風の将軍らしい手といえる。この将軍の棋風は、直線的に攻め合う棋風なので短手数の将棋が多い。それに6八角を働かせるためには、危険でも4六銀のような手で勝負するしかないのかもしれない。
 代えて4四歩、同銀、2四歩というのもあったようだが、ここはすでに下手苦しめの局面だ。
 4五桂に上手は4二銀としたが、やや疑問手。
 4四歩、同金、3五歩は、これまたこの将軍らしい、きびきびした手。


▲7七銀 △6六歩 ▲5七金 △7五歩 ▲6六銀

 6五銀(図)を同銀なら、6六歩で、後手の、矢倉の教科書に書いてあるような攻めが決まり、後手優勢になる。では、どう受けるのか。
 本来ならもう下手に適当な受けがないところだが、この場合は7七角という手が好手になっていた。7七角が間接的に敵玉を睨みつつ浮いている4四金の当たりになっていて、その攻め味を含んでいるため、この手が有効となる。今のところ、この角は6八のままでは働いていないのだ。
 7七角以下、6六銀、同金に、6二飛なら、7五金(参考図)

参考図
 これは下手優勢である。(6六同金に、6二飛ではなく4三歩なら形勢互角)
 上手の4四金が浮いているからで、だから前に戻って、下手の4五桂に4二銀と引くのではなく、4四銀が正しい応手だったということになる。 

 実戦は、7七銀と引いた。以下、6六歩、5七金と進み、そこで五代宗印は7五歩としたが、この手は疑問手。(6二飛として、下手3四歩なら、そこで7五歩という手順が正着になる。それで上手が良かった)


△7六歩 ▲7五歩 △6七歩 ▲同金寄 △6二飛 ▲6五銀 △同桂 ▲5三銀

 上手の7五歩に、家治将軍の6六銀が好手。以下7六歩に、7五歩。
 潰されそうだった下手陣がこらえて、形勢不明に。

5三銀
△5三同銀 ▲同桂成 △7七銀

 5三銀とこれを指したくて将軍6五の銀を取ったのだろうが、この手5三銀が“指しすぎ”の悪い手で、ここからはっきり上手優勢に傾く。
 この手では代えて6六歩とすべきところで、これならまだ互角に戦えていた。

 宗印は5三銀を同銀と取って、同桂成に、7七銀(次の図)


▲7七同桂 △同桂成 ▲同角 △同歩成 ▲同金寄 △7六歩 ▲6二成桂 △7七歩成
▲同金 △7六歩 ▲同金 △6七角

 いかにも「相矢倉戦」らしい戦いである。
 ここでの手順中、上手の7七同桂成に「同金」は、同歩成、同角のとき、7六桂と打たれて、9八玉に、6六銀で、先手悪い。
 それで将軍は同角と取ったが、それも本譜の攻めで、やはり上手が優勢である。


▲2四桂 △7八金 ▲9八玉 △2四歩 ▲同歩 △4九角成 ▲2三銀 △同金
▲同歩成 △同玉 ▲2四歩 △同玉 ▲2五歩 △3三玉 ▲5三飛

 上手の攻めが筋に入っている。
 将軍は2四桂から攻めたが―-


△4三歩 ▲2四銀 △3二玉 ▲5一飛成 △8八飛 ▲9七玉 △7五角

 五代宗印は8八飛~7五角(次の図)


▲8六金打 △8七飛成 ▲同玉 △8六歩 ▲7八玉 △6七銀 ▲8九玉 △7八金
▲9八玉 △8七歩成 ▲同玉 △7六銀不成 ▲7八玉 △6七馬

 以下、これを寄せるのは難しくない。


まで125手で上手の勝ち

 良くも悪くも、家治将軍は攻め将棋である。この将棋は、それが裏目に出て、5三銀と攻めて行った手が、“敗着”となった。
 しかし、5三銀のその一手以外は、好手が多かったと思う。

 ただし、序盤の駒組みで、もう差がついていたようである。6四銀と上手が指したところは後手有利。下手の6八角が使いづらく、対照的に上手の「四手角」の8四角はしっかり利いている。
 それなら、下手側も「四手角」にしてみたら―――それが次の対局である。


 〔3〕徳川家治-五代伊藤宗印(右香落ち) 一七七六年

徳川家治-五代伊藤宗印(右香落ち) 1775年
 上の〔1〕の将棋とは、上手(五代宗印)の組み方が違う。〔1〕は3二銀型から「左美濃」だったが、今回は3二金型である。これなら「左美濃」にはならない。


 そしてやっぱり「相矢倉」へ。(こういうつもりなら「左美濃」だろうが「3二金型」だろうが同じことだ)


 今度は「同型」に進む。(といってもスタートが「右香落ち」なのでまったくの「同型」にはなりようがないが)
 上手も5一角から8四角。下手も5九角から2六角をめざす。


 下手も上手も「総矢倉四手角」。さあ、仕掛けはあるのか。
 これは駒落ち(右香落ち)なので、上手が先攻するケースになる。6五歩。
 下手も4五歩。問題はこの後どう指すかだ。
 五代宗印は6六歩、同銀、6二飛と指した。
 そこで先手の手番だが、やはりどう指すか難しい(つまり決定的な正解手はないのだ)
 家治は4五桂と指した。宗印は3五歩と応じた。


