ひとり井戸端会議

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容疑者=クロ、ではない

2008年10月29日 | 民事法関係
判決記事、裁判官が“注文”/実名報道訴訟 高裁那覇支部が文書(沖縄タイムス)

 女子中学生と性的な行為をしたとして、県条例違反容疑で昨年三月に県警に逮捕された公立中学校の男性教諭=当時(34)=が、実名報道で名誉を傷つけられたとして、NHKと琉球放送、琉球朝日放送、沖縄テレビの各社に損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決で、福岡高裁那覇支部(河邉義典裁判長)は二十八日、教諭の不利益と報道の公益性などを比べ、実名報道の相当性を認めた一審・那覇地裁判決を支持し、教諭側の控訴を棄却した。
 一方で「実名報道が不法行為に当たらないとしても、教諭が被る不利益は非常に大きい」とし、「報道内容は逮捕された客観的な事実の伝達にとどめるべきである」と言及した。
 河邉裁判長は各報道機関に「御連絡」と題した文書を配り、「『教諭が過去に…の容疑で逮捕された』という事実だけでなく、『その後、起訴猶予処分(または不起訴処分)になった』という事実を盛り込んでいただけないものか、ご検討下さい」などと、異例の要請をした。
 判決理由では報道側に「逮捕された事実を報道しておきながら、起訴猶予処分とされた事実などについて、もはやニュースバリューがないとして、これを報道しない姿勢にも、報道機関の在り方として考えるべき点があるように思われる」などとしている。



 福岡高裁那覇支部(以下、「高裁」という。)の行った判断は適切である。一部からは「犯罪をしでかしておきながらお前が言うな」というような反発もあるが、実名報道のほとんどは容疑者段階でなされるものである以上、容疑者=罪が確定した犯罪者ではない、という前提を踏まえれば(だからこそ「冤罪」が生じるのだ)、当然の判断といえる。刑事裁判においては、被告人には「無罪推定(presumption of innocence)」の原則があるのだ。

 そして刑事裁判において検察側が挙証責任を負っているのもこれに起因するものである。これは刑罰権を行使する国家に被告人が犯罪を行ったことについて立証する責任を負わせ、その事実が証明されない限り刑罰権を行使できないようにし、無闇に人権侵害が行われることを防止するためである。だから、逮捕され起訴されたからといっても、その者はあくまでも罪が確定した状態ではなく、審理を経て有罪判決が下され、これが確定してはじめて「クロ」となるのである。というか、逮捕された段階でクロなのであれば、裁判は一体何のためにある?

 確かに起訴されて有罪判決が下される確率は9割以上と極めて高いが、だからといって容疑者段階の報道で、その人物を犯人扱いしてよいということにはならない。しかも、マスコミは「報道の自由」を盾に、仮に自分たちが犯人扱いした人物が「シロ」であっても責任を負うことは滅多にない。適当に謝罪して頭を下げるのがせいぜいだろう。しかし、犯人扱いされ、「反社会的分子」というラベルを貼られた者の社会復帰は決して容易ではない。これは無責任ではないか。マスコミは自由を履き違えていると言える。



 ところで、この教員は女子中学生に手を出したために死刑判決を言渡されたのか?起訴猶予処分なのだからそうではない。だとしたら、罪を償ったら社会に復帰できるのだ。犯罪者であれば誰でも、刑期を終えるなどして言渡された刑罰を完遂した後は、その者は社会に復帰してまた今まで通り生活を営む権利がある。当該教員も同じだ。当該教諭がきちんと社会復帰できるような土壌を確保するためにも、実名報道によって「教諭が被る不利益は非常に大きい」と高裁は述べたのであろう。

 今回の件は容疑者は確かに犯罪を行っていたが、最近続発している痴漢裁判での冤罪判決を、この原告を批判する人はどう考えるのであろうか。「お前が言うな」という次元の話ではない。原告の行った行為は決して許されるものではないが、今回の訴訟によって原告が提起した問題は、来年から裁判員制度が敷かれる上で意味のあるものである。

 今回高裁の行った判断は実名報道の相当性を容認しているものであり、実名報道をするなと言っているものではない。ただ一方的な実名報道によって、無罪推定を受けている容疑者を犯人扱いするすることを「戒めた」だけである。したがって、報道の萎縮効果を生むという批判は当てはまらない。報道する側も節度を持って、極力公正かつ客観的に報道するべきだ、という程度に過ぎない。



 来年から裁判員制度が開始される。無罪の推定のはたらく容疑者を徒に犯人扱いし、面白おかしく仕立てて報道する最近のマスコミの報道傾向に釘を刺したものと言える。

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