ひとり井戸端会議

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「立憲主義」の否定ではない

2014年02月27日 | 憲法関係
憲法解釈変更、4野党が反対=民主「ナチスの手口」―参院審査会(時事通信) - goo ニュース

 参院憲法審査会は26日、憲法の役割などをテーマに討議を行った。安倍晋三首相が意欲を示す集団的自衛権の行使容認のための憲法解釈の変更について、民主、共産、結い、社民の野党4党は反対を表明。自民、みんな、日本維新の会の3党が理解を示した。公明党は、憲法解釈見直しについて明確な態度表明をしなかった。
 討議で民主党の小西洋之氏は「ワイマール憲法があっても人権弾圧を繰り広げたナチスの手口だ」などと首相の姿勢を厳しく批判。共産党の仁比聡平氏は「国会の多数獲得で解釈を自由勝手にできるというなら、憲法の最高規範性を失わせる」と指摘した。結いの党の川田龍平氏と社民党の福島瑞穂氏は「行政が憲法に従う立憲主義の否定」と訴えた。
 これに対し、自民党の丸川珠代氏は「安倍内閣が憲法の規範を無視してるとの批判は当たらない」と反論し、みんなの松田公太氏は「(安全保障を)いつまでも同盟国に頼るわけにはいかない。行使を認めない方がおかしい」と表明。維新の清水貴之氏は、憲法解釈の変更に賛同した上で「法律によって行使の要件を明確にすべきだ」との見解を示した。



 「ナチスの手口」だの「立憲主義の否定」だのと口々に安倍内閣の集団的自衛権の憲法解釈の変更を批判しますが、そういう抽象的でレッテル貼りの類のものではなく、政治家なら(特に安倍総理に「けんぽうクイズ」を出すほど、けんぽうがお得意のこにしくんにおかれましては)もっと中身のある具体的な批判ができないものかと思ってしまいます。彼らは皆、立憲主義の否定と言いますが、それでは「立憲主義」とは一体どのような概念なのでしょう。

 
 立憲主義とは、統治権の濫用から国民の自由・人権を守り、これらを確保するために、統治権を特定の機関に集中させることなく、権力を分立して、とりわけ国民の国政への参加を確保するという点に、その本質があります。つまり、立憲主義とは、国民の権利保障、権力分立、国民の国政参加という各要素から成り立つ概念です(大石眞『憲法講義Ⅰ』25頁以下)。それでは、とりわけ野党や一部マスコミが批判する安倍総理の「憲法解釈の最高責任者は私だ」発言は、この立憲主義の要請に反するものなのでしょうか。

 結論から言うと、私は上記の安倍総理の発言は立憲主義の要請と何ら矛盾することはない、つまり立憲主義に反しないと考えます。また、当然のことながら、安倍内閣が集団的自衛権の行使を容認することも立憲主義には反しません。その理由は以下の通りです。

 まず、そもそも安倍総理は、議会で多数を握れば憲法をどうにでもできるとは一言も言っていません。それに、小松一郎内閣法制局長官が指摘するように、憲法解釈について内閣として見解を示す際の最高責任者は内閣総理大臣に決まっています。内閣法制局は法の番人でも何でもありません。内閣府の一部局に過ぎません。憲法の番人は内閣法制局ではなく裁判所(正確には最高裁判所)です。

 内閣法制局設置法3条によれば、内閣法制局の役割とは、「一 閣議に附される法律案、政令案及び条約案を審査し、これに意見を附し、及び所要の修正を加えて、内閣に上申すること。二 法律案及び政令案を立案し、内閣に上申すること。三 法律問題に関し内閣並びに内閣総理大臣及び各省大臣に対し意見を述べること。四 内外及び国際法制並びにその運用に関する調査研究を行うこと。五 その他法制一般に関すること。」であって、憲法の解釈について、これを専権的に決定できるなどとはどこにも規定されていません。

 したがって、そのような存在に過ぎない内閣法制局が、上司である内閣総理大臣を中心に構成される内閣に優先して憲法を解釈できると解するのは、下部組織による越権行為を許すようなものです。先ほど述べた立憲主義の要請からすれば、内閣の憲法解釈に誤りがある場合、これを正すのは最高裁判所の役目であって、内閣法制局ではありません。


 仮に集団的自衛権に関するこれでの解釈が何年にも亘り継承されてきたからといっても、それは集団的自衛権行使容認を否定する理由になりません。伝統的な解釈であればいかなる理由があっても変更することはできないなどと解釈する根拠のほうこそありません。

 とりわけ、国家の存亡に直結する安全保障に関する憲法解釈であれば、伝統的なものだからといって、現状のわが国の置かれている状況を無視し、これまでの憲法解釈を墨守することは自殺行為に等しいはずです。よって、確かに憲法解釈には安定性が担保されるべきですが、そうだからといって現実に即した解釈の変更まで認められないというのは論理の飛躍です。

 冷戦以後、安全保障環境は今さら説明するまでもなく劇的に変化し、従来の自衛権の行使に関する憲法解釈ではわが国を守ることはできないから集団的自衛権の解釈を変更すべきというのは、十分に合理的根拠があるものだといえます。集団的自衛権に限らず、硬直的な法解釈というものは、法に現実を合わせろと言っているようなもので、そうした考えは時として現実社会に混乱をもたらします。

 もちろん、どのような解釈も許容されるというのであれば立憲主義の否定という批判も当たっていますが、法の掲げる理想と現実の要請とをいかにして調和していくかという視点から、憲法は解釈されるべきだと思います。

 そうであれば、集団的自衛権の名の下、無制限に自衛隊の武力行使を容認するのは憲法違反ですが、憲法9条の下認められている専守防衛の理念の下、集団的自衛権が認められる場合を限定列挙し、これらに限って行使を許容するというかたちでの政府の集団的自衛権の解釈は、上記の法の掲げる理想と現実の要請との調和を図るかたちで集団的自衛権を解釈していると評価できます。

 また、こうした集団的自衛権の解釈は、国民の権利や自由を侵害するものでもありません。そして、これまで(最高)裁判所は集団的自衛権に関して憲法解釈(合憲・違憲の判断)を示したこともありません。百歩譲ってこれまで集団的自衛権は憲法上観念できないのに、これを行使しようという解釈であれば立憲主義の否定という批判も首肯できなくもないですが、上記のような価値判断にしたがい憲法解釈を変更するのであれば、何ら立憲主義の原則を損なうものではないでしょう。

 しかも、現在の議会制民主主義制度および違憲審査制度の下では、時の内閣の恣意によって憲法解釈が変更できるなどと考えることのほうが困難でしょう。なお、こにしくんは「ナチスの手口」と安倍内閣の方針を同視しますが、彼はどうやってナチスが権力を掌握していったのか、全く知らないのでしょう。また、彼らのロジックにしたがって安倍内閣が立憲主義を否定しているとすれば、内閣法制局長官を国会答弁から排除し、閣僚自ら憲法解釈を行うとしていた民主党のほうが、よほど立憲主義を否定していたといえるのではないですか。

 したがって、私は安倍総理の発言も集団的自衛権の解釈変更も立憲主義の原則に照らして何も問題ないものと考えます。

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