 この3五歩がほぼ敗着の一手となった。
 この手では、ふつうに4二銀としておけば、何も問題はなく、依然として「何を指せばよいか難しい将棋」がなおも続いたところだった。
 4二銀だと、2四歩、同歩、4四角、同金、5三銀のような下手からの攻めがあり(家治将軍の好きそうな手だ)があり、それを嫌ったのかもしれない。しかしそれは、5三同銀、同桂成、8二飛(参考図)となって――

参考図
 上手が互角以上に戦えそうだ。この図では次に上手からは6四角や、6五歩、5七銀、3九角のような攻めがあるので、下手が忙しい。よって図からは、4五歩、同金、2四飛、2三銀(2三歩は3四飛が気になる変化)、2五飛、3三桂、2九飛、4七角、2八飛、2七歩、4八飛、3六角成のような展開が予想されるが、上手が良さそう。

 実戦の上手3五歩に、3三桂成、同金寄、3五歩と進んでみると、下手が優位に立っていた。桂馬がさばけてもう攻めに悩むことはない。
 宗印も反撃する。6五桂。
 家治はこれを放置して、4五歩。これを同銀なら、3四歩が飛車取りにもなっている。
 なので上手宗印も7七桂成、同金上に、6五歩、5七銀、6六銀と攻め合う。


 以下、4四歩に、5七銀成。
 5七銀成で上手は負けを早めた。上手は6二の飛車を間接的に角に狙われているので、それをさばく意味で、6七銀成とする方がよい。同金に、6六歩、同銀、同飛、同角で勝負だ。
 (こういうところ、五打宗印が自分が負けるように指している気がしないでもない)
 実戦の進行は、図より、4四歩、5七銀成、3四歩、6七成銀、3三歩成、同金、4三歩成(飛車取りにもなっている)、7七成銀、同桂、8六桂(次の図)


 徳川家治の将棋の棋譜は、こういう直線的な将棋が多い。お互いがあっというまに裸に近い玉になった。
 図の8六桂を同歩と取って、同歩に、そこで後手玉に“詰み”はないかとおそらく将軍はそれを考えた。
 ――そして答えをみつけた。(詰ます手順は何通りかあるようだ)

 3一銀と打つ。これを同玉なら、4二銀、同飛、同と、同玉、3四桂から詰む。
 よって3一銀に宗印は1二玉と逃げた。


 そこで家治、2四桂。(この2四桂は必要なかったかもしれない…詰み筋を複雑にした)
 2四同歩に、1三銀、同玉、2二銀打、1二玉、1一銀成、1三玉、2二金(次の図)


 将軍は詰将棋が得意でこういう勝ちは逃した棋譜がなさそうだが、これも読み切って指していたのだろうか。本譜は五代宗印は図の1二金に同飛と応じたが、そうでなく、図で2三玉なら、そこからその玉を詰めるのは相当大変。長手数になるし、合駒なども考えなければならない。3三と、同桂、2二金、3四玉、3五金、4三玉、4四金、5二玉、5三金…以下、最後には7七桂も有効にはたらかせるような30手以上の手数の詰め手順になるようだ。(詰まさなければ下手負け)

 実戦の手順は、図から、1二同飛、同成銀、同玉、2二銀成、同玉、3三と、同玉、3四香(次の図)


 3四同玉に、4四飛、3三玉、3八飛、2二玉、4二飛成――で、五代宗印が投了。徳川家治の勝ち。
 それにしてもこの将軍はミスの少ないしっかりした将棋である。本局はノーミスで勝ちきった。


 これらの棋譜を調べてわかったことは、「総矢倉四手角」の攻めは強い、ということである。なのでその強力な攻めに対抗するために、相手も同じく「総矢倉四手角」にするのが有力な手段となる。
 そういうわけで、「相総矢倉四手角」になるケースが出てくる。
 しかしそうなった場合、仕掛けはあるのか。 ――それが問題なのである。


【相総矢倉四手角は26年周期で現れる】

 ここからは昭和・平成時代の「相総矢倉四手角」についてのレポートになる。

 「相総矢倉四手角」の将棋は、26年周期で3度、プロの重要な対局の将棋に登場している。
 昭和時代の矢倉の解説書に、この戦型の解説がよくされていて、「千日手になりやすい」と結論されていた。それが結論なので、プロの将棋にはほとんど現れることなく(この型にならないように指している)、いまでは解説書に載ることもなくなっている。

 今までにプロ将棋で現れたこの「相総矢倉四手角」の型の将棋を見てみよう。

大山康晴-升田幸三 1950年 名人2
 木村義雄が名人に復位した翌年の1950年に名人戦挑戦者決定三番勝負第2局でそれが現れた。「大山康晴-升田幸三戦」。(第1局は相入玉の熱戦を大山が制して1勝)

 上で鑑賞した「徳川家治-五代伊藤宗印戦」の場合と、組み方が違う。行き着く先は同じなのだが、図のように後手の6四角に、先手4六角からこの戦型はつくられていく。
 ここで4六角とすると「相総矢倉四手角」の将棋になって、それは「千日手」になるので、だから4六角とせず、3七銀とか3七桂とするのだと、昭和の1970年代の棋書には書かれている。「総矢倉四手角戦法」は有力なのだが、それを先手側が指すことがほとんどないのは、そうした事情がある。
 ここから、7三角、3七角、5三銀、5七銀、6四歩、4六歩というように駒組みを進めていく。


