我が国日本は古来より天皇をいただく国にして、天皇は日本の歴史そのものである。明治維新後、天皇は明治政府が制定した大日本帝國憲法により「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ拠リ之ヲ行フ」(4条、元首、統治権ノ総攬)と明確に規定されていたため、天皇が我が国の元首であることに疑いはなかった。しかしながら、戦後GHQが作成した現憲法においては、天皇は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」(日本国憲法1条、天皇の地位、国民主権。英語の原型では、The Emperor shall be the symbol of the State and of the unity of the people, deriving his position from the will of the people with whom resides sovereign power.)とされ、元首という単語を削除してしまったため、天皇の法的位置づけについて現在においても憲法上争いがある。そこで今回はこのことについて曲がりなりにも自分なりの見解を示したいと思う。
元首(head of state)という概念はその字からも見当がつくように、そもそも国家を一人の人間(有機体)として把握しようとする国家有機体説(Staatsorganismus)から出てきた概念である。国家有機体説は18~19世紀のヨーロッパにおいて登場してきた考え方であり、国家を個々の国民が生れてくる以前から存在するもの、すなわち、歴史的・伝統的な存在と考え、国家とは単なる抽象的な個人の集合からなる集まりではなく、歴史や文化、伝統といったものを背景に持つ、具体的な国民の共同体であるとする。日本国憲法が国家有機体説に拠っているならばとりあえず一つの関門をクリアできたとなるが、日本国憲法は国家を、自由で平等な諸個人の契約によって成り立つものだとする、国家有機体説と対立する概念である社会契約説(Social contract)の考えに拠っているとされるため、問題が出てくる。
国家有機体説の要素として、元首とは、行政の長である、対外的に国家を代表する存在であるといったものが挙げられるが、日本国憲法においては、前者は内閣総理大臣であるため、天皇は当てはまらない。だが、後者であれば天皇に当てはまるものであると言える。
というのは、天皇は国事行為の一環として、大使、公使の信任状を認証したり(7条5項)、外国からの大使、公使を接受する(同9項)といった、対外的に国家を代表する行為をしている以上、天皇を元首としても差し支えない。政府見解においても、天皇を元首としているのである(昭和48年6月7日)。加えて、天皇が海外を訪問された際に相手国は21発の礼砲によって歓迎しており、このことは国際的にも天皇が元首として扱われていることを示している(なお我が国の首相が海外を訪問した際発射される礼砲は19発であり、これは大統領制の国で言えば副大統領に対してなされる場合と同じである。対して21発の礼砲は大統領に対するものであることからして、我が国における元首は首相ではなく天皇であるというのが国際的なコンセンサスであると言える)。したがって天皇が我が国の元首であることは確認されたと言えよう。なお、日本国憲法の英訳では天皇を「Emperor」としている。通常「Emperor」は国家を代表する元首と位置づけられるため、このことからしても日本国憲法制定者は天皇を国家元首として見ていたと言える。
それでは天皇は君主(Monarch)と言えるだろうか。これは元首と重複する概念であるが、元首が必ずしも大統領のように世襲や血統によっているケースだけではないが、君主はその地位が選挙によるのではなく世襲に基づき、その地位に伝統的権威をもっているという点において、元首とは性質を異にするものであると思われる。天皇が君主であれば我が国は立憲君主制ということになる。
このことについて、まず天皇が先に挙げた君主としての性格は備えていること、そして日本国憲法下における天皇は、いわば「元首としての最小単位」としての権限しか持ち合わせていないが、政府見解においても我が国を「立憲君主国家」と定義しており(先の政府見解参照。吉國一郎内閣法制局長官は、「立憲君主制と言っても差し支えないであろうと思います」と発言。)、外務省も我が国を立憲君主国としている。したがって、我が国を天皇を君主とした立憲君主制国家であるとすることは理に適っている。
話が前後して恐縮だが、国王をいただくスペインにおいても、スペインは立憲君主制国家であるとされ、元首は国王であるとされている。そしてスペイン憲法において、国王を「国の統一と永久不変の象徴である」( 第56条) と定めているが、我が国の天皇に関する規定である憲法1条もこれと同じようなものではないか。このことは、天皇を「象徴」であるとしても、象徴は元首と意味的にイコールであるということを示す好例である。
余談かもしれないが、帝国憲法3条において「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカララス」と規定されていたが、この規定の本来の意味は、天皇は問責されることはないという程度のものであって(君主無問責の原則)、これを根拠に不敬罪等が制定されたから、おかしな議論が起こっているのである。ベルギー憲法では63条において「国王はこれを侵すことができない。国王の大臣が責任を負う」と定められている。そしてスェーデン憲法3条においても、「国王の身体は神聖である。国王は その行為について訴追を受けることはない」と規定されている。またデンマーク憲法13条にも、「国王は、自己の行為に対して責任を負わない。その人格は神聖である」と規定されているが、これと帝国憲法の規定は大差ないと言える。
