ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

堕落した司法に・・・

2007年06月28日 | その他
 現在行われている山口県光市母子殺害強姦事件の広島高裁差戻し審から、今の司法の「生身の人間の」感覚の欠如がブラウン管を通じて、これでもかというほど伝わってきます。その欠陥とはおおよそ次のようなことが原因なのではないかと思うのです。最初に断っておきますが、法に携わる人間全員がそうだとは言っておりませんので、あしからず。

 1、「法律オタク」の集まりが裁判を進行する。

 法曹三者(裁判官、検察官、弁護士)、彼らは法とは、生きた人間(生身の人間)がその適用される主体であることを忘れ、法律オタク故に、「いかにテクニカルに法律を操るか」ということばかりに目がいきすぎ(そのため、上記の事件での聞くに堪えないような弁護側の詭弁が出てくる)、法の適用主体(人間)の存在をどこかで忘れているような気がするのです。

 2、過剰な「プロ意識」の成れの果て。

 「私たちは法律のプロだ」。このような意識自体を持つことは何ら否定することではありませんが、彼ら法曹三者の多くは、この意識が過剰に働き、変に高いプライドを持ち、たとえば素人(一般市民)が裁判や法の適用過程に意見をすれば「お前らはずぶの素人なんだから、そんなお前らに何が分かるんだ。黙ってろ。」というような居丈高な考え、歪んだ自尊心、「我こそは正義なり」みたいな考えが、あのような弁護士やら、おかしな判断をして憚らないような裁判官を生んでしまうのではないのでしょうか。

 3、「人間を意識しない」法曹の増殖。

 先述の二点にも関連しますが、人間を意識しない(ないしは「できない」)法曹が多すぎるのではないでしょうか。重複しますが、法の適用主体は人間であり、その主体を考慮しない法の適用など、これだけで机上の空論と呼べると思いますが、刑事裁判の場合など、特にこれが顕著になると思います。犯罪被害者の遺族の方が言ってました。「我々は裁判での証拠ぐらいにか見られていない」と。これは真っ当な感想だと思います。他にも、たとえば「永山基準」に代表されるような「○人以上の殺害なら死刑を適用する」などという理論も、これの現れだと思います。



 ではいかにするべきか。思うに、(これで全ての欠陥が除去できるとは言い切れませんが)身内に甘く、大した処分もすることもできない、自浄作用の喪失を言われて久しい日弁連の改革が喫緊の課題だと思います。日弁連が自由に何の制約もなく行動が取れるのも、すなわち、弁護士の自治が認められているのも、(戦前は弁護士も行政の管轄下に入っていたのですが)弁護士活動への国家からの圧力をかわすのが目的です。しかし、その結果はどうでしょう。日弁連を監視できる第三者機関を早急に立ち上げるべきだと思います。

 次に法学部改革も不可欠だと思います。法学部で教鞭を執るのも、学者という「法律オタク」です。法律オタクの下でも資格を取ったりするには有利かも知れませんが、言われて久しい「血の通った法教育」を行うには、彼らでは無理があります。もちろん、学者全員がダメだとは言いませんが。そこで、ロースクール構想でも挙がったような、法学部の学生(特に法曹三者を目指す学生)に一定の期間、実務の場で働かせることを義務付けるということもしていいと思います。

 最後に考えられるのは、司法試験制度改革です。これこそが、いかにテクニカルに法律を操るかということばかりに特化し、その適用主体を見失わせる結果を生んでいると思うのです。ロースクールの学生は日々試験合格のことしか頭になく、そのため法律知識を頭に詰め込むことばかり。これで「人間味ある法曹」が量産できるとは到底思えず、故に光市の母子殺害事件での被告人側弁護士のような「人間の臭いのしない」法曹が増えるということも杞憂ではないと思います。

 これらの欠陥がなければ、本来ならば裁判員制度も刑事事件被害者参加制度も不要なんだと思います。法曹三者が一般人と同じ「常識」や「感覚」を共有できれば、自ずと「血の通った司法」も実現できるでしょうし、ことは片付くと思うので。

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