 そうして、「相総矢倉四手角」になった。
 先手大山の陣形が気になるところだが、これは6八金が5七を補強している。
 ここから先手も後手も「仕掛け」を模索しつつ、様子見の手順が続く。つまり、よい仕掛けがはっきり見つからないのである。
 ここから、8八玉、9三角、7八金、6三飛、4七飛、8四角、4九飛、9三角(次の図)


 ここで先手の大山康晴が、攻めを決断した。4四歩、同銀左(これを左で取るのが定跡手)、2四歩、同歩、2五歩(次の図)


 ここで後手の升田幸三は3五歩と受けた。これで受け潰せるということだったと思われるが、後の定跡書では、ここは2五同歩と取って、先手の攻めが続かないとなっていたと思う。
 2五同歩、同桂に、4五歩としておけば、次に2四歩から後手は桂得となる。この桂馬の攻めが空を切るように、4四歩は“同銀左”と取るわけである。
 大山は2五同歩、同桂、4五歩に、4六歩、同歩、同銀と攻めるつもりだったのかもしれないが、これは後手に分がある将棋。
 ただ、この場合は、2五同歩には、9六歩という手がある(参考図)

参考図
 これは升田幸三が思いつきそうな手で、あるいは升田はこれが見えて、変化したのか。
 この場合の9六歩は確かに有力手で、しかし、これで後手がわるいわけではない。

 実戦では升田が3五歩と指し、以下、同歩、4八歩、同飛、6六歩、同銀左、6五歩、7七銀、3六歩、4五桂、4二銀、6四歩、同飛、3四歩、5五歩、3三歩成、同桂、同桂成、同銀上、4五歩、5三銀、3五桂と進んだ(次の図)


 攻めの大山、受けの升田という構図になっている。
 図以下、4二金引、4四歩、同銀左、2四歩、3七歩成に、4四飛と、大山は飛車を切った。
 4四同銀、4三歩、5二金、4一銀。
 そこで升田は、3三玉。入玉をめざす。
 以下、5二銀不成、2四玉、4二歩成で次の図。


 ここが“勝負の分かれ目”だったかもしれない。
 升田幸三はここで2五桂と打った。対して大山康晴は3二と。これが好判断で、以下1七桂成に、2六金と打った。
 大山はもう大駒が一つもないが、後手も受けに適した駒がない。手数はかかったが、結局勝利(つまりは名人挑戦権)は大山の手に。大山康晴が名人戦2度目の登場を決めた。
 升田幸三は自分の良さがまったくでない将棋で、無念だったであろう。とはいえ、勝負的にはギリギリの攻防だった。

 この将棋以降、「相総矢倉四手角」の仕掛けが調べられ、どうやらうまい仕掛けはなく、「千日手やむなし」という結論にプロ棋士間ではなったのだと思われる。

参考図
 2五桂に代えて、2六歩(図)なら、どうなっていたかわからない。
 これを同角なら、2七と。以下、6三銀成、同飛、2三桂成、同金、4四角、3九飛が予想手順の一例で、形勢不明。

米長邦雄-中原誠 1976年 名人2
 さて、26年後、1976年の名人戦で「相総矢倉四手角」が出現した。後手6四角に、4六角と先手が応じるとこうなると上でも説明した。先手番の米長邦雄がこれを注文したのである。
 そして図の、「6八銀左」が米長新手である。これが指したかったのだ。
 以下の手順は、6六歩、同銀、9五歩、7七銀、2二玉、1五歩、同歩、4四歩、同銀左、1三歩(次の図)


 6八銀左と引くことで、結果、6筋と4筋とで「二歩」を手にすることができる。歩を手にするのは後手も同じなのだが、その時に端の歩の形が影響するかもしれない。先手番の米長は9筋の端歩を手抜いている。
 1五歩、同歩、1三歩が、米長がやりたかった攻めだ。その時にあと「一歩」があるので、2四歩、同歩、2五歩の継ぎ歩の攻めができる。
 1三歩に、後手中原誠名人は、同香。米長挑戦者は予定通り、2四歩、同歩、2五歩。
 そこで後手がどうするか。
 中原名人は、6五歩、5七銀として、4六歩と歩を垂らした。これは次に4七歩成~5七とだ。
 先手米長に手番が渡った。4四角、同銀、2三銀という攻めがある。だがこれは3三玉とされ、ちょっと足らない。
 米長邦雄は4五歩と打った。 


 振り返ってみれば、この4五歩が“勝着”である。これで米長が優位に立ち、そしてこの将棋をものにした。
 対して後手3三銀なら、今度は5三角成~2三銀で先手が勝てる、2三銀、3一玉、3二銀成の後、2三歩成が3三の銀に当たるしくみだ。
 また図で3七とには、4四歩、2八と、2三銀で、先手良し。
 そして、どうやらここに来て、予定の5七とでは自信なしというのが中原名人の結論になったようだ。(ただし、ソフト「激指」で調べると5七と以下の結論ははっきりしない)