ここまで長々と述べてきたが、天皇は法的な位置づけにおいては我が国を代表する君主であり、これは多くの国民の素朴な感覚とも一致するとも言え、また政府見解、日本国憲法の制定者の意思等も考慮して、これに異論はないと言える。
元首(head of state)という概念はその字からも見当がつくように、そもそも国家を一人の人間(有機体)として把握しようとする国家有機体説(Staatsorganismus)から出てきた概念である。国家有機体説は18~19世紀のヨーロッパにおいて登場してきた考え方であり、国家を個々の国民が生れてくる以前から存在するもの、すなわち、歴史的・伝統的な存在と考え、国家とは単なる抽象的な個人の集合からなる集まりではなく、歴史や文化、伝統といったものを背景に持つ、具体的な国民の共同体であるとする。日本国憲法が国家有機体説に拠っているならばとりあえず一つの関門をクリアできたとなるが、日本国憲法は国家を、自由で平等な諸個人の契約によって成り立つものだとする、国家有機体説と対立する概念である社会契約説(Social contract)の考えに拠っているとされるため、問題が出てくる。
国家有機体説の要素として、元首とは、行政の長である、対外的に国家を代表する存在であるといったものが挙げられるが、日本国憲法においては、前者は内閣総理大臣であるため、天皇は当てはまらない。だが、後者であれば天皇に当てはまるものであると言える。
というのは、天皇は国事行為の一環として、大使、公使の信任状を認証したり(7条5項)、外国からの大使、公使を接受する(同9項)といった、対外的に国家を代表する行為をしている以上、天皇を元首としても差し支えない。政府見解においても、天皇を元首としているのである(昭和48年6月7日)。加えて、天皇が海外を訪問された際に相手国は21発の礼砲によって歓迎しており、このことは国際的にも天皇が元首として扱われていることを示している(なお我が国の首相が海外を訪問した際発射される礼砲は19発であり、これは大統領制の国で言えば副大統領に対してなされる場合と同じである。対して21発の礼砲は大統領に対するものであることからして、我が国における元首は首相ではなく天皇であるというのが国際的なコンセンサスであると言える)。したがって天皇が我が国の元首であることは確認されたと言えよう。なお、日本国憲法の英訳では天皇を「Emperor」としている。通常「Emperor」は国家を代表する元首と位置づけられるため、このことからしても日本国憲法制定者は天皇を国家元首として見ていたと言える。
それでは天皇は君主(Monarch)と言えるだろうか。これは元首と重複する概念であるが、元首が必ずしも大統領のように世襲や血統によっているケースだけではないが、君主はその地位が選挙によるのではなく世襲に基づき、その地位に伝統的権威をもっているという点において、元首とは性質を異にするものであると思われる。天皇が君主であれば我が国は立憲君主制ということになる。
このことについて、まず天皇が先に挙げた君主としての性格は備えていること、そして日本国憲法下における天皇は、いわば「元首としての最小単位」としての権限しか持ち合わせていないが、政府見解においても我が国を「立憲君主国家」と定義しており(先の政府見解参照。吉國一郎内閣法制局長官は、「立憲君主制と言っても差し支えないであろうと思います」と発言。)、外務省も我が国を立憲君主国としている。したがって、我が国を天皇を君主とした立憲君主制国家であるとすることは理に適っている。
話が前後して恐縮だが、国王をいただくスペインにおいても、スペインは立憲君主制国家であるとされ、元首は国王であるとされている。そしてスペイン憲法において、国王を「国の統一と永久不変の象徴である」( 第56条) と定めているが、我が国の天皇に関する規定である憲法1条もこれと同じようなものではないか。このことは、天皇を「象徴」であるとしても、象徴は元首と意味的にイコールであるということを示す好例である。
余談かもしれないが、帝国憲法3条において「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカララス」と規定されていたが、この規定の本来の意味は、天皇は問責されることはないという程度のものであって(君主無問責の原則)、これを根拠に不敬罪等が制定されたから、おかしな議論が起こっているのである。ベルギー憲法では63条において「国王はこれを侵すことができない。国王の大臣が責任を負う」と定められている。そしてスェーデン憲法3条においても、「国王の身体は神聖である。国王は その行為について訴追を受けることはない」と規定されている。またデンマーク憲法13条にも、「国王は、自己の行為に対して責任を負わない。その人格は神聖である」と規定されているが、これと帝国憲法の規定は大差ないと言える。
ここまで長々と述べてきたが、天皇は法的な位置づけにおいては我が国を代表する君主であり、これは多くの国民の素朴な感覚とも一致するとも言え、また政府見解、日本国憲法の制定者の意思等も考慮して、これに異論はないと言える。