ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

日本を蝕む過剰な政教分離論

2007年06月27日 | 憲法関係
 読売新聞によれば、昨日、北海道砂川市の市有地に神社があるのは憲法違反だとして、市民2人(いずれも共産党系、後述)が違法確認を求めた住民訴訟の控訴審判決が札幌高裁であり、伊藤紘基裁判長は「市長が鳥居やほこらの撤去を請求しないでいることは、憲法の政教分離原則に反する」とした1審・札幌地裁判決を支持し、市側の控訴を棄却したといいます。今回は、この糞の足しにもならない判決を批判していこうと思います。

 まず、住民訴訟ですが、同訴訟の目的は「地方公共団体の機関や職員による財務会計法規違反を是正する」ことにあります(原田尚彦著『行政法』)。よって、今回の場合ならば、砂川市所有の土地に神社を建立したことについての財政上の不備を指摘するのがメインであるはずです。それがどうでしょうか。上記のことなど蚊帳の外で、原告らの軸足は間違いなく政教分離に置かれていることは誰の目から見ても明らかでしょう。政教分離ということを第一に主張したいがために、財務状況に「イチャモン」をつけたとも見れます。このような訴訟の展開は、本来の住民訴訟の目的を逸脱したやり方であって、認められるべきではありません。南博方氏も指摘するように、最近の住民訴訟は「濫訴の傾向が現れている」(南博方著『行政法』)と思います。

 政教分離とは、信教の自由と表裏一体の規定です。従って、どちらが強く作用しすぎても問題だと思います。そこで、仮に、砂川市が高裁の判決に従って神社を取り壊したとしましょう。しかし、他方でこの神社に参拝していた人がいるとすれば、神社が取り壊されたことにより、もう参拝することができなくなります。だとしたら、高裁の判断は、当該神社を参拝していた人の「信教の自由」を侵害したとは言えないでしょうか。少なくとも、高裁の理論でいくならば、そういう結果にならなければ、整合性は取れないことになります。

 現行憲法はアメリカ(GHQ)の受け売りであることは明らかですが、そのGHQが昭和20年12月に出した、いわゆる「神道指令」によれば、神社神道を「非宗教的ナル・・・神道ノ一派」と記してします(GHQは神社神道を政教分離の射程に入れていなかったと考えられる)。ということは、現行憲法を制定したGHQの判断に従えば、神社は非宗教的なものであって、政教分離の原則に照らしてみても問題ない、ということになります。よって、本来ならばこのような主張は却下相当であるのではないでしょうか。

 次に、今回の訴訟の事実関係によれば、神社を建立した土地は1953年に町会の土地を砂川市側に寄付したもので、その土地に神社建立の許可を出し、無償での土地の使用を認めたのが1970年です。そして2004年に原告の一人である谷内栄氏(滝川平和遺族会代表を務め(2005年6月当時。現在も務めているかは不明)、共産党推薦で砂川市長選に立候補をするなど、筋金入りの「左翼人士」です)が提訴するまでは、このような騒ぎは見受けられません。
 更に、2005年10月、全国各地で政教分離訴訟を「乱発」している帝京大学教授、藤原英夫氏が自分から首を突っ込み、市有地上に同神社があることにより、自身の信教の自由が侵害されたとして、損害賠償を求める訴訟を東京地方裁判所に提訴します(この請求は却下される)。同年11月には、当該訴訟のもう一人の原告、高橋政義氏(中帰連メンバーという実績を持つ、彼もれっきとした「左翼人士」です)から提訴されていた、市有地上にある同神社の違法を主張する住民訴訟についての判決が、町内会への土地譲与により訴えの利益を失ったものとして却下されます。

 このように、当該神社は「プロの」左翼市民によって過去数度にわたって狙われていたことが明らかになっています。彼らは、「市有地は市民全体の財産であるにも関わらず、違法な財産管理が続いている」と言います。しかし実態はどうかと言えば、憩いの場や町内会館として、市民の自由使用の場として同神社は使われていたといいます。違法な財産管理どころか、同神社は既に広く市民に開放されていたのです。しかも、譲渡から約半世紀も経過した後に、「政教分離違反だ」とは。では、なぜもっと早い段階から主張しなかったのでしょうか。

 このような判断を司法が与えるならば、以下に挙げるケースも全て政教分離に反するということになります。

 1、文部科学省が毎年宗教系の私立大学に与えている膨大な額の補助金(一部を列挙するならば、慈恵会医科大学36億8197万円、同志社大学35億6710万円、青山学院大学20億6102万円、龍谷大学19億4603万円、創価大学15億5216億円など。金額は平成16年度)。

 2、公立学校の修学旅行生が仏閣を見学する行為。

 3、公務員が初詣や墓参りを行うこと。

 4、内閣総理大臣が明治神宮や伊勢神宮に参拝すること。

 5、先日の松岡利勝氏の葬儀に現職の国会議員が参列すること。

 6、そして、公明党の存在。

 そもそもとして、政治と、いや、あらゆるものが一切宗教と分離して存在しているということは、現実的に考えられないことではないでしょうか(共産党のかの有名な催しも「赤旗まつり」ですし)。
 それなのに、憲法の政教分離条項を徒らに用いて一般常識的に首を傾げてしまうようなことまでも、政教分離違反だ、と言うことは、日本の歴史、文化、伝統を破壊することになるのではないでしょうか。仮に、このような事件も裁判員が裁けるとすれば、ほぼ確実に原告敗訴となることでしょう(裁判員制度導入の目的は、国民の司法参加により、市民が持つ日常感覚や常識といったものを裁判に反映することですから)。

 本来の政教分離の役割は、特定の宗教団体が政治的な権力を握ることを防ぎ、国家が特定の宗教を弾圧しないことにあるのであって、神道を潰すための原則ではありません。
 このニュースは大々的に報道されていませんが、多くの日本人は、このように水面下で日本文化・伝統の破壊工作が行われているということを自覚し、危機感を抱くべきだと思います。

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