 名人の指した手は、3五銀。同歩なら、5七とで勝負、ということだ。
 そして挑戦者米長は――


 3五同角。
 3五同歩に、2三銀と打って、以下先手が優勢を拡大していった。
 鮮やかな手で、米長邦雄は、名人戦初勝利を決めたのであった。

 この「相総矢倉四手角」の戦型は、この名人戦の第4局でも現れた。その将棋も先手の米長が指せていたと思われるが、後手番の中原が得意の「入玉」作戦で勝利。

 以後、なぜかこの戦型はずっと出現していない。(「千日手」を打開できたのに、指されなかった理由はなんだろう?)
 だが、26年後、またタイトル戦で登場する。

阿部隆-羽生善治 2002年 竜王1
 前年度に藤井猛から竜王位を奪った羽生善治に挑戦してきたのが、阿部隆。
 その2002年の竜王戦七番勝負の第1局は、千日手になった。(戦型は阿部の「ゴキゲン中飛車」)
 その指し直し局は「相矢倉」。 後手羽生竜王の6四角に、阿部隆が4六角。
 こうなると、“あの戦型”になる。「相総矢倉四手角」だ。
 阿部挑戦者が、その先にどういう手を準備していたのか、それはわからない。

 新手を出したのは、後手番の羽生善治だった。図の「2二銀」が羽生新手。


 以下、このような「同型」になり、ここから「2八飛、8二飛、2九飛、8一飛」の手順をくり返し、「千日手」が成立した。
 七番勝負は4-3で、羽生竜王の防衛となった。羽生善治が、大事な一局を勝つ瞬間、ぶるぶると手が震えるようになったのは、この七番勝負の最終局からではないかと思う。

 ここで仕掛けはほんとうにないのだろうか。「激指」は1五歩から仕掛けろというのだが…。(ソフトの中盤の評価値はあまり参考にはならないけれど)


 もし、「相総矢倉四手角」は26年周期で現れる、の説が正しければ、これが次に出現するのは2028年ということになる。



[追記]
 再調査により、1709~1711年に行われた「宗銀印達五十七番勝負」の中に、「相矢倉」の棋譜があったことが判明した。 しかも、4つも。
大橋宗銀-伊藤印達 1709年
 この図はその第11番の将棋から。
 この五十七番勝負が始まったのは1709年の10月。この時、宗銀は数え16歳、印達は12歳。
 史上初の「本格的相矢倉」の棋譜は、この二人の若者によって、すでにこの時代に生まれていた。


塚田正夫-木村義雄 1947年 名人3
 また「相総矢倉四手角」は、1947年「木村義雄-塚田正夫」の名人戦第3局で出現している。
 これが江戸時代の「徳川家治-五代伊藤宗印」以来の「相総矢倉四手角」ということになるのでは、と思う。
 この将棋も千日手模様だった。先手の塚田は図のように4四歩、同銀としたが、そこからまた仕掛けが見つからず、4七飛(図)。以下、8一飛、4九飛、6一飛、4八飛…。この“4八飛”は“誘いのスキ”かもしれない。これを見て後手木村名人は8六歩、同歩、8五歩と仕掛けていった。仕掛けは成功し木村がやや有利と見られた中盤だったが、塚田玉が入玉に成功し、結果は162手「持将棋」となった。

 4日後に同じ旅館で指し直し局(正式には第4局)が行われ、「角換わり相腰掛銀」の「同型」の将棋に。先手番で木村義雄名人の仕掛けが有名な「木村定跡」となっている。木村名人が良かったが、塚田が頑張り、逆転勝ち。ここまで0-2と押されていた塚田正夫挑戦者はこの勝利がこの名人戦七番勝負での初勝利。そして名人位奪取へ――。
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終盤探検隊 part72 第十代徳川将軍家治

2015年12月19日 | しょうぎ
 「右香落ち」でこのような戦法がある。この後5七角とし、9三の地点をにらむ作戦である。
 これはおそらく十代将軍徳川家治が創始した戦法である。


   [泥食い]
 その翌日。神田小川町の田沼意次の屋敷で、平田屋藤八がその稲穂ような植物を盆にのせて披露していた。
「平田屋、これはなんだ」
 意次が首をひねっている。
「ご存知ありませんか」
「さて。珍奇な香木のたぐいか」
「いいえ」
  (中略)
「田沼様も、そのものの名はご承知のはず。いわば金のなる木でございます」
「これが金のなる木か」
  (中略)
 平田屋はあたりの気配をうかがうようにしてから、
「お耳を」
 といって膝を進め、意次の耳元でささいた。
「……どろくい」
 じっと指にはさんだ植物の枝をみつめた。
「こ、これがどろくいか」
「いかにも泥食いでございます」
                       (『妖星伝』(二)外道の巻より)



 徳川家治の創始したと思われるこの戦法、とりあえず「 家治流一間飛車 」と名付けよう。
 今回のレポートは、家治将軍のこの戦法の棋譜をいくつか調べた結果である。

【 棋譜鑑賞 徳川家治-五代伊藤宗印 一七八〇年 】

初手より △8四歩 ▲9六歩 △8五歩 ▲9七角 △4二玉 ▲9八飛(次の図)

徳川家治-五代伊藤宗印(右香落ち) 1780年

△6二銀 ▲9五歩 △3二玉 ▲7八銀 △3四歩 ▲4八玉 △5二金右
▲3八玉 △1四歩 ▲1六歩 △7四歩 ▲5六歩 △8四飛 ▲7九角

 この戦法は、8四歩、9六歩、8五歩、9七角というオープニングで始まる。そして4二玉と上手が5三の角成を受けて、そこで9八飛(図)。
 これが「家治流」である。「右香落ち」ならではの戦法。これが現代ではほとんど知られていないのは、「右香落ち」の対局がプロの将棋指しの間での取り決めで、大正時代に廃止されたから。


△7五歩 ▲9六飛 △7三桂 ▲2八玉 △5四歩 ▲3八銀

 9筋の歩を伸ばし、上手が8四飛としたタイミングで、9七の角を7九に引く。これがこの戦法の骨子なる手。この後9六飛とし、それから5七角とするのが作戦である。

 ところで、ここで上手から8六歩と来るとどうするのか。それは別の実戦譜があるので、後で紹介する。 


△5三銀 ▲5七角 △7四飛 ▲5八金左 △5五歩

 家治は3八銀と「美濃囲い」に玉を囲った。この戦法は「美濃囲い」との相性がとても良い。
 実はこの戦法、家治将軍も、指した当初は「美濃囲い」ではなく、「3八玉4八銀型の囲い」で指していた。それを途中から「美濃囲い」にモデルチェンジしている。
 1780年というこの時代は、まだ振り飛車における「美濃囲い」の有効性が一般には知られていなかった時期であるが、この「振り飛車美濃囲い」を流行らせた元祖というべき男が、この上手の五代伊藤宗印(鳥飼忠七)なのである。この徳川将軍は、この時期にこの五代宗印を相手に、毎月のようによく将棋を指している。だいたい宗印が「香落ち」で指すのだが、「左香落ち」のときには、振り飛車になる。その時に、宗印はよく「振り飛車美濃囲い」を用いていたから、将軍も、「自分も美濃で指してみよう」と考えたのは自然な事であっただろう。

5五歩
▲5五同歩 △同角 ▲4六歩 △7六歩 ▲9三角成

 「5七角」とここに角を据えるのが、この戦法の肝である。
 上手は右香がないので、9三の歩が宙ぶらりんだ。この「9三」をにらんでおけば、上手からは7六歩とできない。そしてもし上手が4四歩などと角道を止めると、逆に下手から7六歩という狙いもできるわけだ。
 ずいぶんと優秀な戦法に見えるだろう。これを真似して指す人も歴史上は少数ながらいたようだ。家治が最初にこれを指したのは1775年(その時の相手も五代宗印だった)であり、それ以前に指した人はいない。

 この戦型の特徴は「7七歩、6七歩型」であることで、これが他の振り飛車にない盤上の景色をつくっている。ただ、このままだと7八の銀が使えないので、どこかで6六歩~6七銀とする場合が多いのだが、しかし上手の駒組みももうだいたい完了したので、この辺りで攻めてくる。

 上手から、5五歩だ。
 下手の家治は、同歩と応じ、同角に4六歩。4六歩は次に4七金と高美濃にするということだと思うが、宗印は、なんと、7六歩。


△8六歩 ▲同飛 △8八歩 ▲8三飛成 △5四飛 ▲5六歩 △4六角 ▲5七金

 上手が7六歩としたので、9三角成とすることができた。
 さらに宗印は、8六歩~8八歩と攻める。
 下手はその手に乗って、8三飛成と竜もつくった。
 形勢は見た目通り下手が良い。しかし勝負はこれからだ。


△2四角 ▲7三龍 △8九歩成 ▲6六馬 △5五歩 ▲同歩 △6四飛
▲1五歩 △9九と ▲1四歩

 上手の角成を防ぐ5七金は良い手かどうかはともかく、伸び伸びと指す家治将軍らしい手だ。


△6六飛 ▲同金 △7九角成 ▲7一龍 △7八馬 ▲1三歩成 △同桂
▲1二歩 △同香 

 進んでみると、いつの間にか、上手が駒得になっている。ただし下手は1四歩と端歩を進めた。
 5七金と上がった手を生かすなら、どこかで4六歩と受けておくところだと思うが、攻めの棋風の家治将軍は、上手玉をどう寄せるかを主に考えているのだろう。
 宗印は6六飛と飛車と馬とを刺し違えてきた。これには同金しかなく、下手陣はうすくなり、7九角成と角を成られた。
 形勢はほぼ互角。しかしその後の上手7八馬は、まずかったようだ。(いったん何か受けておくところだった)


▲1四歩 △2五桂 ▲1三歩成 △1八歩

 ここは明解な“決め手”が下手にあった。1一飛と打つ手である。
 下手はこれを逃し、1四歩。2五桂に、1三歩成。
 上手は、1八歩。

1八歩
▲2三と △同玉 ▲4一龍 △1六桂 ▲3九玉 △5七角 ▲4八金 △6八馬

 なんと、形勢は逆転。
 2三と、同玉、4一竜。これが将軍のねらっていた寄せだっただろうが、1六桂があった。


▲5七金 △同馬 ▲4八金 △2八銀 ▲4九玉 △4五香

 上手がほぼ勝ちの場面。
 下手の将軍は、5七金、同馬、4八金と受けた。
 対して五代宗印は2八銀、4九玉に、4五香と指した。(2八銀は失着。5九銀ならわかりやすく上手勝ち)


▲4六歩 △同香▲3三飛

 この4五香の手は、下手に4五桂を打たせないような意味もあって、この手自体は良い手である。
 まだここは上手優勢だが、その前の2八銀が無駄に銀を使ってしまった悪手で、形勢は近づいてきた。

 家治は4六歩。これが逆転をねらう一手で、同香なら家治が勝ちになる。(この手で4七歩は3九銀成、同玉、2八金、4九玉、3八金以下、詰まされる)
 そして宗印は同香と取ったのである。敗着となった。(正着は6八馬。これに5八金としても、3九金以下下手玉は詰む)


△2四玉 ▲3四飛成 △同玉 ▲3一龍 △3三歩 ▲2六桂 △2四玉
▲3五角 △同玉 ▲3三龍

 3三飛から上手玉に“詰み”があることをしっかり将軍は読み切っていた。(4五桂が打てるので詰むのである)
 難解な詰みではないが、きっちり読むのはけっこう大変である。
 実戦は図の下手3三飛に、2四玉と逃げたが、同玉は、3一飛成から詰む。3二に合駒(飛か金)は4五桂、2三玉、3二竜以下。3一飛成に2三玉はどうやって詰むのか。腕試しに考えてみてはいかが。

投了図
まで94手で下手の勝ち

 最後の五代宗印の“失着”はやはりわざとだと思われるが、4六歩で逆転できると呼んでいた将軍の確かな実力も見えた終盤の着地であった。この将棋が仮に五代宗印の“接待”だとしても、このようにきれいに逆転勝ちしてくれるのなら、接待するのも気持ちが良いであろう。


 まだ将軍の実戦例があるので、それをいくつか見ていく。

徳川家治-五代伊藤宗印 1780年
 これは6六歩~6七銀を、玉の囲いよりも優先させたケース。
 6六歩を突くと、6四歩~6五歩の仕掛けが上手からできる。

 図の6五歩の仕掛けに、3八銀、6四銀、6五歩、同桂、6六角、5五歩と進んだ。
 そこで下手の将軍は7六歩。以下、同歩、同銀、7五歩。(7六同銀に代えて9三角成は7七歩成で下手不利)


 8五銀、7一飛、9四歩と進む。
 7五歩に6七銀と引くのも普通の手だが、この将軍はそういうタイプではない。8五銀が飛車当たりで先手が取れるという状況なら、そっちを選ぶ。
 9四歩では遅いようにも思える。しかしおそらく家治将軍は上手の次の手5六歩と待っていたのだ。
 上手5六歩に、2二角成、同銀、5六飛、7八角(次の図)


 ここで凡人はまず6七歩を考えるだろう。しかしセンスの良いこの家治将軍には、攻めの構想が見えていた。
 まず8二角と打つ。上手は6一飛だが、そこで5二飛成(次の図)


 飛車を切って、5二同金に、7二金と打ったのだ。そして6三飛に、7四銀(次の図)


 ソフト「激指」もこの攻めは思いつかなかったようだ。
 飛車を切って、飛車を取りに行くのだからあまり効率は良くないのだが、この場合は遊びそうな8五銀が使えたこと、そして後手陣がうすいことでこの攻めが効果的になる。
 こうした時に、「美濃囲い」の優秀さが際立つ。
 ただし、「激指」的にもここはまだ「互角」だが、将軍はここからリードを広げ勝ちきった。

 図以下は、4五角成、6三銀成、同馬、6六歩、6九飛、6五歩、5三銀、7三角成、同馬、同金、8九飛成
7一飛、5一歩、6四桂(次の図)


 以下、徳川家治の勝ち。将軍の快勝譜となった。


徳川家治-五代伊藤宗印 1780年
 これは7九角と下手が9七にいた角を引いた瞬間に8六歩としてきたケース。これで下手が悪くなるのなら、この戦法は成立しない。
 8六歩には3つの対応がある。
  (1)同歩、同飛、8八飛  ←本譜の順
  (2)同歩、同飛、8七歩、8四飛、9六飛(または5七角)
  (3)8八飛、8七歩成、同銀
 どれも有力。下手は互角以上に戦えるようだ。
 (2)の同歩、同飛、8七歩に5六飛は、9四歩で下手良し。


 本譜は、8八飛(図)とぶつけた。以下、同飛成、同角、7五歩、8二飛、7三桂。
 そこで下手の家治は、8四歩から「と金づくり」。上手宗印は7六歩。
 8三歩成、6五桂、7二と、5三銀、7三と、4二銀上、7二飛成(次の図)


 ソフトの評価もまだ「互角」。
 ここで上手は7七歩成としたが、ここでは5七桂成(同金なら6八飛)もあった。
 なお、「激指」のお奨めはなんと6四歩。(歩切れの下手に歩を渡さないという意味か)
 宗印は7七歩成と指し、同桂、7一歩、8二竜、7七桂成、同角、同角成、同銀、1五歩、7五桂、6四角(次の図)と進行。


 7七での駒の交換は下手が得をしたようで、「激指」評価は「下手有利」に。しかしそれは下手がこの後ずっと最善を指せばの話である。
 この図では8四竜(桂馬を取らせない)か、または5二竜、同金、6三とと指すべきだったようだ。
 実戦は8三竜だったので、7五角で桂馬を取られ、以下、6三と、1六歩、5二と、同金、1八歩でまた「互角」に。
 そこで上手は、1七桂(次の図)と来た。


 ここは上手も何を指すか難しい局面だった。五代宗印は1七桂と放りこんできたが、良い手ではなかったようだ。
 1七桂には、同歩と取って、下手が良かったらしい。同歩成、同桂で、そこで1六歩には、1二歩、同香、1三歩、同香、2五桂がある。この場合は(2八でなく)3八玉型なのが下手の得になっている。
 ところが将軍はこれを取らず、6六銀とした。
 以下、同角、同歩、2九桂成、同玉、2五桂と進んでみると、下手の受けが難しい形になっていた。桂馬がなくなって見た目以上にうすくなっているのだ。
 2五桂に、家治は2八銀とし、7九飛、5九金引、9九飛成、8二竜、6二銀、6四桂、5一金、5二金、5七桂(次の図)


 この図での「激指」の評価値は[-426]。
 実戦は、この図から8九歩、4九桂成、同金、9八竜以下、上手の宗印が勝利した。

 ここで4二金とすれば、まだ下手にもチャンスがあったかもしれない。
 その手順は、4二金、同銀、6二竜、5三銀、4二竜、同銀、4一銀というものだが、これを同玉なら2二金で先手勝ちになるが、3三玉と逃げられてわずかに届かないようだ。 

投了図
 これが実際の投了図。上手五代伊藤宗印の勝ち。
 宗印の1七桂の攻めの対応が勝負を分けた。


伊藤寿三-徳川家治 1779年
 この棋譜は上手が徳川家治で、下手が伊藤寿三なのだが、つまり下手の寿三が「家治流一間飛車」を用いた将棋。
 ふと思ったのだが、もしかしたら、この戦法、真の創始者は伊藤寿三ということも可能性としてはあるのではないか。寿三が最初に思いついて使い、それを見て家治将軍が「これは面白い」と採用し、五代宗印との将棋で何度も使った――ということもあるかもしれない。
 残された棋譜の上では徳川家治が1775年に指したものが一番古い。ただし、もともと、これらの棋譜は将軍の残した棋譜集に載せられたものなので、寿三が別のところで指していたとしてもわからないわけである。
 しかしそれを言えば、ほとんどの戦法は、「名もなき誰か」によって編み出されたものだろう。

 とりあえずここでは創始者は徳川家治ということで、「家治流」としよう。

 図は、下手の7九角に、家治将軍が6四銀と受けたところ。
 ここで6六角と寿三は指したが、これが好判断だったようだ。以下、同角、同歩、4二銀と進んだが、6六角には4四歩と角交換を拒否するのがあるいは最善手だったかもしれない。


 上手の家治は角交換して4二銀とし、下手の寿三は9四歩(図)とした。
 この手では代えて、7一角なら下手が良かったのではないか。

参考図1
 9三角成と馬をつくられて上手がたいへんという気がする(だから上手は角交換を避ける4四歩が最善かもしれないと考える)

 実戦の9四歩以下は、同歩、同飛、同香と飛車も交換。さらに、9八飛、9一飛と飛車を打ち合う。
 どうもこの飛車交換はやや上手が得をしたようだ。下手の9筋の香車が9三で成るよりも、上手が飛車を打って8六歩という攻めのほうが響きが強かった。香車があることが逆に負担になるケースだ。
 とはいえ、下手も頑張って、「互角」の形勢のまま進んだ。


 図は、今、寿三が2二銀と打ちこんだところ。
 これは78手目の場面。「激指」の評価値は[+77 互角]で、5一歩を最善手として挙げている。
 上手の家治の指手は3六桂。(「激指」の次善手)
 同歩、5五角、3七角、2二角、7三角成、6四銀、7四馬、5五角、4六桂(次の図)


 これはどちらが読み勝っているのだろうか。
 ここで家治は5七金。対して寿三は、5三歩、同銀、6五馬。4四角に、4五桂(次の図)


 下手の手のながれが調子よいように思える。が、だいたい歩や桂馬で攻めている時は調子よく見えるもの。(5四歩のほうが良かった可能性もある)
 下手が4五桂と打ったこのあたりが勝負どころだったようだ。家治は6四銀と逃げたが、失着。
 4八銀と指すところだった。以下、5三桂成、同角、5四銀、5一歩、8二飛成、4二桂(参考図)

参考図2
 これなら形勢不明。

 実戦の6四銀以下は、5三歩、5一金、8二竜、4二銀、5四馬(次の図)


 5四馬は、次に6三馬がねらい。この手が良かった。
 これだと後手から4七金がありそうに思える。ところがこの場合、それは同銀と取り、4九竜には、4四馬がある。同歩に、4三金(参考図)

参考図3
 これは同玉なら5四角の1手詰。3一玉も、2二角、同玉、3四桂、3一玉、4二竜、同金直、2二銀、4一玉、4二桂成以下詰み。

 実戦の進行は、6七金(ほかに手がない)、6三馬、6六角、4一馬(次の図)


 4一同金に、5二歩成。この手が“詰めろ”で、また下手玉は詰まないので、下手の勝ちになった。
 本局は全体的に、派手さはないながらも伊藤寿三の指し手が冴えていた。


徳川家治-五代伊藤宗印 1780年
 ここで6六歩と将軍は突いた。以下、5五歩、同歩、同角、6七銀、7六歩、同歩、6五歩、7七桂という戦いになった。
 この図で6六歩に代えて、上の例で寿三が指したように“6六角”として角交換になるとどうなるのだろう。

参考図4
 “6六角”に、同角、同歩。その時に上手からは2四角という手がある。7九角成がねらいだ。それを防ぐ4六角の合わせはあるけれど、それには3三角とかわされると、良いのかどうか。
 だから2四角には8三角と打ち、8四飛、7二角成、6二銀、9四歩(次の参考図)

参考図5
 ここまでの手順で、6二銀のところ6二金は、7一馬で、次に9三馬があり、下手が指せそう。
 この9四歩に7九角成なら、9三歩成で飛車が取れるので下手優勢。
 だから9四歩には同飛とし、同馬、同歩、同飛、7九角成、6七銀、8九馬と進みそう。
 これはこれからの将棋。上手は先に桂馬を得し、下手は二丁飛車で攻めることができる。
 つまり6六角からの角交換もある手だが、下手も上手も互角に戦える。

7七桂
 実戦はこうなったわけだが、上手五代宗印の7六歩と突き捨ててからの6五歩は、厳密には指し過ぎかもしれない。それを的確にとがめるような図の家治将軍の7七桂が好手だった。
 ここで上手は2二角または5四銀のような手がふつうだが、五代宗印は積極的に5六歩、同銀、6六角と攻めてきた。
 しかしこれもやりすぎだったようで、6六同角、同歩の角交換の後、6五桂、同桂、同銀と桂交換し、6一飛、5四歩(次の図)となってみると、すっかり振り飛車ペースだ。


 ここは下手優勢だが、下手の家治はこのリードを広げ、この将棋を勝ちきる。
 リードされるのは仕方ないが、「不利な将棋をいかに頑張るか」も将棋の重要なテーマである。上手の立場に立ってこの将棋を点検してみると、どうやらこの局面がポイントだったように思われる。
 宗印は4二銀と銀を引いたが、ここは4四銀と上へ出るべきところではなかったか。意味としては、下手に5五角と打たせない、ということ。
 以下、9四歩なら、7八角(参考図)

参考図6
 6八歩、4五角成、9三歩成、1五歩、8二と、5一飛、5三桂、5五馬(次の参考図)

参考図7
 やはり下手が少し良い形勢のようだが、下手も間違えやすい将棋になっていると思う。
 (「激指」の評価値は[+453])


 実戦はこうなった。どうも家治将軍は、振り飛車で左の金を前進させるのがお好きのようである。
 宗印は馬をつくって粘ろうという指し方だが、図の6三歩に8二飛と逃げた手が、敗着と言ってよいほどの手になった。6三歩には同金とするほうが粘りがあった。
 8二飛で、宗印は飛車と角とを交換して勝負という意味だったが、9三歩成、8三飛、同と、9五歩に、下手家治は飛車取りを放置して、8二飛(次の図)


 攻めの得意な家治将軍は、こうなると冴えてくる。飛車を取らせてもと金をつくって攻めていけば勝てると見ている。
 6三金、6四歩、1六歩、1八歩、9六歩、6三歩成と進み、その局面での「激指」の評価値は[+1757]になっている。
 以下、徳川家治が順調に勝ちきった。

 この図をこうしてみると、やはり「美濃囲い」の優秀さがわかる。「美濃囲い」が一般に流行するのは、この10年後くらいからのことである。五代宗印や家治将軍はそれを先取りして指していたのである。
 そして「美濃囲い」はこの戦法と相性がよかった。

 
 この徳川家治の「対右香落ち一間飛車」は、優秀な戦法だと思う。
 その後江戸時代の間に、時々この戦法を使う人がいて、棋譜がいくつか残っている。

相川治三吉-平岩米吉 1886年
 明治時代、“本所小僧”(小僧=天才少年)と呼ばれていたという相川治三吉(あいかわじさきち)がこの戦法を使った棋譜を残している。
 相川はまだ10代のうちに亡くなったらしく、大正時代になってまた天才少年が本所に現われ、「相川の生まれ変わりだ」と評判になったのが木村義雄。


 「右香落ち」の対局は大正年間に「廃止」ということに決まったらしい。廃止の理由はよく知らないが、廃止されたのはおそらく1914年(大正3年)である。

 土居市太郎-関根金次郎 1914年
 これが最後の「右香落ち」の公式戦対局か?
 土居市太郎は関根金次郎十三世名人の一番弟子。脚がわるかったが将棋で強くなって阪田三吉も倒した(=日本一強くなった)というエピソードがあり、その話を本で読んだ升田幸三少年が「よしわしも日本一の将棋指しになろう」と決めて家を出た、そのきっかけになった人である。そう、物差しの裏に、香車がどうのこうの、とメッセージを残して。
 駒落ちで上手が「初手5四歩」というのは、実はよく見られる手で、「右香落ち」では天野宗歩がこれをよくやっている。「左香落ち」の場合は今で言う「ゴキゲン中飛車」のような将棋が上手のねらいになるが、「右香落ち」の場合は、右銀を5三(6四や4四)に素早く進出させる「飛車先歩保留型相掛かり」の思想がベースになる。(この指し方は前々回の本報告part70で解説した。)
 「右香落ち」の駒落ち将棋が廃止されてしまって、せっかくこの戦法(家治流)を勉強したのに使う場がないのは、残念なことである。
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